このページは2013年12月7日(土)・14日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第3回 「日本におけるお茶文化」 (1) お茶文化の基礎知識

【1】 茶とは、チャノキの葉や茎を加工して作る飲み物で、酸化発酵させた紅茶とさせない緑茶がある。茶のもとの字は「荼」で、草の苦さニガナを意味する。茶の原産地は中国・雲南で四川、雲南の人が茶を飲み始めた。
【2】 漢代の「神農本草経」果菜部上品には次のような記述がある。「苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老」これを読むと2千年前、人々が緒を薬として服用していたことがわかる。
【3】 茶の字が使用されるようになったのは唐代、陸羽(?―804年)が「茶経」を著わして以後のこと。「茶経」には茶の飲み方として、觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餠茶(へいちゃ)があるとされている。觕茶はくず茶、散茶は葉茶をいうとされ、餅茶は乾燥した茶葉を圧搾して固形にしたものである。末茶(抹茶)は餠茶を搗いて粉にしたものであり、7世紀にはこの末茶が主流であった
【4】 宋代(960年-1127年)になると、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研(す)って粉にして飲むようになった。これが現在、日本の茶道で取り入れられている茶である。この時代、茶は中国の主要輸出品となり、アジア各地に輸出された。
【5】 日本に茶が初めて輸入されたのは奈良時代であるが、当時、日本人がどのような方法で茶を飲んでいたかは解明されていない。
鎌倉時代、日本で茶の栽培を復活させたのは臨済宗の開祖・栄西禅師(1141年~1215年)で、「喫茶養生記」を表して茶の普及に努めた。禅師は「喫茶養生記」の中で、「茶は養生の仙薬」と書いているので、眠気覚ましの薬用として茶が飲まれていたことがわかる。
【6】 南浦紹明(1235年~1309年)によって中国の茶道具が輸入されて日本で茶道が始まる。茶道は禅宗の行事の一部として広まり、千利休によって大成された。
【7】 当初、茶道は武士など支配階級で行われていたが、江戸時代に入ると庶民にも広がる。黄檗宗によって日本にもたらされた煎茶が流行、抹茶とは違う茶道が一世を風靡した。明治時代に入ると「茶の湯」は「茶道」と改称され、戦後は女性の礼儀作法の嗜みとみなされるようになった。
【8】 世界で主に栽培されているはチャノキとその変種であるアッサムチャで、低木、寒さに強い、カテキン含有量が少ないチャノキは緑茶、大木、熱帯に生息、カテキン含有量が多いアッサムチャは紅茶用として使用される。茶に含まれるカテキンは血圧上昇抑制、血中コレステロール調節、血糖値調節、抗酸化作用、抗がん、抗菌など、多くの分野で生理活用されている。新芽には多くのカフェイン、カテキン、アミノ酸が含まれているので摘採時期が重要となる。日本の茶摘みの時期は5月上旬~6月(八十八夜の頃)で、そのころ摘まれたお茶が「新茶」と呼ばれる。
【9】 ヨーロッパに紹介されたのは、1609年、オランダ人が平戸に商館を設け、日本の茶がジャワ経由でヨーロッパに輸出されたときである。そのため、ヨーロッパで当初飲まれたのは日本の緑茶であった。茶は薬屋で取引される高価なもので、聖職者が眠気覚ましの薬に用いた。18世紀になるとヨーロッパ人は紅茶を飲むようになる。半発酵茶である烏龍茶は、福建北部の武夷山で始まり、福建南部の安渓で生産された。安渓で産する烏龍茶の代表が鉄観音である。茶の輸入によって貿易超過に落ちいったイギリス商人はアヘンを中国人に売って貿易収支の均衡化を図った。その時、起きたのがアヘン戦争である。イギリス商人は中国からの輸入を減らすために、インドで茶の生産を行う。それ以後、インド、スリランカが茶の一大栽培地となる。
【10】 インド、タイ、中央アジア、イラン、ロシア語でも茶はチャ、チャイと発音されるので、茶が中国から世界に伝播したことがわかる。17世紀、ヨーロッパに茶を持ち込んだのはオランダ人で、ティーは中国南部・閩南語(ビンナンゴ)。


