このページは2016年2月6日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第25回 「古代・中世と古美術シリーズ -5- 白鳳時代の文化と美術」
(1) 高向玄理(淵蓋蘇文、蘇我入鹿)

白鳳時代は645年の「大化の改新」から710年の「平城京遷都」をさします。
出来事を上げると大化の改新(645年)、改新の詔(646年)、白村江の戦い(663年)、壬申の乱(672年)、藤原京遷都(694年)、大宝律令制定(701年)などが、朝鮮半島では百済滅亡(660年)、高句麗滅亡(668年)、新羅の半島統一(676年)などがあります。この間、倭人は難波京、飛鳥京、大津京、藤原京の4つの都を造りました。
白鳳時代を区分すると、大化の改新(645年)から百済滅亡(660年)を1期、壬申の乱(672年)までを2期、都を藤原京遷都(694年)までを3期、平城京遷都(710年)までが4期となります。この時代の主要人物は天智天皇(中大兄皇子)、中臣鎌足(藤原鎌足)、斉明天皇(皇極天皇)、天武天皇(大海人皇子)、藤原不比等、文武天皇など。その他、高向玄理という人物がいますが、重要な割に知られていません。
1期は政変の時代。倭は百済の政変(641年)、百済・高句麗の同盟(643年)、高句麗のクーデター(642年)に巻き込まれ、乙巳の変(大化の改新)が起こります。これらの政変を主導したのが歴史書に遣隋使、遣唐使と記されている高向玄理です。前半は高向玄理を中心に話を進めますが、作り話なので創作物語として聞いてください(笑)。
高向玄理は590年頃、蘇我蝦夷(小野妹子、百済・武王)と百済・蓋氏女の王子として産まれました。蓋氏は北扶余(漢城、ソウル)地方に根拠地を持つ高句麗・百済王朝と婚姻関係を持つ有力な一族でした。10代の時、倭に渡来、蘇我氏の一族として英才教育を受けます。彼はたくさんの名前を持って各国で活動を行いました。倭では高向玄理(高向理が隠されている)、高貴王、阿佐(倭蘇)王子、蘇我入鹿、伊梨柯須彌。高句麗名は淵蓋蘇文。伊梨柯須彌(いりかすみ、「日本書紀」。「淵(泉)」は高句麗語の「いり(高句麗語で「水源」の意味)」の漢訳で、「蓋蘇文」は高句麗語で「かすみ」と発音したものを漢字で当て字したもの。伊梨柯はイルカ、蓋蘇文の蘇が蘇我氏の蘇です。「日本書紀」に僧・旻という人物が出てきますが、これが蘇文ですね。
608年、高向玄理は父・蘇我蝦夷(百済・武王)と一緒に隋に渡ります。若い頃、彼は精力的に婚姻活動をしたようで倭で宝皇女(後の斉明天皇)を娶り、大海人王子(後の天武天皇)を設けています。
「日本書紀」では中大兄王子(天智天皇)は天武天皇の兄となっていますが、生まれたのは大海人王子の方が早かった。二人は異母兄弟。「日本書紀・皇極天皇紀元年(六四二年)」の記事に「百済国王(義慈王)が『塞上はいつも悪いことをしている。百済に帰らせていただきたいのですが、天皇はお許しにならないでしょうか』と、使者が阿曇山背連比羅夫に聞いています。塞上は豊璋(漢皇子)での別名で、塞上の「塞」は斉明天皇の「斉」、「上」は豊璋の「璋(蔵)」。これは高句麗・宝蔵王(天武天皇の兄)です。
641年、百済で武王(境部摩理勢臣・中大兄皇子の父)が死去した時、倭は葬儀に弔使を送っています。翌年、義慈王が即位、第1王子である翹岐や同母妹の女子4名、内佐平岐味、家柄の高い貴族40人余りを百済から追放します。義慈王は高向玄理の子で、後に高句麗・百済同盟を成立させる王です。
「日本書紀」に642年、蘇我入鹿が「八佾の舞(六十四人の方形の群舞で、これを行えるのは天子の特権だった)」を行った。「日本書紀」の作者は、それを蘇我氏の横暴と描いていますが、入鹿が「八佾の舞」を実行した理由は、彼が正当な後継者だったからです。
同年10月、淵蓋蘇文(蘇我入鹿)は高句麗王宮で栄留王、王族・貴族180人を惨殺するクーデターを起こします。高向玄理(蘇我入鹿)と義慈王親子が高句麗、百済を制圧したことによって、新羅は窮地に陥る。「日本書紀」では643年、聖徳太子の子・山城大兄王子が蘇我入鹿に暗殺されたことになっていますが、山背大兄王子(金春秋)は新羅に逃げ帰っています。高向玄理の行動によって、高句麗、百済、倭の新羅包囲網が完成するのですが、そのやり方に反発した唐・太宗は644年、高句麗に侵攻、645年に新羅と連携、大きな戦争になります。その時、倭では倭王室から高向玄理(蘇我入鹿)勢力を排除する乙巳の変(大化の改新)が起こります。時の女帝・皇極天皇は高向玄理の妻ですから、夫は殺しません。暗殺されたのは古人大兄皇子。
当時、東アジアの情勢は高句麗・百済同盟対唐・新羅、蘇我系の高向玄理・義慈王対安倍系の中大兄王子・山背大兄王子(金春秋)、中臣鎌足(新羅系)でした。ここまで話せば、唐の高句麗侵攻によって、大化の改新が起こったことが理解できますね。7世紀中頃の倭は、我々が思っている以上に国際的です。

