このページは2017年4月1日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第37回 「近世シリーズ -4- 明治時代から大正時代の文化と美術」
(1) 明治・大正時代の勧業博覧会

時代を考察する時は政治、文化、風俗などを参考にします。大政奉還が行われ、明治時代に入ると政治的には、徳川幕府から明治新政府に政権が移行し、法制度が大きく変わりますが、文化や風俗は明治時代になっても幕末とはあまり変わりません。政治に変革が起こったのとしても、それを庶民が受け入れるのに時間がかかるからです。明治新政府は1868年以降、矢次早に法制変更を行うのですが、それが浸透するのは1977年(明治10年)、西南戦争が起こった頃。この時期、九州では西南戦争が起きているのに、東京では第1回勧業博覧会(1877年8月21日~11月30日、東京上野公園、入場者数454、168人)が開催されている。明治政府は九州の動乱など、簡単に片付くことを知っていたのですね。
江戸時代の博覧会は平賀源内が活躍した18世紀中頃、盛んになります。当時の博覧会は名宝や珍品を集めて展示するものですが、明治時代の勧業博覧会は、「欧米の技術と在来技術の出会いを演出する産業奨励会」でした。この博覧会によって、日本人は欧米の技術に触れ、文明が何かを知ります。この時、九州の士族たちは産業よりも政治に目を向けがちで、あきらかに時代から取り残されています。
勧業博覧会の舞台、上野公園には美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、公園内には大時計、アメリカ式風車が展示されました。勧業博覧会は時代と共に拡大していきます。

第2回勧業博覧会 1881年(明治14年)3月1日~6月30日
   東京上野公園 入場者数823、094人
第3回勧業博覧会 1890年(明治23年)4月1日~7月31日
   東京上野公園 入場者数1,023,693人
   この時、日本で初めて路面電車が走る。
第4回勧業博覧会 1895年(明治28年)4月1日~7月31日
   京都市岡崎公園 入場者数1,136,695人
   日清戦争中での勧業博覧会。電力中心の博覧会。市外電車の登場。
   黒田清輝の裸体画作品が風俗擾乱の騒動を起こした。
第5回勧業博覧会 1903年(明治36年)3月1日~7月31日
   大阪市天王寺今宮 入場者数4、350、693人
   明治時代最大の展覧会。アメリカ館で自動車が展示される。
   鉄道網の整備によって入場者数が増大、大阪市は莫大な利益を手にする。

第1回から第5回までに勧業博覧会を見ると、博覧会が日本人に与えた影響を見てとることができます。第1回は西南戦争、第4回は日清戦争中ですが、明治政府が非常時にも博覧会を実施したのを見ると、政府は政治よりも産業に日本人の関心が向けられることを意図した。この時期、戦争は職業軍人が行っていたので、庶民は戦争とは無関係だった。日本人が本当の戦争の恐ろしさを知ったのは、庶民も戦争に参加するようになった太平洋戦争時です。
第6回勧業博覧会も予定されましたが、日露戦争による財政難のために中止になりました。その後、都道府県による博覧会は1970年の大阪万博まで開催されることはありませんでした。ちなみに、1913年(大正2年)に上野公園で開かれた「明治記念博覧会」では上野公園にロープウェイとエスカレーターが設置され、人気を博しました。
勧業博覧会の展開を見ると、日本人は紡績から鉄道、電灯、電車、電力、自動車に関心が移行したことがわかります。江戸時代から明治時代への変革は、蒸気機関から電気への転換の時代でした。

         