(2) お茶の歴史

第三回骨董講座においでいただきましてありがとうございます。今回は「お茶」を中心に日本文化を語っていきたいと思います。

人と茶との出会いは古代、中国に遡ります。茶に関する有名な最古の文献は、後漢から三国時代に書かれた中国の本草書「神農本草経・果菜部上品」です。この中に「苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老」とあり、これを読むと2千年前の人は茶を薬と考えていたことがわかります。人が茶を飲むようになったのは紀元前4世紀頃で、推測ですが老荘思想の発展とともに茶の嗜好も拡大したのでしょう。茶の原産地は中国・雲南で、その周辺の人が茶を飲み始めました。アジア人にとって揚子江は米や茶が発生した重要な農作地帯です。
骨董の世界では茶よりも酒器の方が先に出現します。それを考えると人間は健康よりも快楽を求めていたことがわかります。中国人は酒を好みましたが、日本の縄文人は酒を飲んでいない。私たちの周りにはアルコールを飲めない人がいますが、そのような方は縄文人的な遺伝子を強く持った人です。日本人が酒を飲むようなったのは稲作が伝播した弥生時代からで、酒が飲める人のほとんどは渡来人の血を引いていることになります。
日本人が茶を飲むようになったのは奈良時代で、遣唐使によって茶が日本に持ち込まれました。当時、茶は貴族の飲み物でした。
当初、「茶」は、「荼」と記されていました。荼は草の苦さニガナを意味します。「良薬は口に苦し」ではありませんが、苦い茶は薬だったのです。「茶」の字が使用されるようになったのは唐代、陸羽の表した「茶経」以降で、昔の人は体験で茶の科学的分析をしていたようです。茶が身体に良いことは現在、近代科学で証明されています。茶に含まれるカテキンは血圧上昇抑制、血中コレステロール調節、血糖値調節、抗酸化作用、抗がん、抗菌など、多くの分野で活用されている。新芽には多くのカフェイン、カテキン、アミノ酸が含まれているので摘採時期が重要になります。日本の茶摘みの時期は5月上旬~6月(八十八夜の頃)で「新茶」と呼ばれます。
茶の効用の中で特に重要なのが抗菌、昔から人は傷を治すことに注意を払っていました。熊は冬眠する前にクマ笹を食べて眠りに入ります。これは眠っている間にクマ笹の力を借りて抗菌するためです。古代人は茶の効用を知っていた。それを日本人に認識させたのが臨済宗を開いた栄西禅師です。
栄西は宋に渡って茶の種を持って帰り、博多周辺で栽培を始めます。それがやがて京都、宇治に持ち込まれる。茶の葉は繊細なので霜が降りる場所では育たない。宇治が茶の産地になったのは霜が降りないからです。
当時、京都の貴族たちは白米ばかり食べていたので糖尿病と虫歯に悩まされていました。白米は糖分ですから、お菓子を食べるようなものです。白米を食べても野菜など補食をすればよいのですが、白米ばかり食べていると病気になる。そこで栄西が勧めたのが茶です。お茶を飲むと病気の予防になるので、貴族たちが最初に茶に飛びつきます。しかし、当時のお茶は高価だったので、一般には広まりません。そのような状態は室町時代末期まで続きます。
ちなみに南宋の茶道具が鎌倉時代、南浦紹明という禅僧によって伝来します。それが発展して、足利義政の作った東山文化になる。義政が集めた茶道具を東山御物と言いますが、そのほとんどが唐物です。足利義政は応仁の乱が起こっても政治はそっちのけで文化的趣味に走った人です。そのために日本は大混乱に陥り、戦国時代が始まります。


