このページは2016年10月1日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第31回 「古代・中世と古美術シリーズ -8- 平安時代後期の文化と美術」
(1) 藤原時代全盛期 |
4月から3回続けて、リクエスト講座を行ったのですが、今回は久しぶりに「骨董講座 歴史編」です。半年間、歴史から遠ざかっていると、歴史に対する感覚が鈍っています。10月から7回連続で平安時代後期から昭和時代の歴史講座を開くので、講座を通じて歴史と骨董についての関係を楽しんでいただけたら、いつものように講義内容は独断と偏見に満ちていますので、よろしくお願いします(笑)。 |
(2) 浄土への憧れ
|
平安貴族の浄土への憧れは985年(寛和元年)、源信が「往生要集」を著した時に始まります。「往生要集」は念仏による極楽往生を説いたもので、源信は地獄・極楽の様子を説き、厭離穢土、欣求浄土を目指し、「阿弥陀仏の相好(特徴)を心に観ずる観想念仏が大事」としました。当時の世相に不安を感じていた貴族たちは、極楽往生を夢見て生活を送っていました。それをこの世の再現しようと目論んだのが、藤原道長で、それを手伝ったのが定朝でした。2人は二人三脚で極楽浄土の再現、法成寺を創建します。
平安時代の仏教を知る上で、藤原道長の臨終の記録が、参考になります。1027年(万寿4年)、法成寺で暮らしていた道長が危篤に陥りました。死に臨んだ道長は東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入り、床に伏せます。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、北枕西向きに横たわり、高価な高木を炊き、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生しました。源信が説いた観想を、藤原道長以降、平安貴族たちは四季折々、寺院において体感していたはずです。バーチャル・リアリティ。 |
(3) 阿弥陀仏との同化と穢れの排除
|
1052年(永承7年)、道長の子・藤原頼道が山城の宇治に平等院を創建、落慶供養が行われました。人々は金銀財宝を惜しまず、芸術の粋を集めた平等院を見て、この世に極楽浄土が出現したと称賛しました。平等院は「観無量寿経」の西方極楽浄土と阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたとするのが定説で、観想というよりも阿弥陀如来と連座したいという現実的な思いが平等院を作らせたと考えられます。貴族たちは、仏教を崇拝するというよりも、それを観想、体感することに力を注いでいたようです。 |
(4) 平安時代中期の男女観
|
藤原道長の時代、紫式部や清少納言の女流作家が活躍しますが、これは世界的に見ても稀。西洋は男性優位の社会だったので、女性が学問をするなど、もっての他でした。女流作家が登場したのは、日本人男性が女性の家に入る「通い婚」を行っていたので、女性の家の力が強かったのが要因の一つでしょう。一般的に生理のある女性は穢れた存在と考えられがちですが、それは男性優位が確立された江戸時代以降の傾向。淀君が徳川家康に逆らえたのも、女性優位の名残が残っていたからでしょう。男性優位になるのは戦国時代からで、通い婚だった鎌倉時代まで、女性の売春という概念はありませんでした。 |
(5) 入手できる古美術品
|
古美術店には、仏教美術に関する品物を扱っている店があります。そこで扱われる商品は写経、仏像、仏像の残欠、銅鏡、陶器など。今回、骨董講座に出品している定朝様式の仏像、経筒は平安時代後期のもの。平安時代の古美術品は人気があるのですが、残存する数が少ないので高価です。その中でも比較的、入手しやすい商品に陶磁器があります。陶磁器には北宋の陶磁器と日本の陶器がありますが、日本の陶器よりも北宋の陶磁器の方が、状態のよい物は入手しやすいでしょう。北宋時代は禅宗が盛んだったので、装飾性を排除した陶磁器が主流。中でも白磁は浄土宗を連想できるアイテム。平安時代の写経も入手可能。どの時代のものでも同様ですが、仏像などにも偽物があるので信用のおける古美術商で古美術品を入手してください。
平安時代中後期の文化と古美術、いかがだったでしょう。次回は武士が政権を獲得する鎌倉時代の文化と古美術についてお話します。ありがとうございました。
|