         

(2) 斉明天皇と百済・高句麗滅亡

歴史の教科書には「大化の改新」で活躍した中大兄王子はすぐに天皇に即位しなかったと記されています。彼ほどの実力者なら、すぐにでも天皇になれたはずですが…、これは古代史の謎とされています。答えは簡単。女帝・皇極天皇は高向玄理の妻、その影響を排除できなかったために中大兄王子は天皇になれなかったのです。彼が天皇に即位したのは668年、高句麗が滅びた年。それまで、倭の権力は斉明天皇(皇極天皇)が握っていました。
2010年、飛鳥の西南にある牽牛子古墳の発掘・再調査が行われ、古墳が巨大な八角形墳であることが判明、斉明天皇の陵墓である可能性が高まりました。この古墳からは当時の最高級品である漆棺が2つ発掘されています。1つは妹・文王女のものです。新羅を統一した文王女の王子が金春秋です。新羅を建国した金春秋や中臣鎌足が新羅の英雄・金庾信であるいうと、韓国の人に怒られるかもしれません。もちろん、これは想像上の夢物語、史実ではありません(笑)。
斉明天皇はとても興味深い人物です。現在、明日香村にある石造物はほとんどが斉明朝時代の遺跡。「日本書紀」に斉明天皇は「たぶれ心で大規模な石積みの庭園を造って人民を困らせた」と記されています。それが1998年に発掘された「亀形石造物」です。飛鳥の西に「益田岩船」という石造物がありますが、これは彼女の石棺を作ろうとして壊れたので破棄された巨石です。斉明天皇は夫・高向玄理から道教を学び、古墳を八角形(八角・八卦は道教の形)にしました。ちなみに彼らの子・天武天皇の古墳も八角形です。
650年前後、斉明天皇は政治を夫や息子に任せて好き放題。とばっちりを受けたのは義理の息子・中大兄王子です。
659年、百済が新羅国境に侵攻、新羅は唐に援軍を要請、高宗は大軍を百済に派遣、660年7月18日、蘇定方(名前から蘇我氏関係者だと推測できます)率いる唐軍と背後を突く新羅軍は猛攻、百済を滅ぼします。この時、斉明天皇は親族である百済王室を助けるために倭水軍を半島に送ろうと試みますが、百済滅亡の報を受けて中止。「日本書紀」では百済が滅亡した翌年、斉明天皇は崩御したことになっていますが、中大兄王子が天皇に即位できるのは668年なので、8年間、斉明天皇は健在だったのでしょう。
663年3月、倭は再度、朝鮮半島に出兵、8月の「白村江の戦い」で唐・新羅軍に大敗を喫します。多くの倭人が唐に連行された記録が残っています。倭が百済に大軍を派遣した目的は親族である百済王室の人々を亡命させるためでした。古代において人材は貴重。倭に亡命してきた人々は半島文化を倭に輸入します。西日本各地に朝鮮式山城が残っていますが、これは百済の人々が作った城です。
665年、東アジアを股にかけて活躍した淵蓋蘇文(蘇我入鹿)が死去します。結果、高句麗の力が減退、668年、唐・新羅軍に攻められ滅亡します。高句麗の影響力が排除できた668年、中大兄王子はやっとのことで天智天皇に即位します。が、それもつかの間、盟友であった中臣鎌足が対唐戦のために新羅に帰国、高句麗から亡命してきた大海人王子の出現で事態は急変します。
670年、新羅系の法隆寺(若草伽藍)が火災で消滅している。これが「日本書紀」に山背大兄王子暗殺事件として描かれています。671年、天智天皇が死去すると、大海人王子が決起、667年に天智天皇が作った新羅系の都・近江宮を襲った「壬申の乱」で勝利、天武天皇に即位します。
ところで、「三国史記・新羅編・文武王10年(670年)」に「12月、倭が国号を日本と改めた」という記述があります。日本号が歴史書に記された最初の記事。「日本書紀」にはないのに「三国史記」に残っているのは不思議ですね。
ここで大化の改新の真実の話をします。大化の改新は645年ではなく、670年(法隆寺消失)から672年(壬申の乱)に起こった出来事を過去に戻して創作した物語です。山背大兄王子の死亡、大化の改新を法隆寺消失、壬申の乱に当てはめて考えると史実が見えてきます。670年、法隆寺消失は大海人王子が中大兄王子を滅ぼした事件でした。それで、倭は国号を日本に変えた。よっぽどの政変がなければ国号など変えません。
大海人王子は政敵を倒し、天武天皇に即位すると飛鳥に新しい宮殿・飛鳥浄御原宮(現在、板葺宮遺跡)を造りました。