(2) 明治新政権の改革と展開

明治維新は、五箇条の誓文(68年)東京遷都(69年)、版籍奉還(69年)、廃藩置県(71年)、学生の発布(72年)地租改正、徴兵令、新暦の実施(73年)、自由民権運動(74年)が行われ、政権が安定した後、条約改正問題(71年~)、大日本帝国憲法(89年)、国会設立(90年)、日清戦争(94年)、三陸沖大津波(96年、死者2、7万人)、日露戦争(1904年)、日韓併合(1910年)が起こります。 どれも重要事項ですが、地租改正は江戸時代、米で税金を納めていた農民にとって、貨幣で税金を納める衝撃的な経済革命でした。それから徴兵令、庶民の軍隊が初めて士族に勝ったのが西南戦争です。
1870年(明治3年)、政府は神道と仏教を分離する目的で「大教宣布の詔」を発令します。しかし、これが、廃仏毀釈の大騒動を巻き起こすことになった。明治政府の意図とは別に庶民は寺院や仏像を破壊しました。原因は、庶民が仏教寺院を封建制度の象徴として敵対視していたからです。織田信長が比叡山を焼き討ちした気持ちと、明治時代初期の庶民の気持ちは一緒だったのでしょう。京都の人たちはうるさいですからね。1871年(明治4年)、太政官布告で「寺社領上知令」が布告されると、境内を除き寺院や神社の領地は国が接収、これにより幕藩体制を支えた寺受制度、檀家制度は崩壊しました。
1871年(明治4年)、条約改正交渉に出発した岩倉使節団は、外国の状況をつぶさに観察し、近代国家の実態を知ります。岩倉使節団がアメリカ大統領と会見した際、欧米諸国は友好国に対して国家元首の写真を交換するという外交儀礼があることを知った岩倉は日本に連絡、写真家・内田九一に天皇と皇后の写真を撮らせて送らせています。当時、写真は貴重品でしたが、時代が進むにつれ、一般にも普及します。写真を通じて日本人は、外国の風景や風俗に接し、世界を知った。逆にフェリーチェ・ベアトなどが撮った日本の写真が外国に紹介され、浮世絵とともにジャポニズムを生む要因となりました。
各国視察を終えて帰国した岩倉一行は、ドイツ的専制君主国家の目指し、日本古来の祭祀の復活や新しい身分制度の制定に着手、新政府は、新しい世の出現を民衆に示すため、「天皇の全国巡幸」を企画しました。目論見は成功し、日本国民は、天皇を新しい首長として受け入れます。天皇一行は巡幸先で勤皇の中心の顕彰、忠孝を尽くす人々に報償を与えました。かつて、天皇は民衆の前に姿を現さない存在でしたが、巡行によって国民と一体化し、その影響力を増します。
1872年(明治5年)、政府は士農工商の廃止と四民平等政策を推進するために皇族、華族、士族、平民の新しい身分制度を発令、農工商は平民となりました。この年、福沢諭吉が「学問のすすめ」と中村正直が訳した「自由論(J・ミル)」が刊行され、著書の中で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と記した「学問のすすめ」はベストセラーとなりました。この本を読んで、平民たちは平等や自由の意識を確立した。
1889年、「大日本国憲法」が発布された後、1890年(明治23年)に「教育勅語」が発布され、天皇の道徳的君主像が確定されます。それは近代国家の君主というよりも現人神に近い存在で、天皇と皇后の御真影(キヨソネが描いた銅版画)が各学校に配布されました。後に、日清戦争、日露戦争の時、明治天皇の肖像画は軍神としての性格を強めます。
1894年(明治27年)に起こった「日清戦争」の勝利で、列強も日本に対する認識を大きく変えました。同年、日本はイギリスとの間に「日英通商航海条約」を締結、領事裁判権の撤廃をようやく獲得します。日露戦争に日本が勝利すると、1911年、自主関税権を獲得、日本は欧米列強と対等な近代国家となりました。

           

