このページは2020年1月11日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第64回 アンコール講座H『神道・道教美術』 (1) 神道の概念

明けましておめでとうございます。今年も骨董講座をよろしくお願いいたします。
昨年、元号が平成から令和に変わりました。元号の紀元は中国ですが、日本の改元には神道が関係している。それは天皇が本来、神道の呪術師だったからです。しかし、日本人自身、天皇や神道についてはあまり知らない。
新年の最初の骨董講座は「神道・道教美術」です。この講座は2015年の行った講座の再現です。あれから5年経っていますので内容を少し変えています。
神道は日本人になじみの深い宗教です。戦前の皇道思想・教育の弊害で戦後はあまり語られることがありませんでしたが、最近はアレルギーも薄れ、パワースポットブームで神社が再認識され、京都の伏見稲荷大社は外国人が訪れたい名所のNO1となっています。私が最初に伏見稲荷を訪ねたのは1989年、バブル時代。日本人は好景気に浮かれ、「趣味は寺社巡りです」というと、「地味な趣味ですね」と言われたものです。バブル時代は祈願する人以外いませんでしたが、今は原宿の竹下通りのように大勢の観光客で賑わっている。閑散としていた時の方が良かった。「神社は面白い」と言っても誰も耳を貸してくれなかったのに、時代は変わりました。
私が神道に興味を持ったのはフランスに留学していた時です。友人のフランス人に、「仏教や神道について説明してくれ」と言われました。仏教については説明できたのですが、神道については説明できなかった。それで、「日本古来の宗教を説明できない自分は本当に日本人だろうか?」と自問自答しました。
「神道とは何か?」を追求していくことは「日本人の宗教文化とは何か?」を問うことです。それを追求するうちに、私はいつの間にか骨董屋になっていた(笑)。ですから、神道研究をしているうちに、私は骨董屋にないました。日本で勉強をして1年後に、フランスに戻ろうと思ったのですが、神道を理解するまでに30年間かかり、結局、フランスに戻ることができませんでした。でも、「神道とは何か」を研究するのは楽しかったですね。
神道を簡単に説明すると、
【1】自然崇拝をしていた縄文人が崇めていた場所
【2】天候などの自然
【3】文化や技術を持った人々が渡来して神として祀られた
【4】あるいは日本で生まれて人々を指導して神となった人々、氏神などを祀る場所に、社や目印(鳥居、しめ縄)などを設置し、崇拝する宗教です。
これらは2015年に考えた概念ですが、今回、「神道は中国古来の道教」という概念を【5】として導入しようと思います。
【1】の代表は富士山、那智の滝、春日の森など。【2】の代表は風神・雷神など【3】の代表は日本に機織りを伝えた呉織・漢織姫を祭る神社(池田市)【4】の代表は北野天満宮(菅原道真)、明治神宮(明治天皇)、東郷神社(東郷平八郎)などです。古代から日本は移民国家だったので、【3】と【4】を区別するのは難しい。宇佐八幡宮に祀られている応神天皇などは日本生まれで百済王と倭王を兼ねていたので、近代国家の概念では説明し難い。そもそも、その頃、日本人や朝鮮人は地域国家の概念しか持っていません。大和朝廷といっても、奈良周辺を支配する地域国家にすぎない。「何を言っている、応神天皇は日本人だ」、「応神天皇は百済王ではない」と言う人は歴史の勉強をしていない人です。考古学の見地から見ても、このことは証明できます。しかし、ここで政治的なことを話すと問題が起こるので、私の意見は個人的見解、仮説として聞いていただきたいと思います。
そして【5】については日本人が中国文化を保存する傾向が強いことがあげられます。私のイメージでは現在の神道の起源は唐の道教にあると考えています。それが770年、解禁された修験道と合体して和風になった。それで、日本人は神道を自然崇拝(アニミズム)と勘違いする。これは【1】の聖地崇拝から来ています。各地の神社には実際に実在の人物を祀っている場合が多いのですが、それが地域と合体し、聖なる場所となっているので自然崇拝と勘違いしてしまう。例えば、春日大社は武甕雷(日本武尊か雄略天皇?)が祀られています。神社があるので春日の森は神聖な場所となった。しかし、春日大社にお参りをする人はそこに誰が祀られているのか、ほとんどの人は知りません。春日の森にいる神様にお参りしている感覚なのです。神社の歴史について簡単に説明しましょう。
[1]縄文人が崇拝する山や川があった。
[2]その周辺で祭祀が行われ、ストーンサークルなどの目印を立てた。
[3]渡来人が来て、領地意識が芽生えてしめ縄などの結界を作った。それを氏神とする。
[4]仏教が入ってきて、聖地の前に拝殿が設けられた。
[5]祖先の神社から勧進して都に神社を創建した(春日大社)
[6]中世になると寺院に対抗して各地の豪族たちが神社を崇拝した(八幡宮、稲荷社の拡大)
日本には約80000の神社があるといわれています。そのうち、八幡社が約8000、伊勢社が約4500、天神社が約4000、稲荷社が約3000、熊野社が約2500で、上位5社で神社の3割弱を占めていることになります。関東には八幡社が多いのですが、これは源氏が八幡信仰をしていたからです。武士たちは自らの権力を京都の朝廷から守るために八幡神を勧進しました。

