このページは2017年2月4日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第35回 「近世シリーズ -2- 江戸時代前期の文化と美術」
(1) 江戸時代前期の概要 |
江戸時代とは、1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開いた時から、徳川慶喜が大政奉還を行う1868年(慶応4年)までの265年間をさします。
1代 徳川家康(在職1603年~1605年)
初期から前期の時代を展望すると、反体制派(乱の処理、鎖国の実施)の一掃、幕藩体制の確立、航路開発(北前船)、水路開発(箱根、玉川上水の設置)による産業の育成、上方文化の興隆と江戸への事業導入(享保の改革)が行われました。文化に目を向けると、浮世草子、浮世絵による庶民文化の発展、明暦の大火後の江戸の拡充、徳川綱吉による「生類憐みの令」の実施による殺傷の禁止(世界初の動物愛護条例)があげられます。 |
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(2) 江戸の発展
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江戸時代の社会が安定した要因は「鉄砲規制」以外に、各階級の監視システムを充実させたことにあります。監視は権力者である将軍の性行為にまで及びます。幕府は城郭の改築、管理などを許可制にして、大名の行動を監視しました。幕府に無断で武器を蓄え、城を改築すれば、藩はお取りつぶしです。結果、多くの大名家がとりつぶされ、由比正雪の乱も起きましたが、この後、200年間、日本では大きな騒乱は起きていません。 |
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(3) 伊万里焼の展開
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この時代、茶道具、軸、漆器、奈良絵など様々な美術品が作られますが、江戸前期から中期にかけて、庶民に広がったのが伊万里焼です。それまで磁器を使ったことのなかった日本人は、伊万里焼の流通によって、吸水性のない磁器の素晴らしさを堪能します。伊万里焼は生産量も限られており、高級品だったので、簡単に使用できる物ではありません。しかし、時代を経るにつれ、北前船の発達と共に日本全国に販路を拡大していきます。講座の最初にお話ししましたが、江戸時代の治世は伊万里焼の様式とマッチしています。簡単にそれを比較してみましょう。
徳川家康と徳川秀忠の時代(1603年~1623年)
もちろん、この時代は伊万里焼だけが作られたわけではありません。陶磁器の主流は茶道器で古田織部の時代は織部焼が、小堀遠州の時代は遠州七窯と呼ばれる窯が活動しています。それに瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などが雑器を製作しています。これらの陶器と伊万里焼の違いは地方だけの作品と全国的な作品との違いです。茶道具などは主に藩内で使用されるのですが、伊万里焼は全国的に流通しました。それに伊万里焼の様式をみると、時代判別の基準が可能となる。備前焼や唐津焼などは時代を判別するのは素人には難しい焼物です。とはいえ、最近は伊万里焼の模造品も多いので購入時には気を付けてください。 |
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(4) 享保の改革
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1713年、徳川家継が5歳で将軍に就任しますが、その3年後に死去します。それによって徳川家康から続いてきた徳川宗家の血筋は絶えることになります。幕府は家の血筋が絶えた時は、尾張藩か紀伊藩から後継ぎを選ぶように準備をしていたので、1716年、紀伊藩の藩主だった徳川吉宗が将軍に就任します。その後、将軍家は吉宗の子孫で占められることになります。 |
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(5) まとめ
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これまでざっと江戸時代前期のお話をしましたが、この時代を把握するコツは、
①徳川幕府の法治主義によって、全国的に統一感が生まれた。 この時代を簡単な言葉で表せば「中世から近世への移行期」、「農本制から商業主義への転換期」、「自治領の認識の転換期」だということが挙げられます。政権が安定しても、経済的に無能な領主へ庶民は激しさを増します。それが日本人に近代商業主義が何かを認識させるきっかけになったのは間違いありません。 最後になりますが、ここは東京です。都内に江戸の名残の場所、江戸東京博物館がたくさんあるので、是非、足を運んでください。 |