(3) 明治・大正時代の経済発展

明治時代の日本人を考察すると、西洋文明と閉鎖的な島国の中で格闘する姿が見えます。その代表的人物が、小説家・夏目漱石。「文明開化」が進む一方、古代から続く伝統との間で葛藤しています。「教派神道」が拡大したのもこの時期で、廃仏毀釈と文明開化は極端な社会現象です。
日本人は、江戸幕府が採用した儒教の「中庸」の概念を放棄、主義主張をすることによって自己確立を目指しますが、西洋文明と日本的伝統の間で、日本人は揺れる船のように不安定です。明治時代初期、日本人は革命思想を持ち、伝統を破壊することで新しい社会が到来すると信じていました。しかし、現実は軍備拡張による増税で国民の生活は苦しくなるばかりで、保守的な思想も台頭します。明治人は江戸時代の伝統や技術を受け継いだので手仕事は上手かったのですが、逆にそれが工場の近代化の妨げになりました。
芸術の面に目を向けると華族やエリート層は西洋画、西洋音楽を鑑賞、庶民は文人画や浮世絵、演歌師(浪曲師)を愛好しました。川上音二郎が、「おっぺけぺー節」で一世を風靡したのは、日清戦争の頃です。明治時代は西洋化したエリート官僚と和風の伝統を受け継ぐ庶民の生活にギャップが生まれた時代でした。この時期、日本には巨大な資本を持つ組織は、国家以外に存在していません。三菱も三井もまだ財閥化していません。
日露戦争は日本人の意識や視線を大きく変えた戦争で、国民は戦争が局地戦ではなく、総力戦であることを理解しました。日露戦争では報道写真や映像が公開され、日本人に戦争が身近なものであることを感じさせました。戦争の勝利後、工業の近代化に目覚めた日本人は、後進的な東洋の国を蔑み、かつての欧米人のような態度で接します。幕末期、西欧を崇拝していた日本人は、日露戦争の勝利によって西欧と同化し、後進的なアジアの国を観察の対象にしたのです。日本人の目がアジアから逸れ、西欧人の視線と同化した時、日本の帝国主義が、本格的に出現します。
それを、1914年(大正3年)、ヨーロッパで起こった第1次世界大戦が促進させました。大戦は日本に予想外の好景気(大戦景気)をもたらし、日本はアジア市場に進出する機会に恵まれます。1914年、11億円の債務国だった日本は、1920年(大正9年)までに27億円以上を持つ債権国となりました。大戦景気は日本社会に資本家(成金)を出現させ、近代化された工場で働く工場労働者は100万人を上回ります。特に鉱山、造船、商事の営業利益は大きく、年5割、7割の配当をする会社が現われ、株式市場も活況を呈しました。
大戦景気は1920年(大正9年)まで続き、この間、日本は農業国から工業国に、動力は蒸気から電力に変わります。大戦中、諸産業の発展を通じて銀行資本の影響力が拡大、財閥(四大財閥)が形成され、独占資本主義が出現しました。財閥が各産業に資本を投資した結果、工場労働者が増加、1914年に85万人だった労働者数は1919年時点で2倍の147万人に急増します。労働者の増加は商業・サービス業の領域を拡大させ、都市化を進めました。政府も積極財政を展開、教育費の拡充、道路や鉄道の普及、港湾、河川の改修、電話の普及などの公共投資を行い、インフラストラクチャー整備を充実、四代工業地帯を出現させます。大戦景気が日本社会の風景を一変させたといっても過言ではないでしょう。
新しい工場の建設によって各工業地帯で人出不足が起こり、低賃金で働く朝鮮人労働者の受け入れ、村から人口流出が起こります。農作物と工業製品の価格差が生じ、卸売物価、消費者物価とも平均2倍に上昇(1920年の卸売物価は1913年の約2、6倍)しますが、労働者賃金は物価に伴って上昇せず、庶民の家計は厳しいままでした。大戦景気は財閥が巨大な利益を上げる一方で、資本家と労働者の格差を生む原因となりました。
1917年(大正5年)、わが国最初の労働法である「工場法」が施行されます。この法律は抜け道となる例外規定が多く、資本家たちは法律を無視して労働者を使用します。この頃から、日本にはブラック企業は存在していた。これは悪しき習慣です。労働者が権利意識を持ち、労働組合を結成したのも、この時期です。

           

