このページは2016年10月1日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第31回 「古代・中世と古美術シリーズ -8- 平安時代後期の文化と美術」
(1) 藤原時代全盛期

4月から3回続けて、リクエスト講座を行ったのですが、今回は久しぶりに「骨董講座 歴史編」です。半年間、歴史から遠ざかっていると、歴史に対する感覚が鈍っています。10月から7回連続で平安時代後期から昭和時代の歴史講座を開くので、講座を通じて歴史と骨董についての関係を楽しんでいただけたら、いつものように講義内容は独断と偏見に満ちていますので、よろしくお願いします(笑)。
前回は794年(延暦13年)、桓武天皇が平安京(京都)に都を遷してから藤原道長が登場する時代の前までの話をしました。時代文化の特徴は「かな使用による和風文化の流行」、「真言宗と天台宗の流布」、「神道の拡大」などです。中国で貴族的な政治を行っていた唐が滅亡、変わって士大夫中心の北宋が登場、両国の体制の大きな違いは北宋になって官僚主導の政治が行われるようになったことです。体制の変革とともに陶磁器の世界にも変化が起こり、白磁、青磁が生産されるようになりました。これは石炭の使用による燃料調達が可能になったからで、北宋以降、中国陶磁は多彩になります。
宗教では浄土宗と禅宗が盛んですが、両方とも官僚が主導して流布した宗教です。前時代の宗教に比べると、簡素で理解しやすい宗教になっている。
日本では和風の流行とともに神道が勢力を拡大しました。各地に神社が創建され、地域は貴族と寺社によって支配されるようになり、荘園領主が出現します。そのために武士や農民階級は貴族や寺社から土地を借り受けて農作物を作った。小作ですね。今で言うと大家さんと店子の関係。貴族、寺社が大家さんで、店子が一般庶民。現在も大都市に大きな不動産を持つ人と持たない人の間では経済格差がありますが、このような土地構造は荘園時代に始まったといってもよいでしょう(受領制度)。農業は集団で行うので、このような構図が出来上がりました。集団化には宗教教団の力が働いた。鎌倉時代初期、武士が政権を獲得すると、武士や百姓は自分の土地を持つようになります。これは戦後の農地改革に似ている。そう考えると、平安時代後期は、大正時代から昭和時代初期の財閥による経済支配体制の時代と似ていることがわかります。平安時代後期の貴族や寺社が、時の財閥。現在でも財閥らしきものはありますが、三井と住友が合併する時代なので、以前のように財閥の力も分散しています。平安時代後期、最大の財閥は藤原家で、その代表が藤原道長。
藤原道長の時代、日本では紫式部の「源氏物語」、清少納言の「枕草子」など女流文学が開花し、それは現在も和風文化の構造の根本となっています。
この時代の話をすると長くなるので、簡単に藤原道長の時代の文化的特徴のお話をしましょう。それを一言で言うと「阿弥陀仏との同化文化」ということができます。奈良時代や平安時代前期まで仏陀は崇拝の対象でした。それが遣唐使の廃止、和風文化の興隆によって、人間に近付いてきた。中国の政治体制が貴族から官僚に移ったように、日本人にとって仏陀は異国から和風の神に変容、身近な存在になった。本地垂迹説が出現し、仏教の仏たちは日本人に変容します。
奈良の大仏や真言宗の仏像を思い浮かべるとわかりやすいのですが、両者は人間を超えた大きさ、表情を持つ威圧的な存在です。しかし、藤原道長の時代になると、人間的になる。それを主導したのは道長が愛した定朝という仏師の存在が大きい。道長は定朝とともに平安時代中期の文化を創造した大仏師です。

         

