明治・大正ガラスの代表はランプ、瓶、吹きガラスの氷コップなどです。
日本人にとってランプは西洋文明を象徴する物で、特にガラスのホヤのついたランプは重宝されました。ランプには高級な座敷ランプ、卓上に置く台ランプ、室内を照らす吊りランプ、携帯用の豆ランプなどがあり、手先の器用な日本人は西洋ランプを模して、グラビュールや切り子、ぼかしなど様々な技法を使って、ホヤを製造しています。
明治20年代、ガラスの量産が始まります。しかし、当時は手吹きで一点ずつ作っていたので大量生産は不可能でした。それが可能になったのは機械化が始まった明治末期です。
明治時代末期、日本は文明国の仲間入りをします。ガラスの製造機械が輸入され、ガラス製品が大量生産できるようになりました。当時、ガラス製造ができた国は西洋列強と日本だけです。先進国でなければガラス製品は作れませんでした。現在、日本には明治・大正時代のガラス製品がたくさん残っていますが、それは誇るべきことです。
大正時代、ガラス瓶が飲料水や薬品を入れる容器として普及します。ガラス製品を使用することは衛生上、良いことで、ガラス製品は医学、化学、薬学など、科学分野を発展させました。劇薬などを入れるガラス製薬は青や茶色など目立った色が付いています。これを収集するコレクターもいます。各地に残る江戸時代の蘭医の屋敷には西洋製のガラス瓶が残っています。それを見ていると、江戸時代の医学の様子がわかります。
飲食に目を向けると、ガラス製品には氷コップ、コンポート、鉢、飲料水のビン、コップ、酒器、皿などがあります。その中でも現在、骨董ファンに人気があるのが氷コップです。
日本人が氷を食べる歴史は平安時代に始まりました。清少納言の「枕草紙」には「あてなるもの(上品なもの)」に「削り氷にあまづら(甘葛)入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記されています。
近代に入ると、1869年(明治2年)、横浜の町田房造が氷やアイスクリームの販売を始めます。明治20年代、人工氷の生産も始まり、かき氷も一般化して、大衆的なものになりました。村上半三郎が氷削機を発明して特許をとりますが、それが一般化するのは昭和初期です。昭和初期のかき氷は砂糖をふりかけた「雪」、砂糖水をかけた「みぞれ」、小豆餡をのせた「金時」の3種類で、色のついたシロップを使用するようになったのは戦後です。ですから、大正時代の氷コップには透明なかき氷がのっていました。
明治時代、かき氷を入れる容器は剣先コップと呼ばれるコップでした。当時、アイスクリームは高級品だったので小さめの氷コップに盛られていたようです。
戦前のガラス製品には、吹きガラスと機械によって生産されたプレスガラスがあります。
明治末期頃からプレスガラスの機械が輸入されて大量生産が始まりました。古美術の世界では手作り感のある個性的なガラス製品に人気が集まっていますが、当時は機械を使って生産されたガラス製品のほうが手づくりの物よりも高価だったようです。現在では、それが逆転しています。
日本人がガラス製品を生産した理由は西洋文明に追いつくため。その他に日本人の感性によるものが大きいと思います。季節を大切にする日本人はガラス製品にも四季の感性を導入しています。日本人はガラス製品を夏物と考えていたようで、多くのガラス製品は涼感を出すような工夫されています。古美術店では夏になるとガラス製品を出して涼感を演出します。逆に冬季は漆器です。
日本の伝統芸能といえば茶道ですが、明治時代、茶道界では水差しや菓子器などにフランス・バカラ社のガラス製品を導入しています。保守的だと思える茶道が先進のガラス製品を使用しているのは興味深いことです。
戦前、中国や朝鮮はガラス製品を生産していません。西洋文明の導入が遅れたこともありますが、保守的な彼らは陶磁器にプライドを持っていたのでしょう。日本はガラス製品を生産、使用することで他国よりも先に近代化しました。
ガラスを使用する国は、政治的にも自由さがあります。ガラス製品は、それを使用する民族に透明な感性を維持させるのでしょう。ガラス製品が一般に普及した大正時代、日本人がデモクラシーを完成させています。「ガラス張り」という言葉がありますが、ガラス製品に慣れていた大正時代の日本人は透明性を確保していました。それが変質したのは昭和10年代、軍部が権力を握ると、政治に不透明感が漂います。太平洋戦争が近づくにつれ、ガラス製品は激減します。 (続く)
|