このページは2016年3月5日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第26回 「古代・中世と古美術シリーズ -6- 奈良時代の文化と美術」
(1) 平城京遷都 |
奈良時代は710年(和銅3年)の元明天皇の平城京遷都から794年(延暦13年)の桓武天皇の平安京遷都までの84年間の時代を指します。時代を区分すると710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇と道教の執政以降を後期に分類できます。この間、723年の三世一身法(新たに開墾した土地の所有を三代まで認める)、743年の墾田永年私財法(新たに開墾した土地は開墾者の子孫の所有とする)が制定され、741年の聖武天皇による国分寺・国分尼寺の建立令、752年の大仏開眼、770年の修験道解禁、784年の長岡京遷都などが、文化的には「古事記(712年)」、「日本書紀(720年)」、「万葉集(780年)」の完成、天平文化の開花、和同開珎の導入などがありました。平城京は人口が6万人の大都市(唐の長安は80万人)。奈良時代の中期(740~745年)にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に遷都しています。これらの都は新羅系の根拠地でした。 |
(2) 大仏建立
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聖徳王は日本で橘諸兄と名乗って政治活動を開始、式部卿・藤原宇合を武力で粛清、その後、朝廷は橘諸兄(金良琳)、聖武天皇、光明子の親子による支配体制が確立しました。 |
(3) 奈良仏教の政権闘争
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754年(天平勝宝6年)、唐から鑑真が来日、東大寺内に「戒壇院」を設け、聖武天皇、光明皇后に受戒、日本の僧侶400人にも「菩薩戒」を授けました。しかし、当時の仏教界は権力争いの場で、華厳宗を信仰する新羅系仏教勢力は個人よりも国家を優先する「金光明最勝王教」を優先、鑑真が提唱した個人の救済や悟りを説く上座部仏教「律宗」は、国家権力に対抗するとして排他されます。 |
(4) 奈良時代の美術と後世への影響
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奈良時代の美術は仏教と唐の美術といっても過言ではありません。奈良市に行くと東大寺、興福寺、唐招提寺、薬師寺など、たくさんの寺院が残っています。奈良時代に建立されて現存している建物は法隆寺三重塔や夢殿、東大寺法華堂、正倉院、唐招提寺金堂、薬師寺東塔、当麻寺東塔などがあります。白鳳時代に比べると寺院遺跡が多いので奈良時代が仏教の時代であったことが理解できます。奈良市の寺院に多くの仏像も残っています。東大寺法華堂の仏像群、唐招提寺の鑑真像、興福寺の阿修羅像、法華寺の十一面観音などが代表的な作品。この時代、仏像制作に乾漆技法が採用され細かな表現が可能になったので、仏像がリアリティのある作品に仕上がっています。阿修羅像などは百済から渡来した仏師・将軍万福(しょうぐんまんぷく)が製作しました。
奈良時代の後世への影響を考えると、やはり外来の仏教文化を取り入れたことが大きい。当時の日本人は仏教を通じて、外国の文物に触れました。奈良時代は西洋の中世初期、中東でイスラム教が興隆を始めた時代と重なります。この時期、自然科学が主流だった時代が終わり、全世界的に宗教国家が主流となります。奈良時代には日本に西域のリアリズムが輸入されたのですが、それを日本に招聘したのは「秦」という氏族です。彼らはリアリズムと日本古来の自然を崇拝する思想を融合させて神道という新しい宗教を創造します。神道は古来からあったと考えるのは間違い。春日大社が創建されたのが奈良時代。それまで神社に建物はなく、社殿が作られるようになって神道が発展したのです。現在、各地の神社で「のみの市」が開かれています。奈良時代、神社は商品流通の場でした。神社は人々の交流の場、今の市場のようなもので、それを統制していたのが秦氏。彼らは神道や神社を使って西域や中国の市場原理を日本に導入しました。奈良時代後期、宇佐八幡宮事件が起こります。これは神道が政治的に大きな役割を果たしていた証となります。奈良時代は仏教の時代ととらえがちですが、神道にも目を向けると新たな一面に接することができるでしょう。 |