(2) 浄土への憧れ

平安貴族の浄土への憧れは985年(寛和元年)、源信が「往生要集」を著した時に始まります。「往生要集」は念仏による極楽往生を説いたもので、源信は地獄・極楽の様子を説き、厭離穢土、欣求浄土を目指し、「阿弥陀仏の相好(特徴)を心に観ずる観想念仏が大事」としました。当時の世相に不安を感じていた貴族たちは、極楽往生を夢見て生活を送っていました。それをこの世の再現しようと目論んだのが、藤原道長で、それを手伝ったのが定朝でした。2人は二人三脚で極楽浄土の再現、法成寺を創建します。
定朝は平安時代後期に活躍した仏師で、寄木造技法の完成者。彼が作った定朝様式は、「尊容満月のごとし(春記)」、「天下これをもって仏の本様となす」「その金躰まことに真像にむかうがごとし(長秋記)」などを賞され一世を風靡しました。現存する代表作は平等院本尊の阿弥陀如来座像で、柔らかな曲線、流れるような衣、瞑想的に微笑む表情などの特徴があります。定朝が作った仏像を、夕闇せまる中、ロウソクの光、静寂の中で見ると、極楽浄土が出現したように見えます。当時、黄金に輝く仏像を見た人々は、本当にこの世に極楽浄土が出現したと体感したでしょう。
現在、ディズニーランドに行くとアメリカ文化が体感ききるように、法成寺、平等院に行った当時の貴族は阿弥陀如来の住む極楽浄土を体感しました。静寂の中の美。極端な言い方をすれば、その時代、寺院は心に平安をもたらしてくれる娯楽施設、遊園地でした。普賢菩薩の乗っているインド象を、実際に人々は見たことはなかったのですが、寺院に安置されているインド象の彫刻を見ると、それが実際に存在している感覚を持つことができた。平安時代の人にとって、インド象はミッキーマウスのような存在だったのでしょう(笑)。
人々は、そこに集うことによって解放され、現実の苦役を一瞬、忘れることができます。本来、仏教が人々の心の開放を体感させてくれる場所であるならば、平安時代の寺院はその役割を十分に果たしはずです。

平安時代の仏教を知る上で、藤原道長の臨終の記録が、参考になります。1027年(万寿4年)、法成寺で暮らしていた道長が危篤に陥りました。死に臨んだ道長は東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入り、床に伏せます。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、北枕西向きに横たわり、高価な高木を炊き、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生しました。源信が説いた観想を、藤原道長以降、平安貴族たちは四季折々、寺院において体感していたはずです。バーチャル・リアリティ。
阿弥陀如来の存在は、寺院内のロウソクの光の効果で演出できます。多くの光源が氾濫する現代社会では感じられないことですが、ろうそくの光の演出は、大きな効果をもたらすことを中世の人たちは知っていました。フランス人画家のジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593年~1652年)などは、その効果を絵画で表現した画家です。
気分が優れない時、不安な時、貴族たちは堂宇に籠って阿弥陀仏と同化し、心の平安を得たでしょう。彼らは仏像を崇拝の対象ではなく、同化の対象とし、極楽浄土にいる阿弥陀如来が身近にいるという幻想を体感しました。
阿弥陀如来と一体化する観想は、絵画にも新しい視点をもたらします。貴族たちは、阿弥陀如来の視線から見た世界を、絵巻物に描かせた。絵巻物は、横長の紙(絹)を水平方向につないで長大な画面を作り、情景や物語を表現した日本独自の絵画様式で創作します。12世紀に描かれた「源氏物語絵巻」、「伴大納言絵詞」、「信貴山縁起」、「鳥獣人物戯画」の四大絵巻が有名ですが、それを連続して見ていると映画を見ているような気分になります。平安貴族たちは、阿弥陀如来の視線から見た移ろいゆく俗世を見て、阿弥陀如来と同化、このような阿弥陀仏の目を通して世界を描く様式は安土桃山時代の「洛中洛外図屏風」まで持続する。
ちなみに昭和時代、活躍した映画監督に小津安二郎と黒沢明がいますが、前者は人間自体を崇拝するようなローアングルカメラ、後者は全体的な群像を撮る高位置のカメラアングルを使用しています。前者が奈良・平安時代風ならば、後者は鎌倉時代以降の視点を持った作家ということができます。


