このページは2014年11月1日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第12回 「仏教美術」 (1)  仏教の誕生

仏教はインドの釈迦(紀元前7世紀〜紀元前5世紀?)が開いた宗教です。釈迦はシャカ族の王子で29歳で出家、35歳で菩提樹の下で悟りを開いたといわれています。釈迦は80歳で入滅するまでインド各地を伝道して歩きました。
釈迦の生涯については後世に神格されたものが多く、「生まれた時、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して『天上天下唯我独尊』と話した」や「入寂する時、たくさんの動物がその死を悼んで集まってきた」などの伝説があります。前の説話は「誕生仏」、後の説話は「涅槃図」として作品化されています。
後に釈迦族はコーサラ族に滅ぼされてしまいます。冷静に考えると釈迦族は非アーリア系である可能性が高く、仏教が広まるにつれて脚色部分が拡大していったのは確かです。世界的な宗教の開祖の生涯は類似性があり、釈迦の生涯は史実としてよりは、人類の物語としてとらえた方が良いでしょう。
釈迦が説いた教えの根本は「輪廻」と「解脱」です。輪廻の思想は古代宗教の基本でしたが、「神が人を救う」という一神教的な発想が出現すると否定されるようになります。人間が自然から離れ人工的な都市や階級を作った時から変化しました。その考えは女性性より、男性性に重きを置いたものでしょう。封建制の強い国では仏教は徐々に廃れていきます。日本人は基本的には仏教を信じているので古代の女性性を重んじる国民だということがわかります。
釈迦の入滅後、教えは暗記によって200年間、口伝されました。釈迦自身が仏典の編纂には消極的だったと言われています。しかし、後世の弟子たちが釈迦の教えが消滅することを恐れて聖典を編纂しました。釈迦の予想通り、教えが文章化されるとさまざまな説がつけ加えられ、本来の教えとは大きくかけ離れます。
仏典は戒律の「律」、教えの「経」、理論の「論」から成っています。これを「三蔵」と言います。インドから仏典を持ち帰った唐の三蔵法師は有名です。現在の経典は、釈迦が説いたものか弟子の考え方を記したものか、誰のことを聖人化して記したものか、どの国で編纂されたかなどの問題が多く、釈迦の根本的な教えは伝わっていても、全体的には創作された部分が多いのが実態です。グローバリズムを持つ宗教の宿命かもしれません。
釈迦自身は教えを具現化することを戒めていたので、仏典同様、仏像さえ製作されていませんでした。同時代のギリシャで神々の彫像が作られていたのとは大きな違いがあります。
紀元前後、仏教徒は車輪、足跡など象徴的な記号で釈迦を表していました。それがアレクサンダー大王の遠征でアフガニスタン周辺にギリシャ文化が流入したこと、2世紀頃、クシャーナ朝第4代君主カニシカ王が出現して仏教を重んじたことによって仏像の製作が始まります。クシャーナ朝は中継貿易によって栄えた国で、仏教のグローバリズムが交易民の気質にあったのでしょう。それは今後の仏教の展開でも同様の現象が起こります。
この時期のガンダーラ仏は石像が多いので保存状態が良く、入手することも可能です。残欠でも雰囲気が味わえるのでお勧めです。
その後、ステップロードやシルクロードを経由して中国に仏教が伝わります。最初に中国で仏教を重んじたのは胡族が作った五胡十六国の国。その頃、中国は儒教と道教が主流で、それに対抗するために彼らは仏教を導入したのです。と、いうより、胡族の狼藉を抑えるために皆で仏教の教えを広めたと言った方が良いでしょう。
中国に仏教が伝わったのは4世紀前後。亀茲国の鳩摩羅什(334〜413年)が長安で約300巻の仏典を漢語訳して中国で仏教が興隆します。彼の出身国、亀茲(クチャ)は日本の仏教徒にとっても重要な国で、葛城氏、藤原氏の語源となっています。
5世紀前半、高句麗に追われて百済王族、貴族が日本列島に帰還します。その時、日本に仏教の一部が導入されました。
日本に仏像と仏典が伝わったのは538年。百済の聖明王が倭の欽明天皇に仏像、仏典を送ったと言われています。実は聖明王と欽明天皇は同一人物なのですが、そのことを話すと長くなるので割愛します。とにかく、538年に仏教が日本に伝わったことがキーワードになります。
この時期の入手可能な骨董品には隋、唐の鍍金仏があります。最近、古代瓦のレプリカが市場に出回っているので、偽物には気を付けてください。

         