(4) 明治・大正時代の庶民生活

大戦景気で資本家が利潤を上げる一方、勤労民衆は高騰する物価のせいで生活苦に陥ります。米騒動は「シベリア出兵」を見込んだ米の買い占めが原因で起こります。結果、寺内内閣は崩壊、社会運動の力を見せつけられる事件となり、この事件以降、権利意識に目覚めた庶民は、社会運動を組織化しました。
大戦景気は成金を出現させたと同時に下層の貧民も生み、大都市でスラム街が形成されます。現在では信じられないことですが、公務員の給与水準が低く、生活に困った警察官や小学校教師が低収入・栄養不良で結核などで病死するケースが相次ぎます。小学校に入学したばかりの学童も家計を助けるために働き、欠食児童も多く社会問題化しています。都市の労働者は大きく聳え立つ近代化のシンボルである工場を、江戸時代、町人が城塞を見るように仰ぎ見ました。労働者は工場内で資本家の指示に従う監視者に管理され、機械的に製品を作りました。その様子はチャップリンの「モダンタイムス(1936年)」に描かれています。彼らは生活を防衛するためにストライキを強行、大企業側も終身雇用や年功序列などの労務管理を始めたが、そのような政策を実行できたのは一部の大企業だけでした。
1917年(大正6年)、ロシアで2月革命が起こり、皇帝ニコライ2世が退位、ロマノフ王朝が崩壊した後、首都ペトログラードで労兵ソビエトが組織されます。この革命は労働者による最初の近代革命で、西洋諸国に衝撃を与えました。翌年、オスマン帝国、オーストリア、ドイツでも革命が起こり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位、大戦は終結しました。庶民が帝政を倒す現象が世界的に起こり、それが社会主義の拡大につながります。
第1次世界大戦は初めて全世界を巻き込んだ近代戦で、写真や印刷技術の発達によって、日本人は「欧州戦争実記」などのグラフ雑誌、英国公認映画「ソンムの戦い」などを見て、間接的に戦争を目撃します。そこには破壊された景色、飛行機、タンク、潜水艦などの新兵器が映し出され、日本人の軍事意識を高めました。映画は大正時代、庶民の娯楽と共に政府によるプロバガンダにも利用されるようになりました。
大戦は日本に「工業による近代化の促進」、「資本主義の形成と経済格差の発生」、「封建的な農奴制の崩壊と労働者の権利意識の出現」、「農村の変容と都市生活者の出現」をもたらしました。「戦後恐慌(1920年以降)」の時代になると労働者の争議が目立つようになり、共産党員の検挙など社会問題化します。大戦は日本を近代化させた一方で、社会問題を拡大させたのです。農村で働く人は減り、明治時代まで見られた自然主義は消滅しました。自然から切り離された労働者は行き場を失い、社会運動に身を投じます。逆に、それはナショナリズムの台頭、治安維持法を成立させることにもなりました。
1923年(大正12年)、関東大震災が起こり、それを目撃した人々は、第1次世界大戦が日本で起こったように感じたと話しています。破壊された街を目撃した人々は近代化された都市がいかに脆いかを実感しました。近代的な思想や技術に頼ることができない人々は不確かな気持ちのまま昭和を迎えますが、そのような感じを自殺した芥川龍之介は「唯ぼんやりとした不安」と表現しています。

         