(3) 阿弥陀仏との同化と穢れの排除

1052年(永承7年)、道長の子・藤原頼道が山城の宇治に平等院を創建、落慶供養が行われました。人々は金銀財宝を惜しまず、芸術の粋を集めた平等院を見て、この世に極楽浄土が出現したと称賛しました。平等院は「観無量寿経」の西方極楽浄土と阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたとするのが定説で、観想というよりも阿弥陀如来と連座したいという現実的な思いが平等院を作らせたと考えられます。貴族たちは、仏教を崇拝するというよりも、それを観想、体感することに力を注いでいたようです。
ところで、当時、銅鏡は平安貴族たちにとって身だしなみを整えるために欠かせない道具でした。彼らは人から見られる視線を意識して身だしなみを整えていました。阿弥陀如来との同化への憧れが強くなった観想が流行した時代、銅鏡の表面に仏像・御正体が描かれるようになります。御正体は、神が本地仏をして銅鏡に姿を現すという神仏習合文化の遺品です。現在、神社に行くと銅鏡が御神体として安置されていますが、これは神仏習合の平安時代、仏像が描かれた銅鏡が御神体であった名残です。平安貴族たちは自分の顔を御神体が描かれた道鏡に映して仏と一体化しました。鎌倉時代、御正体は立体的な懸仏になるので、平安時代に流行した阿弥陀仏と同化する観想は廃れたと考えられます。
日本には古代から火と水の祭祀があります。護摩行が火の祭祀であるならば、滝行、禊、精霊流し、請雨の修法は水行です。京都の下鴨神社には、御手洗川、みたらし池があり、鴨川自体が禊の川として使用されました。下鴨神社では3月3日の「流し雛」、6月末には「夏越祓の神事」があり、京都の水祭を司っています。平安京の人々にとって鴨川は、844年に鴨川を美しく保つ勅令が出ているように、厄を洗い落とす川でした。
天皇家や公家、貴族にとって、怨念や御霊を鎮めることは重要な行事で、朝廷の人々は神苑園で御霊会を行い、御霊神社や天満宮を創建し、怨念を鎮める努力をします。医学や薬学が未発達の時代、朝廷の人々は疫病や飢饉、戦乱などの流行は怨念のせいだと考え、とにかく厄払いをすることを優先しました。10世紀前半、天慶・承平の乱が起こって以降、平安貴族は「穢れ」や「厄」の存在に敏感で、庶民もそれをまねて争いごとを忌み嫌う傾向が強まります。それで平安時代中期は、200年間、平和な時代が続く。
985年、源信が「往生要集」を著わし、地獄・極楽の様子を説くと、藤原道長をはじめとする平安貴族たちは、現実世界に不安を抱き、安部清明などに厄払いの修法を行わせます。
安倍清明は平安時代中期の陰陽師で、鎌倉時代から明治時代まで、陰陽寮を統括していた、加茂氏と並ぶ二大陰陽家の一つ、土御門家の祖です。50歳で天文博士に任じられ、当時から清明の占いの才能は有名でした。花山天皇や一条天皇の時代、さまざまな霊力を発揮、藤原道長の信頼を得て、朝廷で重用されました。彼は数学的な能力にも優れており、主計権助も務めています。平安時代、呪術や天文学は最先端の学問でしたが、それを体系化したのが安倍清明です。清明の活躍は鎌倉時代に著された歴史物語の「大鏡」、説話集「今昔物語」などに登場します。
清明は夢枕獏の小説「陰陽師」の原作を、岡野玲子が漫画化、さらに滝田洋二郎が映画化でヒットし、2000年前後、安倍清明ブームが起きました。作品の中で清明は「清明紋」と呼ばれるマークや、式神を使って呪術を使い呪いや厄を払っています。近代にはいると、「清明紋」は魔よけとして陸軍の階級章に使用されます。
藤原氏が長期政権を維持できたのは、「御霊の呪い」、「穢れ」を忌み嫌う思想を呪術によって払うことを日本中に広めたからです。このような考え方によって、日本人は、争いを回避し、調和を求める生活様式を確保することになります。

         