             

(2) 各神社の歴史

神社の原型は東北地方で紀元前2000年頃から流行したストーンサークルです。ストーンサークルは太陽信仰の遺物です。これが後に天照大御神になります。縄文人の信仰が弥生文化を吸収して神道化したのです。
長野県の諏訪には御柱祭で有名な、建御名方を祀っている諏訪大社があります。諏訪地方に、「もともとミシャグチが地元の神であったがいたが、建御名方が諏訪地方を制圧して新しい神となった」という言い伝えがあります。ミシャグチというのは御石神(ミセキジン)、石柱です。
日本の神話には出雲が天孫族に国譲りをしたという話がありますが、これは渡来した弥生人が縄文人に代わって新しい文化を広めた話です。出雲の語源、イツマは「イツの世界」で日本海沿岸を意味します。古代出雲はその地域を支配していた。そこに武(タケ)と呼ばれる騎馬民族が渡来して、新しい支配層になる。鹿島神宮に祀られている武甕雷、諏訪大社に祀られている建御名方は共にタケがつきますが、彼らが4世紀、東日本に進出した日本武尊の一族です。さらに、彼らのルーツを辿ると紀元前1世紀に活躍した金イルチェであることがわかります。
この石神信仰が4世紀前半、磐座信仰に発展します。その代表は奈良県にある三輪山信仰、福岡県にある沖ノ島信仰(宗像大社)。古代人は4世紀、岩場(目印)を聖域に形成することを思いつきました。これは古代日本人に国家や領土意識が芽生えたことを意味します。磐座がある場所はやがて神奈備山に発展、山が見える領域に人々が住むようになり、一族のトーテムを神獣として祀り、禁足地が誕生します。
騎馬民族の神話には神が神木(神樹)に降臨する話があります。縄文人が崇拝していた石神は半島人の渡来により、依り代としての木神に変容し、さらに変化して榊など、神籬信仰が発生しました。
4世紀前半、中央アジアからクチャ族(葛城氏)、サカ族(蘇我氏)が渡来、彼らは北部九州の金氏(武氏)と協力して近畿地方に進出します。近畿の語源は金城です。ちなみに韓国の慶州のオリジナルの名前は金城です。クチャ族は北部九州の金氏と結び付くと宇佐八幡を建立、氏族の根拠地としました。宇佐八幡宮の後ろに御許山という神奈備山がありますが、私はその山に葛城氏の祖、葛城高糠姫が埋葬されていると考えています。応神天皇の一族は宇佐八幡宮を根拠地にして東に向かい、大和の支配者になった。これが「日本書紀」に書かれている神武天皇の東遷物語です。北部九州には神功皇后、応神天皇、武内宿禰を祀る神社がたくさんあります。それは彼らの根拠地が北部九州だったからです。ですから八幡信仰を持っている源氏の祖先は北部九州出身であることがわかります。
日本書紀には出雲系民族の国譲りの神話が載っています。これはイザナギ、イナザミを崇拝していた出雲族が応神天皇系の人々に国を奪われる話です。イザナミ、イザナミはイズモノキ、イズモノミが変化した言葉で、両者の意味は「出雲の神木と神水」です。出雲族は男女2神の結合によって日本列島が誕生したと考えていました。奈良県天理市の石神神宮は布都御魂大神(応神天皇)祭っていますが、もともとはイザナギ、イザナギをお祀りしていた神社でした。
それでは、布都御魂大神が石上神宮に祀られるようになって以降、イザナギ、イナザミはどこに行ったのか? 答えは伊勢です。イザナギ、イザナミのイザは伊勢の語源、それをさらにさかのぼると出雲(イズモ)、伊都(イズ、イト)にたどり着くことができます。
支配層が変わった4世紀前半、応神天皇系の民族が大和を支配すると、旧勢力である大和系民族(卑弥呼の一族)は、それに対抗するために移動して伊勢信仰を復活させます。
一度は衰退しかけていた伊勢信仰は、渡来人の道教・儒教信仰を吸収し、和風な神道に発展するのです。
宇佐八幡宮の御神体は八色の旗。ですが、現在の天皇家の三種の神器には採用されていません。これは天皇家が崇拝する三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣)よりも新しいからです。八咫鏡は伊勢神宮系、八尺瓊勾玉は出雲大社系、草薙剣は熱田神宮、鹿島神宮系の宝物です。
古代日本を代表する氏族に秦氏がいます。秦氏は渡来人であることが定説となっていますが、彼らの代表が応神天皇でした。だから八幡は、「八つの秦」を表しています。前述したAの呉織・漢織姫神社(池田市)などは秦氏が建立した神社です。
ちなみに神社の概念は、秦氏が日本に定着させました。と、言うより、秦氏が日本の宗教を整理・統合して発展させたという方が良いかもしれません。それまで、バラバラだった倭の宗教を彼らが明確にした。
日本に神道が導入されると、それぞれの氏族は氏神を持つようになります。氏神信仰は祖先を崇拝することから始まっているので、日本人一人一人にはそれぞれの氏神があります。しかし、氏神信仰は時代とともに薄れて行き、やがて日本人は自分の氏神社がどこであるか不明になりました。それで、自分の一族を滅ぼした敵の氏神に祈祷する不思議な光景に出合うことになります。歴史に弱い日本人の特徴が表れていますね。

