このページは2018年3月3日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第46回 古美術と社会学シリーズ⑥ 「古美術と現代の有機農法」
(1) ヒッピーが始めた有機野菜販売

西荻窪には1976年、有機野菜を東京では初めて販売した「長本兄弟商店」があります。 また、1977年、荻窪、吉祥寺に有機野菜を販売する八百屋「グルッペ」も誕生しました。 西荻周辺に初期の有機野菜を販売する八百屋があることは興味深いですね。 長本兄弟商店を始めた長本光男氏(通称ナモさん)は元ヒッピーで八百屋をする前は国分寺で「ほら貝」というロック・バーを経営した人で、「みんな八百屋になーれ」という著作もあります。
有機農法は1971年、農協役員の一楽照雄(1906年~1994年)が提唱した「豊かな地力と多様な生態系に圧冴えられた土壌から生み出されるべき農業のあり方」です。 このような考え方が登場した背景には「公害」や「農薬の害」などを人々が意識した1960年代後半の世相が反映しています。 1960年前後、日本は東京オリンピックや高度経済成長をきっかけにして工業製品に化学薬品を使用、農業の分野でも適応され、農家は生産性を上げるために人体への副作用を考慮することなく化学肥料を大量使用しました。 その結果、農薬が河川に流れ出して蛍やメダカなどの生物は死滅します。
また、政府が押し進める高速道路の建設等による自然破壊や工場から排出される科学物質による環境破壊、公害などが問題になったのもこの時期です。 1956年(昭和31年)、熊本県水俣市で「水俣病」が公式に認知された後、公害問題は日本全国に広がります。
1962年、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を発表すると環境運動が世界的な関心の的となりました。 日本人が本格的に環境対策を始めたのは公害問題が起き、大阪万国博覧会が開催された1970年前後です。 1971年には「ゴジラ対へドラ」という子供向け映画まで公開されました。
1974年、有吉佐和子が小説「複合汚染」を朝日新聞に発表、農薬と化学肥料の危険性が訴え、子供を育てる主婦層が大きな関心を示します。 この時期、地方の農家には封建制が残っており、長男が家業の農家を継ぎ、次男以下は都会でサラリーマンをする生活が一般的でした。 農協に属していた跡継ぎは農林水産長の指導の下、生産性を上げるために大量の化学肥料(農薬)を使用、高濃度の残留農薬のある農作物を生産します。 後に農水省は化学肥料規制を行いますが、当初は問題のある農薬使用を放置していました。
前述の長本光男氏は、宮沢賢治、「藁一本の革命」を表した福岡正信氏の影響受けた詩人の山尾三省(奄美大生在住)などと共に新しい有機農薬物の販売を西荻で始めました。 それは一般的な日本の農業(農協に属して行う組織化された農業)と一線を隔す手法でした。
近年、「食の安全」を思考する人々の間で、「有機農法(有機栽培、オーガニック農法)」の活用、「無農薬野菜」の利用頻度が高くなり、その概念も社会的にも定着したようです。
今では消費者の自然嗜好や環境配慮から有機野菜への関心が高まったので、生産者である農家も化学肥料の副作用、健康被害を認識し、生物農薬の使用を始めています。 しかし、1970年前後の有機農法はなかなか認知されなかったようです。
1995年、信仰宗教団体「オウム真理教」が「地下鉄サリン事件」を起こして大きな社会問題になりました。 この事件はヒッピー思想と近代科学を融合させた信仰宗教団体が起こした事件ですが、オウム真理教は人工肥料の農薬の成分からサリンを生産してました。 これは時代のエポックを象徴する事件で、人工肥料を使った農業や経済政策の限界、それらを利用して生産性を挙げる経済構造の行き詰まりを象徴した出来事です。
この頃から有機農法への社会的関心が高まり、古美術界では「何でも鑑定団(1994年)」の放送が始まりました。

           

