このページは2016年4月2日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第27回 「古代・中世と古美術シリーズ -7- 平安時代前期の文化と美術」
(1) 平安京遷都

平安時代は794年(延暦13年)、桓武天皇が平安京(京都)に都を遷してから鎌倉幕府(1192年)が成立するまでの約400年間を指します。794年から894年(寛平6年)に遣唐使が廃止されるまでを前期(藤原氏が摂関政治を確立する時期)、1051年(永承6年)、前九年の役が起こるまでを中期(仏法では1052年から末法の世とされた)、保元の乱が起こる1156年(保元元年)までを後期、源頼朝が征夷大将軍になる1192年(建久3年)までを晩期と区分できます。今回は平安時代前期、藤原道長が登場する前時代までのお話をしましょう。
前期の代表的な人物は桓武天皇、坂上田村麻呂、最澄、空海、藤原良房、藤原基経、菅原道真、平将門、藤原純友など。前期は平安遷都と藤原家の摂関政治に反旗を翻す人々が活動した時代だと考えればよいでしょう。いつものように講座は教科書に載っている史実とは別の視点からフィクションの話をしますので、よろしく(笑)。
平安時代の序章は784年(延暦3年)、桓武天皇が長岡京に遷都したことから始まります。それを主導したのが式家の藤原種継。しかし、785年、種継は長岡京を建設する途中で暗殺されます。暗殺を主導したのが誰かは未だに謎ですが、考察すると暗殺者は宇佐八幡宮を根拠とする西日本の勢力だとか推測できます。その代表的な人物が和気清麻呂。
新羅系勢力や仏教の政治介入を嫌った桓武天皇や貴族は自分たちの政治を行うために遷都を実行しました。この時期、藤原家は四家に分かれており、光明皇后と縁の深かった藤原仲麻呂の南家、平安京で勢力をふるうことになる北家、種継を出した式家(平城京に固執した)、京家がありました。高句麗系の母を持つ桓武天皇は種継を疎ましく思っていました。種継の死によって政治の主導権は和気氏や秦氏が握り、都を長岡京から平安京に遷します。
前回、平城京での氏族の根拠地の話をしましたが、平安京においても地勢的な勢力図は変わっていません。平城京の氏族がそのまま北に移動したと考えれば平安京の勢力図が把握できます。つまり、平安京の西(太秦周辺)は西日本・宇佐八幡宮の勢力が、東(祇園周辺)は東日本・鹿島神宮の勢力が住んでいました。
桓武天皇は高句麗系なので、秦氏や土師氏、菅原氏(蘇我氏)など西日本の勢力を基盤に持っていました。天皇の母は高野新笠、桓武平氏の祖の高棟王、高見王には「高」の字がついているので彼らが高句麗系の解氏(へし)であることがわかります。都の名前、平安京は「平氏が安泰な京」。秦氏の平氏の繋がりは秦氏が最初に造った北野廃寺の後に平野神社が創建されたことでも証明できます。それを南下すると石清水八幡宮、法隆寺の経度と重なります。
和気清麻呂は修験道を解禁した人物で空海のパトロンでした。禁を破って日本に帰国した空海を清麻呂は自分が創建した私寺・神護寺(高尾山寺)に匿っています。最澄が東の勢力と、空海は西の勢力と結びついていました。空海は佐伯氏出身です。佐伯の地名が付く土地は広島県(厳島があるのが佐伯郡)、大分県佐伯市があります。佐伯は「斉から来た人」、百済系支族です。
秦河勝が入植するまで京都盆地の中央部分は湿地帯で、人が住めるような土地ではありませんでした。河勝は保津川に堰を造り、太秦を人の住める土地に改良しました。保津川には不思議な話があります。上流を保津川、嵐山周辺を大堰川、その下流を桂川と呼びます。川名がこのように細かく分かれているのは京都で保津川だけ。
ちなみに保津川と木津川、宇治川は同義語で、クズの川(藤原氏の住む川)を表しています。
秦氏は太秦を開拓した後、東に進出します。桓武天皇の大極殿は秦河勝の屋敷跡に建てられた言い伝えがあります。桓武天皇は藤原氏を排除し、秦氏や蘇我氏と政権運営をしようと目論見ました。

         

