このページは2019年1月12日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第54回 アンコール講座A「日本の陶磁器・古民芸」 
(1) 縄文土器と弥生土器

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。2019年最初の骨董講座は「日本の陶磁器・古民芸」のアンコール版です。この講座は5年前に行ったものですが、最近の陶磁器感を導入して新しい講座ができたらと思っています。基本は5年前の講座ですが、ところどころ変更していますので、以前の講座も参考にして、日本の陶磁器のことを理解してください。陶磁器には次のような種類があります。

・土器 (無釉700〜900度)
 粘土を野焼きで焼いた物。素焼きの焼物で吸水性がある。縄文土器、彩文土器。
・陶器 (施釉薬1100〜1200度)
 窯で焼き、施釉した吸水性がある焼物。粗陶器、精陶器がある。楽焼、瀬戸焼、信楽焼。
・b器 (焼き締め1200〜1300度)、
 釉薬を掛けない吸水性がない陶器。原料に珪酸、鉄を含むので赤褐色、黒褐色に焼成される。須恵器、備前焼。
・磁器 (1100〜1300度)
 カオリンを含んだ粘土を原料にした焼物。吸水性はない。伊万里焼。

日本で土器の製作が始まった紀元前12000年頃。氷河期が終わり、ナウマン象のような大型哺乳類が絶滅し、主食が小獣、果実に移った時期で、日本の土器は世界的に最も古いとされています。最初期の縄文土器は尖頭土器で、土に埋めて安定させるために下部がドングリのように尖っています。それに穀物や木の実を入れて煮て食べたり、木の実の貯蔵用にも使用しています。撚糸を土器表面に回転させた模様がついており、彩色はありません。材料の土には壊れにくくするために動物の毛などが練り込まれています。
青森県にある三内丸山遺跡は前期(紀元前4000〜2000年)の遺跡で、縄文人は2000年間、ここで定住生活を送っています。前期後半になると日本列島各地で自然環境に合わせた模様、海辺では魚介類、山中では火炎や星の運行などをデザインした土器の製作が始まりあした。その後、気候変動が起こると(後期・紀元前2500〜1300年頃)、北日本に住んでいた縄文人の西へ移住し、呪術的な土偶、火炎土器、貝塚などが出現します。縄文人の特徴は戦争がない、米で作った酒を飲まない、環境変化によって移住するなどの特徴を持っています。
日本人が稲作を始めたのは紀元前300年頃です。稲作開始を紀元前800年とする説を唱える人もありますが、集団で稲作を始めたのが紀元前300年頃だと考えればよいでしょう。稲作を伝えたのは大陸や朝鮮半島から渡来人たちで、水田稲作は九州に上陸すると100年間で日本列島全域に広がります。稲作が広まると日本各地で弥生土器の製作が始まります。稲作が伝播し拡散すると、列島に貧富の差が生まれ階級社会が出現、中国大陸の国家主義が日本列島にも波及します。
当時、弥生土器は祭器として用いられたようで、弥生人は土器と漆器を並行して使用していました。
弥生時代は身分制を採用したので戦争があり、人々が米酒を飲み、定住生活をする特徴があります。
一般的に弥生時代には日本人全体が稲作をしているようなイメージがありますが、米は雑穀の一種で、主食ではありません。弥生時代になっても日本人は狩猟・採集を中心に生活を営んでいました。
3世紀中頃、初期大和政権が誕生すると、規格型の前方後円墳、弥生土器よりも薄い土師器が造られるようになります。同型の土師器が関東地方以西で出土するので、土師器の分布をみると大和政権の領域が把握できます。
5世紀前半、中国大陸で混乱が起こる(五胡十六国時代)と、大陸や朝鮮半島から大量の渡来人が日本列島に移住してきます。彼らは須恵器、かまど、馬、鉄器、文字などの大陸文化を日本にもたらしました。当初、須恵器は朝鮮半島南部の伽耶や新羅から持ち運ばれていましたが、九州から近畿地方の分布図を見ると渡来人たちの移動ルートを把握することができます。これは「古事記」や「日本書紀」の神武天皇の東遷と重なっています。渡来人たちが列島に定住した後、各地の登り窯で製作されるようになります。須恵器は保水性があるので、酒を入れる容器として使用されたのでしょう。かまどの伝播とともに麹も輸入され、日本酒も造られるようになります。同時期、日本人は鉄の生成を始めます。たたら場の職人は鉄の生成をしない時期に須恵器の製作をしていました。
6世紀、仏教が伝来、寺院が造られるようになると、日本人は屋根瓦の製作を始めます。同時に文字を使用し、隋や唐、新羅などの外国と交流するようになります。奈良時代、平城京で党の影響を受けた奈良三彩が製作されています。
奈良三彩や釉薬を掛けた青瓷や白瓷は貴族の使用品で、10世紀まで、日本人は木の器を中心に須恵器、土師器を併用していました。
12世紀、平安時代に日本は宋から大量の陶器を輸入しています。