(5) 明治・大正時代の古美術

明治時代になると大名家が道具、武具を放出し、江戸時代の工芸品が大量に市場に出回ります。それを民間人が売買、画家や工芸家が模倣します。その結果、上流階級にしか手に届かなかった美術・工芸品に庶民も触れることができるようになりました。その象徴が床の間です。それまで床の間は、大名や家老、公家、大きな庄屋などしか設えることができませんでしたが、明治時代になると一般の庶民でも床の間を設置することができるようになりました。明治政府の意向もあり、床の間には古美術品と共に天皇家の肖像画も飾らました。明治時代、床の間は現在でいうと情報取得の手段、テレビの役割を果たしていたのですね。
幕末期、日本には約300の藩が存在していました。そこには藩のお抱えの茶道や能役者もいましたが、彼らは廃藩置県と共に失職します。彼らが活路を求めたのは庶民に芸能を教授することでした。この頃から、千家などの家元制度の近代化が始まりました。一方、政府は日本人に外国の技術、文化を教えるためにお抱えの外国人教師を雇い入れました。
1878年(明治11年)、大森貝塚や弥生式土器を発見したエドワード・モースの紹介で、アーネスト・フェノロサが来日(1878年)、東京大学で教鞭をとりました。彼の講義を受けた生徒に岡倉天心がいます。2人の出会いによって、伝統的な日本文化の再評価が始まり、1887年(明治20年)には、東京美術学校が創設されます。
1882年(明治15年)、上野公園の寛永寺跡に、ジョサイア・コンドルが設計した国立博物館本館が完成しました。初期の博物館は美術館、自然史博物館、動物園、図書館などを含む総合文化施設でした。翌年、新橋に鹿鳴館が建設され、日本人も西洋文化を意識するようになります。
明治時代初期、日本には江戸時代の職人気質を持った人たちがたくさんいました。彼らは政府の進める近代化の波に乗り、西洋風の商品を開発しますが、それは和風、模倣にとどまっています。日本人が西洋に匹敵する商品を作るようになるのは大正時代です。
1907年(明治40年)、日本の古美術品を扱う「東京美術倶楽部」が設立されました。それが第1次世界大戦の「大戦景気」と相まって骨董品の売買も盛んになります。この時期、財閥が形成され、各団体の幹部はこぞって古美術品の収集にのり出します。その代表が三井財閥の益田孝(鈍翁)、十五代・住友吉左衛門などの実業家たち。彼らは収集した古美術品を使って茶会を催し、政治・経済的な情報交換をしました。これは安土桃山時代、信長や秀吉が利休とともに茶会を催したことと似ています。三菱財閥が静嘉堂文庫を設立したのは1892年です。
当時の財界人を物語るエピソードに「佐竹三十六歌仙絵巻」の売り立てがあります。1917年(大正6年)、佐竹家から「佐竹三十六歌仙絵巻」が売り立てに出され、貿易省・山本唯三郎が購入しました。しかし、大戦終戦による経済状況の悪化で1919年(大正8年)に、それが再び売りに出されます。当時、日本は不況下だったので、財界人も一人で絵巻を購入することができません。そこで益田孝が分断を決断して37人(住吉明神図を含む)で、この絵巻をくじ引きで購入することに決めました。発起人の益田は「斎宮女御」が欲しかったのですが、くじに外れたため機嫌を損ね、その様子を見た参加者が話し合って「斎宮女御」を益田に譲ったという逸話が残っています。
大正時代、庶民の間に大衆文化が起こりました。雑誌「キング」や「白樺」の発行によって、一般人でも古美術品に触れる機会が訪れます。大正デモクラシー中、1908年に創刊された「白樺」は学習院の生徒たちが軍人主義を標榜する乃木希助に反発して編集した雑誌ですが、大正期の日本文化形成のうえで重要な役割を果たしています。白樺に投稿した武者小路実篤、志賀直哉、有島健郎などの作家たちは従来の古典教養よりも西洋文化、ロダン、セザンヌ、ゴッホの紹介を行いました。同人には中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生などの画家がいます。「白樺」の同人に日本民芸館を創建した柳宗悦(1889~1961年)がいます。柳宗悦はイギリスのウィリアム・モリス(1834~1896年)の「アーツ・アンド・クラフツ運動」の影響を受け、庶民の使う日常雑器に美を見出しました。柳は陶芸家の浜田庄司や染色家の芹沢銈介らと一緒に昭和初期、民芸運動を始め、日本民芸館を設立します。
ちなみに大正時代の骨董の一領域にガラス器があります。当時、ガラス器を製作できるのは先進国だけでした。

           

上へ戻る