(3) 茶道の完成

1643年、種子島に鉄砲が伝来します。これを伝えたのは倭寇と組んで商売をしていたポルトガル人でした。ポルトガル人が鉄砲を日本人に伝えたことになっていますが、実際には倭寇が鉄砲の交易を取り仕切っていた。倭寇は鉄砲の他、中国南部から茶を日本に持ち込みました。室町末期はまだ茶が高価だったのですが、それを扱っていたのが堺の商人です。鉄砲も牛耳っていたので、堺の商人の主力商品は火薬と茶ということになる。
当時、堺は南海航路の最終地点で、堺、高知、鹿児島、種子島、琉球、明を結ぶルートを支配していました。日本人は手先が器用なので日本に鉄砲が伝来してわずか三年後、日本は鉄砲の一大生産国になります。その拠点が堺です。
「茶の湯」は堺の商人たちが始めた遊びで、それを可能したのが南海航路でした。
堺の商人の代表は津田宗及、千利休で、彼らは鉄砲を大名たちに売り込むために接待を行います。それはバブル時代、商社が官僚に接待攻勢をかけたのに似ています。「茶の湯」というと、「侘び茶」を考えがちですが、茶道の始まりは派手な接待でした。
織田信長が堺(和泉)の統治権を室町幕府から入手した時、堺の環境は大きく変わります。織田信長は当時、日本一の鉄砲生産力、火薬、茶を牛耳ることによって天下統一を目論みます。
堺の商人は織田信長を接待するために高価な茶を使って接待しました。信長は鉄砲、火薬、茶の貿易権を手に入れたことによって大きな権力を得ます。信長が「茶の湯」に熱心だったのは茶が大きな利益を生む商品だったからです。18世紀に入ると、それにイギリス人が気づいて紅茶を商品化します。イギリス人が茶を商品化する100年前に信長は茶を商品化していました。信長の先見性が伺えます。
侘び茶は利休が大成させたと考えられていますが、侘び茶に精進したのは利休の弟子・山上宗二。彼の屋号の薩摩屋も、堺と南海航路を結ぶ手掛かりとなります。
それでは利休が目指した茶の湯は何か? 答えは西洋風の茶会です。利休の屋号の斗々屋の、「斗」は「十」で、十字架の意味が隠されています。また、キリスト教のシンボルは「魚」なので、利休がキリシタン関係者だったことがわかります。茶道の「袱紗さばき」は、利休がキリシタンの聖杯を拭く仕草を真似て茶道に取り入れたと考えられています。利休は茶碗を聖杯に見立てて扱いました。
利休が禅宗に深く関わるようになったのは信長の死去後です。信長が殺されたのは日蓮宗の本能寺ですが、葬儀は大徳寺で行われました。この時から秀吉と利休の茶道体制が始まります。
秀吉は数の限られた唐物(本能寺でその多くが消失しました)の補充をするため、利休に和物、李朝物の茶道具ブランド化を命じました。それで選ばれたのが楽茶碗と李朝の井戸茶碗です。 信長の時代までは唐物中心の「茶の湯」、秀吉の時代から和風な「茶道」が始まりと考えれば茶道の歴史が理解しやすいでしょう。
信長に代わって堺の鉄砲、茶、南海航路の交易権を手に入れた秀吉は、その配分によって身分秩序の確立を目論見ます。茶道具があっても、抹茶の粉がなくては茶会ができない。利休は宇治茶を統制することによって、大きな権力を手に入れ、新しい身分秩序を決めた。それが仇となって、利休は切腹します。
豊臣秀吉といえば「北野の大茶会」が知られています。誰でも茶会に出席できた事は、茶を飲む習慣が町人まで広がっていたことを意味します。その最初の元締めが利休です。
利休亡き後、茶道の中心は古田織部に移ります。利休が「商人の茶」ならば、織部は「武士の茶」を出現させました。しかし、織部の影響力が強まると嫌疑がかけられ、徳川家の命令で織部は切腹します。その後、小堀遠州が「公家の茶」、本阿弥光悦が「町人の茶」を創って活躍する時代になると「茶の湯」の和風化され、「茶道」が完成します。