         
縄文土器      弥生土器      須恵器     奈良三彩     宋時代青磁    宋時代白磁

(2) 中世・近世の陶磁器

12世紀後半、武士が政権を獲得すると、陶器の世界に変化が起こります。彼らは自分の勢力圏に鍛冶場を作り、そこで陶器の製作をしました。中世の窯場に「六古窯」(瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波焼、備前焼)と呼ばれる焼物がありますが、近隣には名刀を製作した鍛冶場があります。
六古窯が主に製作した焼物は壺類で、食器はあまり作っていません。平清盛の時代、日本社会は貨幣経済が導入されます。それを貯蔵するために六古窯の壺が使用されたようです。日本に木材が豊富なので中世食器の代表は木工品。壺を作った目的は銭や種もみを貯蔵する、水を溜めるためでした。ちなみに壺(つぼ)の語源は、粒(つぶ)という説もあります。
16世紀、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った時、武将たちは多くの朝鮮人陶工を日本に連れて帰ります。現在、韓国の人達はそれを強制連行だと考えていますが、陶工たちは江戸時代に帰国が許されても日本に残っているので、彼らは自分たちの意思で日本に移住したようです。渡来した朝鮮人陶工たちは各藩のお抱え技術者となり、日本の陶器を発展させました。九州地方の唐津焼、高取焼、上野焼、薩摩焼など、中国地方の萩焼などは朝鮮人陶工が中心となって開かれた窯です。
この時代茶陶が出現します。室町幕府や織田信長は唐物を重宝しましたが、茶陶の需要に対応するために秀吉は利休に命じて和物茶陶を開発させます。利休が指導して焼かせたのが楽焼、瀬戸焼、織部が指導して焼かせたのが美濃焼です。茶道の精神が陶器に導入されたのと、朝鮮人陶工が渡来したことによって、日本の陶器に多様性が生まれます。この時代の日本は外国と貿易を行い、金持ちの国になったことが陶磁器の多様性を生んだ理由です。
17世紀前半、明が滅亡の危機を迎えると、景徳鎮から中国人陶工が渡来しました。彼らは九州の有田周辺で磁器生産を始めます。伊万里焼誕生のことは前回の「骨董講座 伊万里焼」で話しましたが、明の陶工が渡来して伊万里焼の大量生産が始まります。明の復興運動と東インド会社の思惑が一致して、有田での磁器生産が軌道に乗ります。話は変わりますが、日本人が青を考えている色は昔、青ではありません。なぜなら13世紀、元が中東からコバルトを輸入して染付磁器を生産するまで、中国にはコバルト色がなかったからです。12世紀まで、中国人は青磁を「緑色」と考えていました。ですから中国の青磁と染付の色は区別して考えるべきです。コバルトは高価なのですが、日本は金銀を輸出してコバルトを輸入しました。
江戸時代前期、有田焼は一気に開花、ヨーロッパの王侯貴族の嗜好品となりました。日本人が短期間で陶器産業のトップに躍り出たのは手先の器用さ、技術力(例えば日本刀、鉄砲を大量生産する技術)があるからです。
17世紀前半、長次郎、本阿弥光悦、後半、尾形乾山、野々村仁清など、個人が独創的な陶器を作ります。個人名が残っているのは、ほとんどが京都の陶工。江戸時代の陶器を分類する時は、個人が作ったか、集団で作ったのかを把握すると陶磁史が把握しやすいでしょう。後者の代表は伊万里焼で、伊万里焼の製品は生地師、絵師、陶工など、数人がかりで一つの製品を仕上げます。陶器の場合は、一人の作家が作る場合が多い。
1800年前後、幕府の規制が緩むと、日本各地の陶工が有田に潜入して技術を取得し、四国の砥部焼、中部地方の瀬戸などでも磁器が焼かれるようになります。現在、磁器のほとんどが「伊万里焼」で総称されますが、厳密に言うと、地方窯の作品もたくさんあります。磁器を焼いた代表的な窯を列挙します。
・平佐焼(1776年 薩摩) ・須江焼(筑前 1780年頃) ・小峰焼(延岡 1790年陶器製造許可)
・砥部焼(1777年 伊予) ・三田焼(播磨 1789年)
・京焼染付(1781 奥田穎川) ・瀬戸(1807年 尾張 加藤民吉)
・平清水(1844年 山形)
これを見ると1780年前後に磁器の技術が日本全国に広まったことがわかります。時代的に言うと寛政時代ですが、それ以前の田沼時代に「天明の飢饉」で財政的に圧迫された江戸幕府・田沼意次が殖産興業を発展させるために磁器生産を許可したのでしょう。