(2) 桓武天皇、嵯峨天皇の政治と藤原北家の登場

長岡京に都があった791年(延暦10年)、朝廷は牛を殺して漢神を祀ることを禁止する法令を出しています。漢神とはローマのミトラス神(弥勒菩薩)です。この時代、平安京には西洋の宗教思想が導入されていました。ちなみに秦氏が根拠地とした太秦の意味はローマがあります。空海が渡航した長安にはキリスト教ネストリウス派の寺院・太秦寺がありました。空海は長安でキリスト教に触れ、西域からもたらされたワインを飲んでいたはず。高野山では現在でも十字を切る仕草が残っています。
後に天神として祀られる菅原道真の化身は雄牛です。北野天満宮に行くと牛の彫像が安置されている。秦氏、太秦、牛、ミトラス教、天神(雷神)、蘇我氏を全体的に考察すると漢神の実態が把握できます。簡単に言うと天神(漢神)とはギリシャ神話の神・ゼウスです。ちなみにヨーロッパの語源は、雄牛に変身したゼウスに誘惑されたエウロペ。ここでも雄牛が登場します。
797年(延暦16年)、菅野真道が「日本書紀」に続く正史、「続日本紀」を完成させます。「続日本紀」を編纂した人物にも「菅」の字が付いています。このことから、平安時代初期は菅氏(蘇我氏の士族)が朝廷の文章を扱っていたことが想像できます。1世紀後に出てくる菅原道真の時代まで、それは続きます。
この時代に活躍した蘇我氏の支族に坂上田村麻呂(758年~811年)がいます。
田村麻呂の青年時代、朝廷と蝦夷の抗争は激化していました。797年(延暦16年)、田村麻呂は征夷大将軍に任じられると、801年(延暦20年)、蝦夷の討伐に成功、802年(延暦21年)、蝦夷の長・アテルイと降すことによって戦争を終結させます。その結果、朝廷の影響力は東北まで及ぶことになります。その後、
田村麻呂は「薬子の変」の時、嵯峨天皇側に味方して手柄を立てました。嵯峨天皇は田村麻呂が死去した日(811年5月23日)、彼の死を悼み「事を視ざること一日」喪に服し、田村麻呂の業績をたたえる漢詩を作っています。このことから、坂上田村麻呂や嵯峨天皇の勢力が旧蘇我氏だったことがわかります。ちなみに葬儀が行われた日、田村麻呂の遺骸は勅命により「甲冑・兵仗・剣・鉾・弓箭・糠・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けひつぎを立つ」様子で、死後も平安京を守護するように埋葬されたといわれています(現京都市山科区にある西野山古墳が坂上田村麻呂の陵墓)。
「薬子の変」が終わると嵯峨天皇(809~823年在位、842年崩御)は平安京で唐風の政治を始めます。嵯峨天皇は南都六宗の勢力を弱めるために、空海の真言宗を重用しました。823年(弘仁14年)、空海は嵯峨天皇から東寺を授与され、平安京で唯一、寺院を建立することを許されます。このように平安時代当初は藤原氏よりも蘇我氏、秦氏たちが政治の中心を形成していたことがわかります。空海は829年、現在の大学ともいえる教育機関、綜芸種智院を設立、片仮名の創造や「日本書紀」の改変に携わっています。
蘇我系の天皇が主導する政治が変わったのは840年(承和7年)、西市で絹、牛などの専売品の取引が中止された時期です。平安京に住む人々は東市に殺到するようになり、宮では西よりも東側が栄えるようになります。この頃、西には33、東に51、店があったことが記録にあります。この後、平安京の中心は東側(藤原氏の根拠地)に移り、藤原氏が財政的にも優位に立つようになります。ちなみに西市が廃止された原因は桂川の氾濫です。
藤原氏の興隆は、北家の藤原良房(804年~872年)の活躍から始まります。良房は嵯峨天皇の重臣であった冬嗣の子で、嵯峨天皇の娘を妻にもらいました。
857年(天安元年)、惟仁親王(清和天皇)の祖父である良房は外戚の地位(娘・明子が文徳天皇の妃)を利用して太政大臣となり、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王を即位させた後、自分の孫・惟仁親王を天皇にするつもりでした。しかし、858年(天安2年)、惟喬親王が崩御すると、彼は9歳の惟仁親王を清和天皇に即位させます。清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたので、良房を生涯、深く信任していたようです。
866年(貞観8年)、「応天門の変」が起こし、良房は古来の名族の大伴氏や紀氏を一掃、権力基盤を強固なものにしました。この年8月、清和天皇は良房に「摂行天下之政(天下の政(まつりごと=政治)を摂行せしむ)」とする摂政宣下の詔を与えます。これが人臣最初の摂政です。
887年(仁和3年)、良房の養子・基経は関白となり、清和天皇、陽成天皇、光考天皇、宇多天皇の四代(858年~897年)に渡って権勢をふるい、藤原北家の摂関政治を盤石なものとしました。

         