           

(3) 神道美術と神仏習合

神道美術がどのように発展したか見てみましょう。神道美術の最初の作品は石神(陰陽石)でした。骨董屋に行くと時々、縄文時代の男性器の石棒と女性器に見立てた石臼に出会うことができます。石神はたくさんあるので珍しいものではありません
弥生時代に入ると三種の神器である銅鏡、銅剣(銅鐸)、勾玉が登場します。どれも大陸から伝わってきた物です。それをまねて作ったのが、「三角縁神獣鏡」。この鏡は和製で邪馬台国が各地の豪族に配布するために造らせた物、一種の威信財です。
それ以前の威信財は東日本では銅鐸、西日本では銅剣でした。出雲の荒神谷遺跡から、銅鐸と銅剣が大量に出土しています。これは出雲族が列島の支配者だったことを証明できます。
ところで、邪馬台国はヤマタイコクと発音するのではなく、ヤマトキョクと発音します。魏志倭人伝に台与(トヨ)という2代目女王が登場しますが、台与はタイヨとは発音しません。なぜ、日本人が邪馬台国をヤマタイコクと発音するか? それは昔の人たちの考古学の概念が未発達だったからです。そろそろ、邪馬台国をヤマトコクと発音しても良い時期なのですが、考古文献学者は馬鹿なので直そうとしません。
この時代の祭器に三輪山や沖ノ島など、各地の神奈備山、磐座から出土した三種の神器のミニチュアがあります。
初期の神道美術品に、石上神宮に所蔵されている「七支刀」があります。この刀は応神天皇、あるいはその兄が誕生した時に父の百済王が送ったものです。七支刀には372年の文字が刻まれて貴重な資料となっています。
また、この時代を考察するうえで欠かせない宝物に丹後半島の籠神社の「海部氏系図」があります。この系図は平安時代に記されたものですが、海部氏の祖先は卑弥呼の時代まで遡ることができます。
埼玉県稲荷山古墳から出土した象嵌刀、熊本県江田船山古墳から出土した象嵌刀、和歌山県橋本市の隅田八幡神社にある「隅田八幡神社人物画像鏡」も貴重な宝物です。これらの遺物には文字が書かれており、古代史の貴重な資料となっています。
6世紀、日本に仏教が伝来すると神道美術にも影響が及びます。蘇我氏と物部氏の争いは仏教容認をめぐる争いと記述されていますが、両者とも仏教容認派なので、それは脚色です。蘇我氏はサカ系、物部氏はクシャーン系なので民族争いが起こったのです。この争いは後世、源氏と平氏、大覚寺党と持明院党、応仁の乱の西軍と東軍の争いに発展します。
京都市にある広隆寺の弥勒菩薩像は有名ですが、これは物部氏が崇拝していた仏像です。弥勒菩薩は三国時代、新羅が崇拝した仏像で百済や高句麗にはありません。弥勒菩薩の原型はゾロアスター教のミトラス神(牛神)で、指の形は牛の頭を表しています。現在も広隆寺では神道行事の「牛祭り」が行われていますが、これは神仏習合の名残です。ですから、弥勒菩薩は仏像というよりも神像といった方が正確かもしれません。
日本で最初に本格的な神社建築が創建されたのは768年の春日大社。それまで神域には小さな祠や社がありましたが、建物はありませんでした。何故か? 
それは「日本書紀」や「古事記」が編纂されるまで、日本に自分たちの祖先を崇拝する思想がなかったからです。それまで大陸や半島から渡来してきた人々は、あっちの祖先を崇拝していた。天武天皇を継いだ文武天皇の時代まで、それは続きました。
奈良県明日香村に行くと道教祭祀に使った石の遺跡を見ることができます。斉明天皇や天武天皇陵は八角形なのですが、八は道教で最も重要な数字なので、彼らが道教信奉者であることが理解できます。ちなみに奈良市の興福寺や法隆寺には八角堂があります。これも道教の影響です。
日本の朝廷の和風化を最初に行ったのは藤原不比等です。彼は天才的な政治家です。彼の遺志をついで創建されたのが、春日大社でした。
894年、菅原道真が遣唐使を廃止すると、日本は神仏習合の時代を迎えます。その頃、氏神を祀る神社がたくさん創建、神像が大量に生産され、自分たちが日本人であることを意識するようになり、和風が誕生します。平安時代に登場する御正体などは銅鏡を祀る神道と仏教が融合した美術品です。鎌倉時代以降、仏教は観念性を帯びますが、美術品は神仏習合の影響を受けながら発展します。

