このページは2017年3月4日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第36回 「近世シリーズ -3- 江戸時代後期の文化と美術」
(1) 江戸時代後期の概要 |
今回は後期、9代将軍・家治から大政奉還までの話です。徳川将軍家は7代・家継(1713年~1716年)で家康宗家の血筋が絶え、8代以降(15代慶喜を除く)、徳川吉宗の子孫が御三家に代わって幕政を担うことになります。それを構成したのが、田安家・始祖は徳川宗武(吉宗の次男)、一橋家・始祖は吉宗の四男、清水家・始祖は徳川重好(9代将軍・家重の次男)の御三卿。9代から15代の将軍をあげてみましょう。
8代 徳川吉宗(1716年~1745年)
江戸時代は享保の改革、寛政の改革、天保の改革と3度の改革が行われました。いずれも大飢饉後(宝暦の大噴火、天明の大飢饉、天保の大飢饉)に行われた改革で、約70年周期で起きています。70年というのはインフラや文化が老朽化する周期。江戸時代には大小35回の飢饉が起こっていますが、原因は商業作物の生産と藩政の失敗、人災の要素が強い。米を作っていれば飢饉は起こりませんが、商業作物を作ってばかりいると対応できません。これは江戸時代後期に、日本の経済が商業化したことを示しています。天明の大飢饉(1782年~1787年)では、30万~50万の人が亡くなっています。藩は他藩の介入を嫌って人や物資の流通を遮断、飢餓寸前の農民は着の身着のまま他藩に逃亡しました。 |
(2) 19世紀前半から幕末
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松平定信が失脚した後も、改革は松平信明などの寛政の遺臣などによって継続されます。しかし、信明がいなくなると徳川家斉は羽を伸ばし、でたらめな生活を送るようになります。家斉が生ませた子は54人、性豪ですね(笑)。このような将軍の姿勢は社会の規範を緩め、葛飾北斎や安藤広重、十返舎一九などが活躍した文化的な化政時代を出現させます。一九が出した「東海道中膝栗毛」などはホモのカップルが駆け落ちの話ですが、これが庶民に受ける。化政時代は幕府の財政が破綻したのですが、政治の域を超えて日本人が独自に経済、文化活動を行っていた時代でした。この時期、日本との通商を求めて近海にたくさんの外国船が現れるようになります。幕府はその対策として海防に力を注ぎますが、予算が追い付かず、海防は後手に回ります。政府間の交渉とは別に、庶民は暢気なもので、長崎から輸入された西洋の文化を独自に取り入れ、和風化します。伊能忠敬が日本全図を作成したのも、この時期です。 |
(3) 江戸絵画の展開
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江戸時代中期は絵画の時代です。日本の身分制度が確定すると、士農工商の身分別が絵画様式に影響を及ぼします。公家や寺院は装飾画、武士は狩野派や南画、農民は浮世絵、宗教画、町人は浮世絵などを愛好します。この時代、床の間が設置できるのは武家か旧家などの特権階級だったので、掛け軸は一部の人たちのものでした。庶民は自製の屏風などに浮世絵を張って楽しんでいました。 |
(4) 近世神道の誕生 -本居宣長と平田篤胤-
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江戸時代中期から後期にかけて、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤たちの活躍で神道が再認識されました。日本の風土から生まれた神道の再発見です。幕府は儒教を広めようと画策しましたが、庶民は儒教より神道に親しみを感じたようです。村祭り |
(5) 伊万里焼の展開
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前期の伊万里焼の模様は観念的で模倣の絵付けが多いのですが、後期になると神道の影響を受け、自然と幾何学を組み合わせた柄が描かれるようになります。享保時代、伊万里焼はまだ高級品でしたが、宝暦時代になると田沼意次の重商主義の影響を受け、庶民化します。有田の職人たちは北前船を所有する商人や近江商人と組んで伊万里焼の販路を拡大、北前船が立ち寄った港町にはたくさんの伊万里焼が残されています。ただ、焼物の質は享保時代と比べると、大量生産をしたので劣化します。 江戸時代後期の古美術品は大量に残っています。陶磁器、掛け軸、根付、武具、装飾品など。生活用品が多いので、それが美術かと問われれば疑問ですが、どのような物でも愛情をこめて作る日本の職人の心意気やセンスは感じることができます。伊万里焼を普段使いに使用すると、現代の食器とは違う素朴な味わいがあります。江戸時代後期は、高価な美術品と生活雑貨が分かれた時代で、その時代の生活雑貨にも面白さがあることはいうまでもありません。江戸時代の作品に簡単に触れることのできる日本人は幸せです。 |