(4) 平安時代中期の男女観

藤原道長の時代、紫式部や清少納言の女流作家が活躍しますが、これは世界的に見ても稀。西洋は男性優位の社会だったので、女性が学問をするなど、もっての他でした。女流作家が登場したのは、日本人男性が女性の家に入る「通い婚」を行っていたので、女性の家の力が強かったのが要因の一つでしょう。一般的に生理のある女性は穢れた存在と考えられがちですが、それは男性優位が確立された江戸時代以降の傾向。淀君が徳川家康に逆らえたのも、女性優位の名残が残っていたからでしょう。男性優位になるのは戦国時代からで、通い婚だった鎌倉時代まで、女性の売春という概念はありませんでした。
日本人は昔から男色について、男のたしなみとする慣習があり、性行為についての男女差はありません。1549年、日本に男色を禁止していたキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは日本人の男色が広く行われていたことに驚いています。「古事記・神代」では最高神は女神アマテラスで、男神スサノオと共同統治を行っているが、このような状況が男女格差を消滅させ、人間としての知性や教養が重視されたので女性が活躍できたのです。
この時代のホモセクシャルの様子は藤原頼道(左大臣)の「台記」などに詳しく書かれています。白河院や鳥羽上皇のことまで書いている。後鳥羽上皇は美男子との乱痴気騒ぎが好きで、藤原定家は「裸踊りが始まるとうんざりする」と言っています。当時の天皇は、現在の天皇観とは大きく異なっています。
日本人が平等の概念をした根本には、空海が輸入した多神教を和風化したことが大きい。男女、火と水、地獄・極楽など、陰陽道は二元論を使って男女の平等感を確立しましたが、それは男性優位の一神教の世界とは大きく異なっています。さらに、そのような平等の思想は、鎌倉時代の宗教家・親鸞によって「悪人正機説」にまで発展する。穢れは、男女の差に関係なく降りかかると考えられていた。仏教では修行の妨げになるので、さまざまな分野で戒律を作り、女人禁制を行っていますが、親鸞は妻帯も認めた独特の仏教観を持っています。このような親鸞の思想を考察すると彼が確立した浄土真宗は、仏教と神道が癒合してできた異質な仏教です。
明治時代になり、一神教的なキリスト教世界の価値観が輸入されると、日本人も一神教的な発想で一時的に男性優位の封建的社会を築きますが、それが日本人の性格に適応しなかったことは、太平洋戦争の敗戦から読み取れます。やはり、日本人には寛容で多神教的な、平等観がある精神構造が似合っている。
平安時代末期、宗教教団が紛争を起こす事件が多発しました。それは法王的な地位を持つ院政が行われたことが原因でした。退位した天皇は自分の勢力を保つために貴族よりも寺社に近づいた。延暦寺と園城寺の確執(1035年)、伊勢神宮内の権力闘争(1039年)、興福寺と源頼親・頼房の乱闘(1050年)など、俗世の権力闘争は拡大し、「前九年の役(1051年)」、源頼義の時代から、武士が歴史に登場するようになます。翌年、藤原頼道が平等院を完成させたが、前九年の役は貴族たちに、「末法の世」を感じさせるには十分な事件でした。
平安時代と鎌倉時代の社会の違いは、武士に土地の所有権を認めるかどうかで、前記したように平安時代、土地は貴族や寺院が荘園領主の所有物で、武士の管理権は認められても、所有権はありませんでした。それが大きく変わったのが、1185年、源頼朝が守護・地頭を設置した時点、それ以降、武士の土地所有権が認められるようになり、時代が大きく変わります。源頼朝は天皇家の影響を排除するために鎌倉に根拠地を構え、都との距離を置き、1221年に起こった「承久の乱」で武士による支配体制は確立します。
平安時代が観念的な貴族の世ならば、鎌倉時代は現実的な武士の世となりました。鎌倉時代の古美術については次回の骨董講座でお話しします。

           

(5) 入手できる古美術品

古美術店には、仏教美術に関する品物を扱っている店があります。そこで扱われる商品は写経、仏像、仏像の残欠、銅鏡、陶器など。今回、骨董講座に出品している定朝様式の仏像、経筒は平安時代後期のもの。平安時代の古美術品は人気があるのですが、残存する数が少ないので高価です。その中でも比較的、入手しやすい商品に陶磁器があります。陶磁器には北宋の陶磁器と日本の陶器がありますが、日本の陶器よりも北宋の陶磁器の方が、状態のよい物は入手しやすいでしょう。北宋時代は禅宗が盛んだったので、装飾性を排除した陶磁器が主流。中でも白磁は浄土宗を連想できるアイテム。平安時代の写経も入手可能。どの時代のものでも同様ですが、仏像などにも偽物があるので信用のおける古美術商で古美術品を入手してください。

平安時代中後期の文化と古美術、いかがだったでしょう。次回は武士が政権を獲得する鎌倉時代の文化と古美術についてお話します。ありがとうございました。
(終わり)

           

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