           

(4) 近世・近代の神道・道教美術

神道が一般庶民に浸透したのは室町時代です。農村の出現、農業など産業の発達によって様々な神社が崇拝されるようになりました。開墾の神としての八幡神、農業神の稲荷社、学問の神としての天満宮などに人気が集まります。 江戸時代、戦乱の世の中が終わると、各神社は「商売繁盛」、「五穀豊穣」、「家内安全」など、スローガンを前面に出し、伊勢講、熊野詣など、自社の勢力を拡大させるためにさまざまな工夫を行い、信者を集めました。村では農作に、町では職能にまつわる祭事が行われるようになり、神道は活気を呈します。江戸時代も神仏習合だったので、寺院でも神道行事が行われました。寺院内に神社が設けられ、そこで祭事が行われました。東京・浅草の三社祭りは寺院である浅草寺の神道行事です。
江戸時代の代表的な神道美術品に恵比寿大黒像、お札があります。
大黒天はもともとインドから伝来した仏教の神様ですが、出雲信仰と習合して神様に変身します。17世紀後半、北前船が整備されると出雲の主神・大黒様と西宮の主神・恵比寿神が一対で祀られるようになります。それに北斗七星信仰が合体して七福人崇拝が生まれます。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋が七福人ですが、この中で日本の神様は恵比寿様だけです。大黒天、弁財天、毘沙門天はインドのヒンドゥー教の神様、福禄寿、寿老人、布袋様は中国の道教の神様。各国の神様を現世利益のために信奉するところに日本人独特の感性を見ることができます。これにサンタクロースを加えて八福神にしても日本人はすんなり受け入れるでしょう(笑)。
江戸時代、神社はお札を発行しています。お札の主流は朱印や御祭神を版画で刷ったものです。各神社のお札を見ていると江戸時代には様々な神社があり、祀られているご祭神も多彩です。
現代になると、さらに神社はユニークになる。四日市市にある保曽井神社はダイエットの神様、愛知県田原市にある田戸神社はイボ取りの神様、南阿蘇にある宝来宝来神社は宝くじの神様……、神社のご祭神にはいろいろな方がおられますね。
ところが明治時代になると、奇妙な神様は廃止されます。町にあった男女性器の道祖神は撤去され、代わりに明治の元勲、戦争で神となった軍人の神様が登場します。東京にある東郷神社、乃木神社などがその代表です。
昭和時代になると神道は国家が唱える皇道神道以外は異端とみなされるようになります。スサノオを崇拝していた大本教などは権力によって解体されてしまいました。この時代の遺品に帝国陸軍の将校たちが身に着けていた五芒星があります。五芒星は世界中で魔除けとして使用されました。日本で五芒星を広めたのは陰陽師の安倍清明です。京都市にある清明神社の神紋は五芒星です。
戦後、皇道思想の反動で日本人は神道にアレルギー反応を起こし、神道に興味を失いました。しかし、1990年代になるとアレルギーも薄れ、神社などを巡るパワースポットブームや安倍清明を代表とする陰陽師ブームが起こり、若者の間でも神道に対する関心が広まりました。現在、伏見稲荷社は、東大寺などの仏教寺院をおさえて、外国人が行きたい名所の一位に輝いています。
最後に神道・道教の古美術品との関わり方についてお話したいと思います。
数十年前まで、仏教や神道美術は宗教的な崇拝対象として捉えられていました。お客様の中には、骨董品には念がついている、と疑われる方もいらっしゃいました。しかし、現在の日本は自由な信仰国家なので、宗教に対するとらえ方は人それぞれです。念がこもっていると嫌に感じるのであれば、宗教的な古美術品は身近に置く必要がありません。かといって、人の趣味にケチをつけるのも野暮です。お客様の中には霊についてほしい人もいらっしゃるのですから……(笑)。
アフガニスタンで過激なイスラム教徒がバーミヤンの仏像をダイナマイトで爆破しました。これは宗教を信仰する人の排他的な悪い面が出ています。日本人は昔から伝来してきた宗教に寛容な民族です。ですから、感性が豊かになるのであれば、宗教的な古美術品を身近に置くのも有意義だと思います。

           

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