(2) 食生活と骨董業界

1990年代半ば頃から外国産の輸入品が増えたので食の安全、有機農法に関心が集まります。同時期、中国の残留農薬の問題がクローズアップされました。 ご存知のように中国の高度経済成長期が始まると同時に、日本経済の「失われた10年」の時代に入ります。
日本の高度経済成長が始まったのは「所得倍増論」が掲げられた1960年頃です。日本はバブル経済時代を最盛期とした後、昭和型経済成長モデルの終焉を迎えます。 高度経済成長期の始まった時代と「何でも鑑定団」と有機農業に関心が集まった時期を骨董業界を重ねて考察すると世相が把握できます。
1970年頃前後、東名・名神高速道路が開通すると、新しい感性を持つ骨董業者が東京から近畿地方に伊万里焼、民芸品の買い出しを始めました。 さらに「日本列島改造論」ブームが起こり、日本全国に道路網が整備され、若い業者が田舎への買い出しに行きます。 新しいタイプの骨董屋さんの出現した時期と農薬問題が起こったのは同時期、若い骨董業者が流通的骨董業を担ったのと日本の自然環境が破壊されたのが同時期です。 若い骨董屋さんの活躍と経済は比例するように成長します。バルブ経済が崩壊すると同時に、伊万里焼の価値を世間に広めた中島誠之助さんは、「からくさ」を閉店しました。
1960・70年代、食生活に目を向けると、経済成長と共にインスタントラーメン、カップヌードル、マクドナルドなどのファーストフードが出現しました。 地方へ買い出しに行く新しいタイプの骨董屋さんは寝る間を惜しまず、食生活を制限して経済活動を行っていたようです。 「団塊の世代」のある骨董屋さんの若い頃の主食は、インスタントラーメンと缶詰だったと言っていました。
1980年代後半、バブル経済時代、日本は金融的には豊かでしたが商品構成、品揃えは貧相でした。これは日本の農業を守る国の政策に原因があります。 ビールといえばキリン、アサヒ、サッポロが主流、飲むことができる外国産のビールはバドワイザー、ハイネケン、青島ビールくらい。 フランスワインの数も限られ、バブル時代は「ボジョレー・ヌーボー解禁」で大騒ぎ。 バブル経済が崩壊し、1991年に牛肉・オレンジの関税が自由化される頃から、徐々に外国製品がスーパーマーケットに並ぶようになり、一気に輸入農作物が増えます。 日本人が残留農薬を問題にしたのも、外国からの農作物の輸入が増えたからです。 日本の食料自給率に変化が起きののもこの時期。 主食の米など自給率は1965年と現在も変わりませんが、牛肉、豚肉、乳製品などの畜産関係の食材に関しては和製品の需給率が一気に低下します。 さらに農業の生産額ベースを見ると1965年よりも現在は約2割生産額が減少しています。 牛肉、オレンジの関税が自由化された時期から日本人が使用できる食材も豊富になります。 エスニック料理という言葉が流行したように、東南アジアからも食材が輸入が始まりました。
この時期、日本人は田舎の蔵のなかにある生活用具にも価値があることを「何でも鑑定団」を見て認識、みんなで経済的人間に変容しました。 それによって大いなる勘違いも生まれ、骨董品の偽物、模倣品にさえ価値を見出すようになります。 真贋の判定をしなければ、それは雑貨、工芸品、土産物。「本物でなくても、自分が好きであればよい」という価値観を持つ人たちが発した言葉が「人それぞれ」。 そのような価値を嫌がった本物志向の人が発した言葉が「こだわり」でした。
2000年代、外国産の食材が輸入されるようになると簡単なフレンチ、イタリアンの店が増加、逆に高級料亭などの数が減少します。 現在、和食料理人は海外から引く手あまた。日本と海外では逆の現象が起こっているのです。
現在、外食産業の生産額は減少傾向にあります。これは外食人口の減少と不況による財布の引き締めが原因。 かつて昭和型経済が有効だった時代、サラリーマンは集団で居酒屋に立ち寄っていました。 現在は上司と食事に行きたくない部下の割合が3割に達するというアンケート結果も出ています。 日本人は高度な生産性を失うと同時に、コミニケーション、人間関係の親密さも失ったのかもしれません。

           