(4) 茶道具と煎茶の出現

ここでちょっと視点を変えて、茶道具の話をしましょう。
日本に茶道具をもたらしたのは禅宗の僧・南浦紹明(1235年~1309年)で、名品は足利義政によって東山御物として集大成されます。ですから、室町時代の名物のほとんどは唐物です。茶道具の需要が増した時、李氏朝鮮の茶碗や楽茶碗など、新しい価値観で茶道具を創造したのが千利休です。利休は日本の四季や環境に適応した茶道具を取り上げました。
茶の湯に目覚めた織田信長は個人の持っている名物道具狩りを始めます。信長に逆らった松永弾正などは「平蜘蛛茶釜」を差し出せば、助命すると命じますが、立て籠もった信貴山城で、茶釜に火薬を仕掛けて自爆します。笑いごとではありませんが、骨董趣味もこうなると命がけです。
利休も織部も切腹します。単純に言えば、茶の趣味が高じすぎて権力を持ったために殺された。「骨董病」という言葉がありますが、余りやり過ぎると社会適応できなくなるようです。
利休から始まった新しい名物の出現は、古田織部、小堀遠州、本阿弥光悦などによって大成されます。江戸時代前期、幕府が安定すると織部焼以外の名物の価値も高まります。特に三千家に伝わった茶道具は名物として維持されます。
1643年に徳川家光が出した「慶安の御触書」に、「百姓は茶や酒を飲まぬこと」とあり、江戸時代前期には百姓も茶を飲めるようになったことがわかります。
茶道の流派には三千家以外に様々なものがあります。織部流、三斎流、遠州流、石州流など、流派は三十を超えます。
このうち三斎流、石州流などは大名の作った流派で、三斎は自分の領地に上野焼、八代焼、小代焼の窯を築いて盛んに茶陶を焼かせます。三斎の他にも自領で茶陶を焼かせる大名が出現します。毛利家の萩焼、黒田家の高取焼、池田家の備前焼、島津家の薩摩焼などです。それらの茶陶は、それぞれ個性があって面白い物。
また、京都の公家や町人は本阿弥光悦、野々村仁清、尾形乾山などを支援して、京の茶道を発展させました。
江戸時代の茶で忘れてはならないものに煎茶の出現があります。
煎茶は江戸時代に清から渡来した隠元隆琦(1592年~1673年)によって伝えられた茶道です。隠元は京都で黄檗宗を開いて、禅宗を復興させ、煎茶の普及に努めました。
黄檗宗の寺院、万福寺は宇治にありますが、宇治が茶の名産地になったのは黄檗宗の影響があります。宇治は室町時代から茶の産地でしたが、それを発展させたのが茶道を支配した豊臣秀吉と千利休です。彼らは上林氏を重用して茶葉の生産を行いました。江戸時代中期、日本各地で茶が生産されるようになると、宇治茶の衰退が始まります。それを復興させたのが永谷宗円の開発した宇治茶製法で、販売促進したのが、黄檗宗の僧・売茶翁です。天保時代、玉露が開発されると宇治茶の地位は揺るぎないものとなります。
煎茶の発展と共に、日本では太湖石や古玩を飾って楽しむ文人趣味が流行し、絵画では田能村竹田などの南画家が出て、一世を風靡します。
煎茶器は抹茶用の茶道具同様、多彩な作品が生み出されました。その代表が奥田穎川や青木木米、仁阿弥道八です。彼らは抹茶器とは違ったカラフルな陶器を製作して「茶の湯」に新しい世界を出現させました。
明治時代に文明開化が起こり、西洋化が進むと、日本人は自分たちのアイデンティティを確認するために茶道を再認識します。
(終わり)


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