         

(3) 白鳳時代の文化・美術

676年、新羅が半島に滞在していた唐軍を追い出し自治権を獲得した時、東アジアの動乱は終わり、文化的な時代がやってきます。倭も白鳳時代前半は激動の時代でしたが、後半になると平和が訪れ、人々は文化的な生活を送るようになりました。道教の権威だった父・高向玄理の影響を受けた天武天皇は様々なアイデアを出して政権運営を行いました。事績を挙げると次のようになります。
【1】皇親政治を行い(「大君は神にしませば……」を徹底)、皇族専用の冠位26階制定後、冠位48階を制定(685年)。
【2】貴族の改革とともに官制改革も行い、律令を定める(681年)。後に飛鳥浄御原令に発展(689年発布)。官僚の服装・髪型の改革を行い、官人武装政策を行う。
【3】豪族・寺社の土地と人民支配を否定、諸豪族を官人支配の体制に組み込む。八色の姓の再編。
【4】百済からの亡命者を手厚く保護した。
【5】都市計画で都を作り、日本最古の銭「富本銭」を製作、経済対策を行った。日本初の占星台(天文台)を設置。
【6】「古事記」、「万葉集」などの土着的な文化を尊重、国史の編纂事業を始め、皇室行事の「五節の舞」、「新嘗祭」、「大嘗祭」を設ける。日本古来の神道を振興、天皇家の基盤を作る。伊勢神宮崇拝を行い、式年遷宮、斉王制度を開始。神道と道教思想と癒合させ、和風諡号を制定。天武天皇は、天渟中原瀛真人。真人は仙人の上位階級で、天皇も道教の最高神。
【7】仏教を保護、「金光明経(国王は天の子で生まれた時から人民を統治する資格を得ていると記す現人神思想)」を流布する。百済大寺、薬師寺の創建(国家仏教の始まり)。
事績を見ると天武天皇が「天皇」の概念と神道を日本に確立させた人物であることがわかります。このような政策は天武天皇が国際経験豊富だったから実行できたのでしょう。彼が権力者を王ではなく、「天皇」としたところに道教の影響を見て取ることができます。日本では政治は祭りごとです。官僚機構の未熟な日本では中国のような政治は行えないことを天武天皇は知っていたのですね。

明日香村にある遺跡はほとんどが白鳳時代の物です。代表的な遺跡は亀形石造物、酒船石、益田の岩船などの石造物、板葺きの宮跡、天武・持統天皇陵、牽牛子塚古墳などの天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳などの壁画古墳、山田寺跡などの寺院遺跡。遺跡は白鳳時代前期の物で、後期になると藤原京や奈良西部に移ります。後期の代表は藤原京跡、法隆寺、夢殿にある救世観音(斉明天皇を写した仏像であると言われています)、興福寺にある山田寺本尊仏頭、回廊遺物など。教科書には法隆寺は飛鳥時代・様式の寺院として紹介されますが、本尊を除くと白鳳時代の遺物になります。薬師寺(薬師寺東塔、薬師寺薬師三尊像・聖観音)は天武天皇が病気になった時、妻である持統天皇が病気平癒を祈願して創建させた寺です。正確に言うと東塔は奈良時代初期に再建されたもので、白鳳時代に作られたものではありませんが。その他に山城にある蟹満寺の釈迦如来像も白鳳時代のものです。蟹はクジ、フジの変形した音、この寺を藤原氏が建てたことがわかります。ちなみに東京都三鷹市の深大寺に銅製の白鳳仏があります。深大寺はそば、団子が有名で散策に適しているので、機会があれば訪れてください(笑)。
前回も話しましたが、飛鳥時代と明日香村にある白鳳時代の遺跡を区別しなければ混乱が起こります。お間違えなく。