         
瀬戸焼      信楽焼        楽焼         織部      美濃焼      初期伊万里

(3) 江戸時代の陶器の展開

陶器は大きく分類すると茶陶、雑器に分けること、さらに茶陶は京都の公家・町人系、列島各地の武家系に分けることができます。京都の茶陶作家の系譜を見ると長次郎、本阿弥光悦、野々村仁清、尾形乾山、永楽和全・保全、奥田穎川、青木木米、仁阿弥同八などがいます。一方、武家の茶陶は「遠州七窯」が代表的な窯。志戸呂焼(遠江)、膳所焼(近江)、赤膚焼(大和)、朝日焼(山城)、上野焼(豊前)、高取焼(筑前)。で、七窯の近隣でお茶の生産が行われました。
江戸時代は士農工商の封建社会がはっきりしており、使用できる陶磁器も規制されていました。高級な陶磁器は武家や公家など上流階級の5パーセントの人々が使用、残りの95パーセントの人は雑器を使用しました。各藩は御用窯を設けて藩主用、献上用の陶磁器を作っていますが、その代表は鍋島焼(肥前)、薩摩焼(薩摩)、源内焼(讃岐)、御深焼(尾張)、八代焼(肥後)などです。特に鍋島焼は有名で、鍋島藩は厳重に製法を秘密にして枚数制限をして希少的価値を高めました。江戸時代中期まで庄屋以外は磁器を使用ができなかったようです。有田で生産された伊万里焼は北前船に乗せられ各地に運ばれました。
磁器窯の拡散が始まった18世紀後半、各藩は殖産として陶器生産を行いました。その頃、一般庶民が生活に使用した陶磁器は現在、古民芸品と呼ばれています。磁器の中に波佐見焼の「くらわんか」や瀬戸の石皿は今でも人気があります。
陶器の技法には成形、刷毛目、絵付、吹墨、叩き成形、象嵌、摺絵、掛け流し、釘彫りなど様々な技法があり、日本人はあらゆる技術を駆使して茶陶や民芸作品を製作しました。特徴のある技法を使った地方窯、国焼の代表を上げてみましょう。
成形・備前焼 刷毛目・現川焼 絵付け・九谷焼、薩摩焼 象嵌・八代焼
摺絵・御深井焼 掛け流し・小代焼 釘彫り・小石原焼 いっちん・丹波焼
これに藁灰釉、鉄釉、緑釉など色とりどりの釉薬を掛けて、陶工たちは作品に表情を持たせました。江戸時代の陶磁器を見ると、よくもまあ、これだけバラエティのある作品を作ったものだと感心します。
江戸時代末期になると多くの窯場が各地で開かれます。その代表が再興九谷焼。九谷焼は前田藩の財政をバックに文化年間(1804〜1818年)に春日山窯、若杉窯、文政年間(1818年〜1830年)に吉田屋窯、宮本窯、松山窯などを起おし、加賀は一台窯業地になりました。
1867年、前田家の支藩・大聖寺藩では産業振興の一環として、色絵伊万里写しを量産します。明治時代に入って大聖寺窯で作られた作品は外国人にも好評で本場のしのぐ勢いを示しました。また九谷窯の方でも輸出用の製品作りが始まり、伊万里写し、薩摩写しなど各地の様式を取り入れた製品を作っています。
明治時代になると藩の庇護を失った窯場は民営化され、職人の移動が始まります。陶工はより良い賃金、環境を求めて移住します。有田の陶工たちは瀬戸、大聖寺などに移住したので、伊万里焼は存亡の危機を迎えます。そのような状況の中、伊万里焼復興に尽力したのが、深川栄左エ門一族や富永源六たちです。ちなみに現在、宮内庁御用達になっている深川陶器は、磁器製「絶縁がいし」を日本で初めて作った会社です。
明治時代、文明開化の波が西洋から押し寄せ、庶民の生活が欧米化すると、文化的な反動が大正時代末期に起こります。その運動を推進したのがイギリスのアーツ・アンド・クラフト運動の影響を受けた柳宗悦です。柳宗悦たちが濱田庄司、河合寛次郎らとともに各地の民芸品を紹介し、民芸の美を理論化しました。