(3) 菅原道真と平将門

888年(仁和4年)、「阿衡の紛議」によって屈辱を味あわされた宇多天皇が菅原道真を重用、反藤原氏勢力を形成します。菅原道真(845年~903年)は名前から嵯峨天皇の関係者であることが推測できます。彼の一族は奈良市菅原町周辺に根拠地を持つ土師氏や秦氏の一族で、道真が優秀だったのは子供の頃から唐風文化に馴染んでいたからでしょう。道真の功績は「遣唐使の廃止(894年)、「類聚国史」、「新撰万葉集」、「日本三代実録」などの編纂、勅撰和歌集の納められた和歌などの創作、藤原氏の後継を持たない宇多天皇を仕えて、「寛平の治」を指導した忠臣として名をあげました。道真が実行した「遣唐使の廃止」によって日本で和風文化が開花、神仏混合して本地垂迹説が起こります。しかし、道真は901年(延喜元年)、左大臣・藤原時平(871年~909年)の讒訴によって太宰府に左遷され、京に帰ることもできず失意のうちに59歳で生涯を閉じました(903年)。
その後、道真を讒訴した藤原時平が39歳の若さで死去、930年(延長8年)、清涼殿に落雷して消失、「承平・天慶の乱」が勃発すると、事件が道真の「祟り」と結びつけられ、それを恐れた朝廷は947年(天暦元年)、道真を天神として北野天満宮に祀ります。この時期、中国でも貴族的な唐が消滅、世相が不安定だったので、「御霊」、「怨念」、「「祟り」など呪術的な思想が流行したようです。さらにキリスト教世界ではミレニアムを迎えるにあたり、清めの儀式が盛んに行われていました。ミレニアムを前にしたパリは白い建物一色になったと言われています。
源信によって極楽や地獄を描いた「往生要集」が著されたのも、この頃(985年)。絶対神(一神教)の観念の薄い日本では、祟りを封じ込めるために神仏にすがり、安部清明などの陰陽道を信仰しました。平安時代前期の御霊信仰、祟りの起源となったのが菅原道真の天神信仰と関東における将門信仰です。

平将門(生年不詳~940年)は高望王の三男・平良将の子(桓武天皇5世)として生まれ、成長すると北家の藤原忠平と主従関係を結びます。935年(承平5年)、関東で平氏の内部抗争が起こると、将門は国衙を襲い(939年12月)、朝廷に反旗を翻し、新しい政権を打ちたてました。この時、将門軍の主力は反り返った日本刀を使用する騎馬軍団だったといわれています。
同時期、西国では藤原純友が地方の政庁を襲い、朝廷の人々は東西の反乱鎮圧に苦慮します。しかし、将門は新政権樹立後、2か月で藤原秀郷、平貞盛などの反抗にあい、あっけない最期を遂げます。討たれた平将門の首は千代田区にある将門塚に埋葬され、将門は神田明神に祭神として祀られています。ちなみに将門を破った藤原秀郷の子孫は東北の佐藤氏、平貞盛は子孫・平清盛を生んで平氏政権を建てました。
970年(天禄元年)、祇園の八坂神社で行われた御霊会が、974年に官祭となります。これが後に祇園会と結合、山鉾巡行に発展します。
10世紀末は969年(安和2年)の「安和の変(藤原氏が政敵・源高明を失脚させる)」、996年(長徳2年)の「長徳の変」以外、大きな政変も起こらず平和な時代でした。和風文化(かな文字、極楽浄土、本地垂迹説の流行など)が発展、「蜻蛉日記(藤原道綱の母)「枕草紙(清少納言、996年)」など女流文学も登場します。
歴史書を見ると、この時代、宇佐八幡宮や興福寺の僧たちが朝廷に国守たちの解任を訴えています。当時、貴族や寺院などの荘園を巡る争いが絶えず、暴力による解決を忌み嫌う日本人は、問題解決に藤原氏を頼りました。藤原氏は問題を解決すればするほど権勢が増す構造を構築、それを「御霊」や「祟り」信仰と融合させて政治を行い、圧倒的な権力を手に入れます。その頂点が、藤原道長(966年~1028年)が政治を行った時期です。

           