(3) 有機肥料と人工肥料

江戸時代、肥料の主流は下肥(糞尿)、植物油粕、イワシなどの干し魚(魚肥)でした。 下肥が農業に使用されるようになったのは鎌倉時代といわれています。いくつかの絵巻物に肥溜や汲み取り式便所の様子が描かれています。 「洛中洛外図屏風(1525年)」には畑に、杓で肥桶から掬った下肥を巻いている人の姿が描かれていて、宣教師ルイス・フロイスは「日本の農民は糞尿を買うために米と金を払う」と「日本史」に記しています。
元禄時代、宮崎安貞は「農業全書」の中で、農業には肥料を使用する必要性を事細かに記しています。そこで安貞は「草肥をよく腐らせて、そこに人糞尿をかけて天日乾燥させたものは畑の下肥によく利く」など、現在に通じる「肥料学」を展開しています。
江戸の町の人糞尿の所有権は町を管理する大家さんが持っていました。それが結構な金額になった。商品となった人肥料は「肥船」と呼ばれる船で、周辺の村に運ばれます。江戸では「葛西の肥船」が有名。 「葛西の肥船」は昭和10年代まで行き来していたそうです。
1町歩の水田を作るには200荷(肥桶200桶)が必要で、その価格は約20万円です。 面白いのは「いつも御馳走を食べている糞尿は良く利き、粗食の人の物は効果がない。だから、繁盛している土地の糞尿が好い」と「百姓伝記」に記されています。 何でもランクがあり、鑑定できるのですね(笑)。
明治時代も人肥は使用されました。この時代の面白い逸話は、外国人の下肥は窒素、リン酸が強く、日本人の下肥はカリが高く、食塩含有量が多いと分析されています。 これで肉食の外国人と穀物食の日本人の食生活の違いがわかります。科学的。
ちなみに肥料とは植物を生育するために、人間が施す物ですが、特に窒素、リン酸、カリを三大肥料と呼びます。 肥料は無機肥料と有機肥料に分かれ、無機肥料は水に溶けやすく、大量の使用によって土壌汚染が発生します。 有機肥料は糠、草木灰、魚粕、糞尿などで、土中で発酵をして無機質となって植物に吸収されます。先ほどから離している江戸時代の肥料のほとんどが有機肥料です。
人工肥料が生産されるようになったのは、第1次世界大戦でドイツ軍が毒ガスを作り始めた時です。戦後、毒ガスは平和利用され、有機リン系の農薬が開発されました。 1934年、現在でも使われている第1号殺虫剤のヘプトが誕生しました。しかし、1938年、ヒットラーが政権を取ると農薬研究の公開を禁止、それを秘密裏にタブン、サリン、ホリドールなどの毒ガスに発展させます。 戦後になると、アメリカが枯葉剤として有名な『24D』、『245Т』という除草剤を開発、1961年にはベトナム戦争に投入、ベトナムの農地の6割は台無しにしました。
それが昭和27年から日本で国産化され、1967年には神奈川県の3倍にあたる広域に散布されます。 その結果、森や田畑に除草剤が浸透、土壌は無機化して植物も農作物も根絶やしになりました。農村からメダカやタニシ、カエルなどの生物がいなくなったのもこの頃です。 1970年、アメリカ政府は非人道性を考慮し、『245Т』の散布を中止しましたが、『24D』は現在でも日本の農村で使用されています。
日本人の画一的性格が指摘されたのは1970年代、世界中の人から日本人は個性のない民族と考えられました。 その現象は農業分野でも起こり、農村で生産される野菜も規格化、同一化されたものになります。お隣さんが自動車を買えば、うちも買う。 お隣さんが形の整ったトマトを買えば、うちも買うというようになる。その結果、自然に形がゆがんだ野菜は敬遠され、不自然な画一性が生まれました。
古美術の世界でいうと「団塊の世代」の女性はたこ唐草や花唐草など、パターン化されたデザインを購入します。 そこに個性など存在しない。画一的なみじん唐草の皿に、画一的な野菜料理を乗せて食べるのがスマートでカッコ良いことだと考えていたのです。 私は2000年頃、「団塊の世代」の主婦のお客様のために、面白くもない唐草柄を大量に仕入れました。個性的な絵柄やデザインを持つ古美術品の中に唐草柄の作品があるのは不自然ではありませんが、唐草柄だけで統一した世界は不自然です。 商売とは言え唐草を見ると、うんざりして吐き気を覚えたことがあります。田畑で撒かれたのが農薬ならば、古美術界で撒かれたのは雑誌情報、唐草模様でした。 これは野菜や農薬のことを知らない消費者側の要望を生産者(供給者)が聞いた結果で、消費者が自然な形の野菜を農協に望めば、生産者はそれを出荷したはずです。

         

