日本絵画の歴史は縄文時代にさかのぼります。縄文人は土器の表面に動植物、祭司、赤ん坊の絵を描いています。縄文土器は立体的なので平面絵画というよりはレリーフと言った方が良いかもしれません。弥生時代になると土器の表面に線画が描かれます。奈良県田原本町にある唐子鍵遺跡からは楼閣やシャーマンの絵のついた土器が出土している。同時期、銅鐸の表面には狩りの様子などの線画が描かれ、プリミティブですが、P・クレーのような感じで人を惹きつける魅力を持っています。
日本人が平面に意識して絵画を描くようになったのは飛鳥時代。「日本書紀」に「飛鳥寺を創建した時、画工がいた」と記述されているので、壁画が描かれていたことが推測できます。記録に残っている最古の絵画は、今は失われてしまいましたが、法隆寺金堂の壁画は白鳳時代(645年〜710年)です。同時代のものでは高松塚古墳やキトラ古墳の壁画が残存しています。前者は仏教、後者は道教に関するもので、7世紀頃の日本人が大陸文化を積極的に取り入れていたことがわかります。藤原京にはたくさんの壁画があったと想像できますが、遺品は極めて少ない。ですから同時代の唐、新羅絵画を研究して、古代の日本美術を考察します。キトラ古墳の壁画とそっくりな壁画が高句麗から発掘されているので、キトラ古墳の作品は高句麗人が描いたことが推測できるでしょう。
天平時代の代表作は「絵因果経」や薬師寺にある「吉祥天像」。この頃から貴族が仏教画を絵師たちに描かます。中世の西洋絵画の主題はもっぱらキリスト教関係の題材ですが、絵画=宗教画が当然の時代でした。絵具は高価なので、王侯貴族や寺院関係でしか製作できなかった。それは密教が流行した11世紀まで続きます。ちなみに庶民が使っていた墨で人物像などが描いた土器などが残っています。古代人は落書きをしていたのですね(笑)。
中国の宋時代(960年〜1279年)、掛軸が流行します。良質な墨が生産され、水墨画が出現します。それまで絵画は色彩のあるものだと考えられていましたが、淡彩画が開発されると、一気に絵画の領域が広がりました。今年の夏、「中国国宝展」に、宋時代の初期の水墨画が出品されていましたが、とても素晴らしいものでした。宋の時代は山水画の他、「清明河上」のような風俗画も描いています。宋は士大夫を登用、文士文化を創造しました。彼らの好みは簡素な禅宗です。前王朝の唐は貴族的だったので、水墨画などは見向きもしませんでした。宋の水墨画は10世紀後半には日本に伝来しているのですが、日本の貴族は唐の貴族同様、水墨画に目もくれなかった。日本の貴族は浄土への憧れが強かったので極彩色の絵画を求めました。
日本で掛軸が認知されるようになったのは禅宗が興隆した鎌倉時代後期です。南宋が元に滅ぼされると、南宋から優秀な禅僧が日本に渡来します。鎌倉幕府は彼らを保護し、本格的な禅宗を日本に導入され、掛軸が採用されるようになりました。
室町時代、禅宗が日本に定着すると、日本人の手による水墨画・山水画が描かれるようになります。最初に描かれた代表作は如拙の「瓢鯰図(1415年)」。室町時代には禅画の大家に雪舟等楊(1420年〜1506年)、雪村周継(1504年〜1589年)が出て、活躍しました。さらに狩野派の基礎を築いた狩野元信(1476年〜1559年)や土佐派の基礎を築いた土佐光信(1434年〜1525年)も、同時代の人です。
桃山時代、狩野派からは狩野永徳が出て、襖絵(障壁画、屏風)を大きく発展させます。狩野派は信長や秀吉など、時の権力者に取り入り、絵画界での地位を確立しました。しかし、江戸時代前期になると戦国時代の気風も失われ、狩野派は画一的で形骸化した絵しか描けなくなります。
そこに登場したのが俵谷宗達などの町人画家です。宗達は扇谷の絵師ですが、本阿弥光悦などと共に琳派を形成、後の日本絵画に大きな影響を与えます。宗達の描いた絵は狩野派と土佐派を合体させて装飾性を加えています。簡素化したデザインが日本人の好みに合うので、尾形光琳、酒井抱一が継承した琳派の絵画は現在でも人気があります。
江戸時代前期、清から黄檗宗の隠元(1592年〜1673年)が新しい絵画様式、煎茶文化を持って長崎に来日すると、日本の知識人はその影響を受け、新しい日本絵画の創作に励みます。臨済宗の白隠(1686年〜1769年)なども、黄檗宗の影響を受けて独自の画境に達した一人です。白隠の絵は、唐津焼の絵付けと類似性が指摘されています。
日本独自の禅画を白隠が確立したといっても過言ではないでしょう。
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