           

(4) 白鳳時代後半と後世への影響

白鳳時代後半を代表する人物は天武天皇、持統天皇、藤原氏の基礎を築いた藤原不比等(藤原京への遷都を進めた、659年~720年)、文武天皇(~707年)がいます。
藤原不比等は藤原鎌足の二男ですが、藤原鎌足は新羅を建国した金庾信なので、彼は新羅系王族ということになります。文武天皇は子である藤原不比等の要請によって新羅から渡来した新羅・文武王。文武天皇の名は「続日本紀」に「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと)」とあります。祖父がつくのは文武天皇が年配になって日本に渡来したからです。韓国の文武王陵は海中にありますが、それは記念碑で、文武王の遺骸は明日香村の文武天皇陵に葬られています。
ところで韓国には文武王の事績を刻んだ文武王石碑があります。ここに文武王の祖先・金日智などは中央アジアから新羅に移住したと記されている。以前、お話したように金日智は宅氏(倭の武氏、日本武尊)の祖先です。701年、渡来した文武天皇によって「大宝律令」が制定されます。この時期、日本の政治は文武天皇、藤原不比等親子によって行われました。
奈良に藤原氏の氏神・春日大社があります。カスガの語源は金蘇我(砂金のとれる川)。キンソガがカスガになった。古代を支配した藤原氏は新羅・金氏と蘇我氏(天武天皇)が合体してできた氏族です。それに対抗したのが天智天皇、秦氏の一派。都の東が天武・新羅系、西が天智・秦氏系だと考えれば把握しやすいでしょう。この流れは南北朝時代、持明院統と大覚寺統に続きます。
普通の人は白鳳時代、日本人が政治を行ったと考えていますが、この時期の日本や新羅は近代国家のように独立した国ではなく、婚姻関係を中心に出来上がった氏族によって支配された国家でした。両国が独自路線を歩み始めるのは7世紀後半から平安時代初期です。

最後に白鳳時代の雰囲気を味わうことができるスポットを紹介します。白鳳時代といえば明日香村、薬師寺を思い起しますが、その他、山科にある天智天皇陵、大津にある崇福寺跡(668年創建)、弘文天皇陵(大友皇子陵)に行かれると良いでしょう。大津は天智天皇の作った都。
大阪城に行かれた時、難波宮に行ってみてください、白鳳時代の都です。大阪府高槻市に孝徳天皇を葬った阿武山古墳があります。これは玄人向き。
壬申の乱の激戦地、関ヶ原も白鳳時代に関係した土地です。1600年、徳川家康は関ヶ原に入ると桃配山に最初の陣を構えました。そこは大海人王子が配下に桃を配って壬申の乱に勝利したという伝説のある土地でした。家康は関ヶ原の戦いを壬申の乱に模して戦った。また、関ヶ原には壬申の乱の重要地点、不破の関跡があります。
天武天皇は最初に伊勢神宮を崇拝した天皇で、神宮の近くに斎宮が置かれていました。斎宮跡は伊勢神宮の近くにあります。伊勢に行く内宮・外宮に行く人は多いのですが、斎宮跡には行きません。伊勢に行くことがあれば斎宮跡に行ってみてください。古代・中世の雰囲気を味わうことができます。
天武・持統天皇は吉野行幸をしばしば行っています。その跡が吉野口にあります。吉野を訪ねる前に離宮後に行ってみてください。

最後に歴史書の意味について話します。「日本書紀」では、大化の改新は中大兄王子が蘇我氏を滅ぼしたことになっていますが、実際には670年、中大兄王子が大海人王子のよって滅ぼされた事件を描いたものです。この事件は歴史の闇に葬られて表には出てきません。それを改竄する形で残したのが文武天皇、藤原不比等の親子でした。彼らは自分たちの正当性を残すために「古事記」、「日本書紀」の編纂を始めます。しかし、完成した「日本紀(日本書紀ではない)」は後に反新羅勢力によって改竄されます。それを行ったのが天智・秦氏の一派。「日本書紀」など、古代の歴史書から歴史を垣間見ることができるのですが、それを鵜呑みにすると歴史の真実が遠のいていきます。為政者が作った物語ではなく、歴史を客観的に見る目を持つことが重要。それをこの講座で理解していただければ、幸いです。
(終わり)

         

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