このページは2017年1月14日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第34回 「近世シリーズ -1- 安土桃山時代の文化と古美術」
(1) 安土桃山時代とは |
あけまして、おめでとうございます。今年も独断と偏見の骨董講座が始まりました(笑)。滅茶苦茶な話をしますが、皆さん、心穏やかに聞いてくださいね。よろしくお願いいたします。
1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて入京します。その後、2人は仲たがいし、1573年(元亀4年)、足利幕府は滅亡します。1576年(天正4年)、安土城の造営が始まり、信長は天下統一に大きく近づきます。しかし、1582年(天正10年)、信長は家臣の明智光秀の謀反によって滅びます(本能寺の変)。 |
(2) 西洋文明との出会い -初期市民社会の出現-
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「鉄砲記」によれば、1543年、種子島に漂着した中国船に乗っていた南蛮人の2人の船員、牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)が鉄砲の実演を行い、種子島時堯がそのうち2挺を購入したとされます。種子島時堯は、刀鍛冶の八板金兵衛らに命じて鉄砲の構造を研究させ、1年後には数十挺の鉄砲を製造しました。その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲製造を習得、帰国後、近畿を中心に鉄砲製造は始まります。当時、日本は戦国時代だったので、各大名は鉄砲に目を付け、鍛冶に大量の鉄砲製作を依頼しました。伝来当初、猟銃だった鉄砲は年々、実戦用に改良され、1575年(天正3年)に、織田信長は「長篠の戦い」で数千挺の鉄砲を実戦で使用したといわれています。実際に鉄砲が戦場で使用されたかは不明ですが、当時の状況を考えると、現在の核兵器のように戦力差を見せつけるうえで鉄砲は重要な武器だったと考えられます。
1549年(天文18年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために来日(鹿児島に上陸)しました。ザビエルは日本人を「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡 3』P96より)と記している。遠くから異文化を運んできたザビエルは各地の大名に手厚く持て成されました。後世、ザビエルはキリスト教界で聖パウロを超える信者を獲得したとされ、偉大な聖人とみなされるようになります。 |
(3) 織田信長の時代
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織田信長(1534年~1582年)は戦国時代後期、尾張で生まれました。信長の家計は尾張守護・織田氏の中でも庶流でしたが、父・信秀の代に力をつけ、尾張を統一します。信長は下剋上の社会の中で、実力で領地を広げていく父の姿を見て育ちました。家督を継いだ後、「桶狭間の戦い」で今川義元を打ち取ると、婚姻により同盟、天皇や将軍の権威の利用し、商業政策の充実などを図って、室町幕府を滅ぼし、畿内で中央集権的な政権を樹立しますが、1582年(天正10年)、家臣・明智光秀の謀反によって暗殺されます。
織田信長が明智光秀に襲われた理由は、信長が日本人の持つ女性性を無視したことに原因があります。古代から京都は日本の祭祀を司る天皇の座でした。日本人には、天皇家にまつわる祭祀には男性が口出ししないという不文律がありました。それは、日本人の無意識層に、女性の領域を起こしてはならないという慣習があるからです。日本の最高神はアマテラス、女性ですから。しかし、信長はそこに男性原理を持ち込もうとして、光秀の反発を買った。朝廷が信長に男性的な征夷大将軍の地位を授けようとした時、それを受けていれば、光秀は謀反を起こさなかったはず。征夷大将軍を信長が拒絶した時、光秀のジェンダーに異変が起こります。そして、信長と光秀のジャンダーが逆転、光秀の男性性が目覚め、信長を見下すようになります。信長が京都の外での統一行動に邁進していれば、光秀も大人しくしていたのですが、信長は都で女性化した。光秀には、それが天皇家に代わる存在に映り、暗殺を決行したのです。 |
(4) 豊臣秀吉の時代
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信長に比べると、豊臣秀吉は女性的な文化の創造者です。秀吉は子宮とも言える密室空間「茶室」を中心に、会話の文化を千利休と共に創造します。秀吉は信長と違って男色を好みませんでした。それは信長を暗殺した光秀に通じる感性です。秀吉の感性は社会的に女性の地位を向上させました。17世紀末、秀吉の妻である北政所や側室の淀君が歴史に登場することからも把握できます。男性的な信長の時代、女性の活躍は見られません。そのように考えると安土文化は信長の男性性、桃山文化は秀吉の女性性が発露された文化であることが理解できます。 |
(5) 安土桃山時代の古美術品
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古美術商が扱う安土桃山時代の古美術品の代表は、何といっても陶器です。備前や常滑は量があるので、比較的、入手可能ですが、大人気の唐津焼となると伝世品の入手は不可能。目の効かない古美術商たちが、桃山時代の唐津焼などと言って売っている物の半分は偽物です。キズ物や発掘品であれば本物もありますが、完品となると、夢のまた夢。唐津焼のぐい飲みが欲しいなどとは思っていても、口に出さない方がよいでしょう。信用のおける古美術商からの購入であれば問題はないのですが、あくどい古美術商にひっかかることになります。昔、桃山時代の唐津焼や黄瀬戸を収集している方がいましたが、それはとても恐ろしいコレクションでした。金があるからといって、目が利くわけではありません。目の利く信長は茶器の名物狩りを行っていますが鑑識眼も一流だったのです。彼の抹茶に対する味覚は、現在のワイン・ソムリエのようなものだと考えれば把握できるでしょう。 |