(4) 感性、感覚の画一化からの脱出

2008年、リーマンショックが起こり、景気が悪くなると一時的に古美術品の売上高が減少しました。 「団塊の世代」の退職と重なり、骨董経済を牽引した「団塊資金」が底をつき、伊万里焼の唐草柄の食器の需要は激減します。 1990年頃たこ唐草の長皿は、1枚5万円でしたが、現在は1、3万円程度に落ち着いています。 団塊の世代が唐草を購入を止めたので、需要と供給のバランスが崩れ、価格は4分の1程度。 唐草柄の価格の推移を見ると、それを「団塊の世代」が支えていたことがわかります。だからといって、良い商品が市場に出回るわけではありません。 価格相当の物が出回っているだけです。
「団塊の世代」の骨董屋さんでネットオークションを行っているのは少数派です。 どちらかというとネットオークションは現在の40、50歳代の骨董屋さんの営業形態。 その下の世代になるとインスタグラムやフェイスブックを利用して営業活動をしています。 「団塊の世代」は流通業、屋内骨董市、露店市を主体とした営業を行っていました。 その下の世代はそこにネットオークションを導入し、ネットで商品を購入して、ネット上で販売するという活動を行っています。 親が流通業的な骨董屋を始め、2代目の息子さんがネットオークションをやっている店もたくさんあります。 有名な骨董屋さんがホームページでの販売、ネットオークションをやっている場合、2代目がやっていると考えれば良いでしょう。
現在、30代以下の世代は古美術よりも自分が選んだセレクト商品、雑貨販売が中心で、自分の個性やセンスを売り物にしています。 彼らにとっては骨董の真贋よりも、いかにカッコ良く、インスタ映えするかが商品選びの基準です。
スタイリッシュでファッショナブルな写真や映像が基準となって商品が選ばれる。 大まかなにですがその基準を考察すると、非土着的で都会的、没個性商品が基準になっていることが分かります。 これは資本主義が作った無機質な建物に似ています。
私は田舎者なので、商品に土着性、手作り感がないと落ち着きません。料理にしても都会的で無機質な空間で食事をするのは性に合わない。 個人の好みの問題ですが、スマホを使用している若い世代を見ると、「独自の個性がある方が豊かで楽しいのにな~」と思ってしまいます。 これは「団塊の世代」の唐草柄を求めていた主婦にも言える感想です。
世代を問わず、マスコミに先導された画一的な感性や感覚を持つと、奥行きのある古美術の面白さを味わうことはできません。 同じ経済力でも文化的な人とそうでない人の商品選びに大きな格差があります。簡単に言うと、文化的な人は立体的な古美術心を選び、素人は単純な理由で商品を選ぶ。 センスの良い文化人は古美術だけではなく、現代美術や小説、音楽、料理など多彩な趣味を持っています。多彩な趣味が古美術品を選ぶ場合にも影響しているのでしょう。
ところで、私は総合芸術としての茶道は好きですが、主婦が行っている茶道は好きではありません。 茶道は五感を使う芸術ですが、一部の茶道家は視覚的な見栄えばかり気にして他の感覚が鈍くなっているような気がします。 茶道を行っていても、人間関係の中で不自由になっているのだから元も子もない。お茶を習っているからと言って、五感が研ぎ澄まされると考えるのは大間違いです。 五感を研ぎ澄ませるにはそれなりの経済力と労力がかかります。お金が無ければ美味しいレストランに行けないのと同じです。 骨董業も同様、習い事のレベルで長年、店を経営できると考えるのは大間違い。自腹を切らなければ、古美術の世界など一生、理解できないでしょう。
それではどのようにすれば骨董に携わり、感覚や感性を磨くことができるのか。一言でいうと「多領域に渡る好奇心を持つ」です。 「一つのことにこだわる」方が有効だと考える人もいるでしょうが、一つのことにこだわるような状況は現代社会においては不可能です。 世捨て人になれるくらいの天才であれば可能かもしれませんが、凡人が一つのことを貫くのは難しい。これは「こだわりを持て」という人と逆の意見です。
昭和初期の詩人に宮沢賢治がいます。彼は才能はあっても農学博士に成らず、農民にも成らず、宗教家にも成らず、詩人、童話作家としても独立できなかった人物です。
彼の有名な詩に「雨ニモマケズ……」がありますが、それを読むといかに彼がたくさんの領域に好奇心を持ち、たくさんの者になりたかったか理解できます。 私はいつもこの詩を読むと、賢治の立体的な感性に触れて感動を覚えます。 この詩は「ナリタイ」で終わるのですが、「ナレナイ」ことを悟ったからこそ、賢治は病気でも精神的には解放されていたと思います。 じたばたしても何にも「ナレナカッタ」賢治は、きっと病床で自分の人生を振り返って楽しくて苦笑したはず。 資本主義(生産性優先の農協)とは違う世界に生きる人は、賢治が作ったような有機的な世界で生きているのではないでしょうか。

           

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