(4) 平安時代前期の文化と古美術

平安時代前期は密教の盛んな時代、それを弘仁・貞観文化と呼んでいます。この文化の特徴は修験道の影響、ヒンドゥー教の影響を受けた密教芸術の導入、天台宗における戒律の簡素化などです。真言宗は自然科学的、天台宗は人文科学的な宗教です。天台宗を広めた最澄は南都仏教に対抗するため、戒律を簡素化、庶民に仏教の理解が広まる基礎を築きました。後に天台宗からは和風化された浄土宗、禅宗、日蓮宗など、日本の主要な宗派が出現します。
一般的に天台宗は顕教、真言宗は密教と呼ばれ、それぞれに特徴を持っています。密教は複雑で専門性が強く、都市に住む庶民に受け入れがたいものでした。ですから都周辺の人々は簡素化された天台宗派を信仰しました。近畿地方の宗教分布図を見ると近江周辺、東北から関東にかけて天台宗の寺院が多く、紀伊半島や日本海側、四国などに真言宗が広まっていることがわかります。四国などはほとんどが真言宗派(お遍路さん)です。
ところで言語の天才である空海は朝廷の要請を受け、カタカナ(クチャ仮名)、ひらがな(新羅仮名)を創作しました。それが広まり、日本人特有の文学が生まれます。
894年、菅原道真が遣唐使を廃止したことによって唐風が廃れ、神道と仏教が融合する和風の本地垂迹説が起こります。同時に仏像は土着的になり、神像も作られるようになります。この時代の仏像や神像は唐の仏像様式の影響を受け、丸い顔、豊満な体躯をしています。正倉院にある「鳥毛立女屏風」などを見ると、それが理解できるでしょう。
時代が進むにつれ、平安京の中心は太秦、嵯峨野周辺から鴨川沿いに移動しました。京都盆地の西は天皇家、東が藤原氏の根拠地だったと考えれば平安京の構造を把握しやすいでしょう。京都盆地の発展史を見ると太秦や嵯峨野周辺から、御所や加茂神社のある地域、八坂神社周辺、伏見稲荷周辺へと町が発展していったことがわかります。そこには松尾大社、賀茂神社、八坂神社(牛頭大神を祀る)、伏見稲荷があり、京の発展に深く関わりました。ちなみに中世の物語「桃太郎」の家来、雉は賀茂神社、犬は伏見稲荷、猿は松尾大社と所縁がある動物です。
弥勒菩薩像で有名な広隆寺の隣「蚕の社」内に、三つ柱の珍しい鳥居があります。この鳥居は三角形の頂点と反対の線の中心を結んだ線が各地にある有名な神社(伊勢神宮、熱田大社など)の方角を示しています。いわば、この鳥居は「京都のへそ」、平安文化の中心に位置する鳥居です。ここを中心に秦氏は各地に神社を造営しました。今度、京都を訪ねた時、是非、「蚕の社」に行ってください。平安京の歴史認識が深まると思います。
空海が発明した「かな文字」が流通するようになったのは10世紀に入ってからです。それまで日本人は万葉仮名で文章を表現していましたが、かなを使用することによって日本人独自の文学を生むことに成功します。それを発展させたのが女性だったことは有名な話。当時、日本人女性の教養が高く、世界的に見ても日本は文化的な国でした。
この時代の古美術品には仏像、仏像の残欠、銅鏡、金銅製の経筒、須恵器などがあります。高価ですが魅力的です。
中国では北宋時代、火力の材料が材木から木炭に変わり、エネルギー革命が起こりました。結果、陶磁器が急速に発展、定窯の白磁、景徳鎮の青白磁、竜泉窯の青磁などが出現します。北宋時代の陶磁器は仏像などの和製の古美術品よりも入手が簡単です。

あまり知られていない平安時代前中期の観光名所をあげます。まずは太秦にある「蚕の社」。ここは「京都のへそ」ともいえるパワースポット。その近くにある松尾大社裏の山にあるご神体を見に行くのも良いでしょう。嵯峨野の北、高尾(京都市左京区)に和気清麻呂の墓がある神護寺があります。高尾は紅葉で有名な観光スポットです。
京都の東・山城には「坂上田村麻呂の墓」があります。埋葬された坂上田村麻呂の遺骸は平安京の方向を見て立っているそうです。山城から南に下ると平等院で有名な宇治市があり、東側の町中に藤原一門の陵墓が点在しています。これは玄人向きの遺跡。
山形市の山寺、和歌山県の金峰山周辺、奈良市の室生寺五重塔、京都府小浜市の寺院、鳥取県にある投入堂(三仏寺)、大分県の石仏など、各地に平安時代を感じさせてくれる観光スポットがあります。
平安時代前期、仏教は官制から庶民に解放されました。各地に残っている土着的な平安仏を見ると、庶民の信仰の一面に触れることができます。ネットで検索すると、日本各地に民間の平安仏を所蔵している資料館(琵琶湖周辺に多い、北広島市にある古保利薬師堂など)があるので、貴族的な仏像ばかりに目を向けるのではなく、土着的な仏像の鑑賞も楽しんでください。
今回で「骨董講座 古代編」は終了します。7か月間、受講、ありがとうございました。
(終わり)

           

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