         

(4) 日本陶器の特色

最後に日本陶器の特色を時代ごとにまとめてみましょう。縄文時代は渦巻き型の曲線、弥生時代は安定型の直線が基本です。縄文土器は立体彫刻的、感覚的で、弥生土器は平面的、観念的。この2つの感性を発展させて日本人は多様のある陶磁器を作ってきました。同時代の中東や西洋の土器を見ると、体感的な土器よりも彩文のある観念的な土器が多いことに気づきます。そこに須恵器が入ると、日本陶器の基本形が揃います。縄文土器は雑器ではなく祭器として製作されましたが、弥生土器以降、土器、須恵器は一部を除いて生活用具の側面が強くなります。
日本人の食器は主な食器は木工品、漆器で陶器は別な祭器や特別な食器だったようです。
古代や中世の陶器を見ると、日本人は中国陶器の模倣ばかりしています。しかし、技術がなかったので逆に自然に則した日本人らしい自然釉はかかった陶器が生まれます。西洋、中国、朝鮮には自然釉を愛でる文化はありません。世界中で自然釉文化を持つのは日本だけです。日本人は歪みや釉はげを景色として鑑賞しますが、他民族にそのような感覚はありません。その延長線上に金繕いの文化が発生しました。個人的な意見ですが、そのような感覚は縄文時代に身に付いたと考えられます。桃山時代、藤堂高虎が指導して焼かせた「藤堂伊賀」という作品があります。ひしゃげた水差しが有名で、窯場の中で自然に歪んでしまった物を直して水差しにしたもので、これが日本人の美意識を象徴しています。
千利休が興した茶道はどちらかというと禅宗味があるので観念的。一方、藤堂伊賀は体感的で、縄文土器に近い感覚です。利休が長次郎に作らした赤楽茶碗の色を見ると、弥生土器や朱漆器を思い起こします。そう考えると千家の茶道は弥生的、藤堂伊賀は縄文的だということができます。利休の茶は弥生的なので、彼は権力志向の強い国家主義者だったのでしょう。
縄文系のキーワードは、「渦巻き、自然、黒茶、体感、真言宗(密教)」で、弥生系のキーワードは「方形 人工、白朱、観念、天台宗(顕教)」。日本の陶磁器は中国や朝鮮の影響を受けたと言われていますが、技術的影響を受けていても感性的にはあまり影響を受けていません。それは中国や朝鮮半島に歪みの文化がないことを見れば理解できるでしょう。彼らは文化を国家主義的なものだと考えますが、日本人は自然と融合した文化的な側面を持っています。
日本の陶磁器を理解するもう一つのキーワードは「季節感」です。各季節によって衣食住の装いに変化をつけます。日本人はせっかちと言われますが、それは季節の変化に随時、対応するからです。昔の日本人は1年を72期に分けて、それぞれの季節を楽しんでいました。
明治時代、西洋の一神教文化が流入すると、「日本人は同一民族だ」という概念が定着します。江戸時代、地方ごとに特色を生かした陶磁器が作られていましたが、明治時代に一時、消滅します。そのような地方の独自色を見直したのが、柳宗悦の興した民芸運動です。
戦後、一神教的な国家主義が消滅すると、日本人は再び、地方ごとの特色を再認識されました。それは地産地消や町おこし、ゆるキャラなどに通じるものがあります。
近年、インターネット社会の拡大によって日本人の感性は画一化しつつあります。観念的で、感覚や体感性が乏しい。このような時代、我々、日本人は江戸時代に作られた各地の陶磁器、民芸品に触れて、多様性を認識する必要があるでしょう。権威主義的、国家主義的ではない個性のある作品に触れると、日本人の多様性を再認識できるように思います。

           

上へ戻る