(2) 日本仏教の展開

日本で最初に創建された本格的な寺院は飛鳥寺です。この寺の様式は百済の王興寺に似ていることから、王興寺を作った職人が渡来して造営したと考えられています。いずれにせよ、蘇我氏自体が渡来系氏族なので朝鮮半島から来た人々が作ったことには間違いないでしょう。現在、飛鳥寺には止利仏師が作ったとされる金銅仏が残っていますが、北魏様式なので仏教が北経由で入ってきたことがわかります。ちなみに隋は仏教、唐は道教を重んじています。
卑弥呼政権が銅鏡を配布したように、当時の大和政権は金銅仏を配布して権威を高めました。その遺物が東京国立博物館法隆寺館に残っています。日本史の教科書には蘇我氏と神道派の物部氏が仏教容認をめぐって争ったと記されています。どの国にも土着的な宗教と伝来の宗教の対立があります。インドではヒンドゥー教と仏教、中国では道教、儒教と仏教、日本では神道と仏教の対立が起こる。これは仏教が非土着的な傾向があることが原因です。さらに仏陀は、「生きとし生けるものはすべて尊く、平等である」と説いた。平等説は旧来の宗教から見れば都合が悪い。8世紀、インドで仏教は消滅の危機を迎えます。その時、仏教徒はヒンドゥー教と仏教を合体させて密教を作ります。ですから空海などが広めた仏教はヒンドゥー教の要素が強く、厳密な意味では仏教ではありません。どの国でも本地垂迹が起こっているのですね。
都が平城京に遷ると、朝廷は東大寺、国分寺の創建をして仏教の国教化を図ります。朝廷は国分寺を各地方に作ることによって、中央政府の権威を高めようとしました。この時代の仏教美術は奈良市に行くと見ることができます。奈良時代で特質すべき仏教技法は乾漆技法の発明です。漆を使って造形する技法は日本独自のもので、法隆寺五重塔の人物像にも用いられています。興福寺にある阿修羅像が乾漆で作られた代表的な仏像です。
この時代の代表的な百万塔があります。藤原仲麻呂の乱で亡くなった人々を供養するために作られました。世界最古の印刷物が塔の中に入っています。
東大寺が建立された後、朝廷の権力争いが激しくなり、新羅系と高句麗・百済系に分かれて覇権を争いました。新羅系の代表寺院が東大寺、高句麗・百済系は唐から鑑真を招聘して唐招提寺を建てます。天皇家と藤原北家は問題を解決するために都を平安京に遷しました。
平安京に移った朝廷は南都仏教の勢力をそぐため、新しい宗派を導入します。それが真言宗と天台宗です。奈良仏教と平安仏教の大きな違いは山岳修行をするか否かにあります。670年、道鏡が失脚すると山岳修行が解禁されました。それによって平安仏教、日本の鉱物学、薬学が発展します。平安朝は観念的な南都仏教から現世利益的な山岳仏教に舵を切りました。
10世紀後半、日本が唐との国交を停止すると、本格的な和風文化が花開きました。かな文字、和風文化の出現とともに仏教界にも変化が起こり、本地垂迹説が出現し、日本固有の神々が仏教の仏と混合します。この頃から貴族のための仏教は庶民化する傾向を強めます。本地垂迹の一例を見て見ましょう。天照大神=大日如来=十一面観音、八幡神=阿弥陀如来=応神天皇……。応神天皇を阿弥陀如来に見立てているのは、現代から見ると無理があります。外来のものを取り入れて自分の物にする好奇心の強い日本人ならではの発想です。
11世紀になると末法思想が流行して、経筒が出現します。経筒は末法思想を乗り切りためにお経を入れて土中に埋めたものです。銅が錆びてさび感が出ている物が重宝され、花を活けると風情が出ます。
この時代の骨董品に経軸があります。奈良時代の物は高いのですが、平安時代の経軸は比較的、簡単に入手できます。軸装によりますが床の間にかけると美しい。
12世紀後半、武士政権が誕生すると新しい仏教が興ります。浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗などです。鎌倉時代は貴族的で複雑な仏教から、現実的で簡素な仏教へ変容した時代。仏像や寺院の形はリアリティのあるものへ変化します。
鎌倉時代の骨董品で入手しやすいものに金銅製の掛仏があります。鎌倉時代の物は感情的な表情をしており、室町時代のものは円満な表情をしています。室町時代の仏像は、鎌倉時代のものよりもふくよかです。什器としての根来塗は人気があり、探せば入手できます。

           

(3) 神仏の種類

室町時代になると本地垂迹も拡大し、不思議な仏像がたくさん生まれます。ここで簡単に表にしてみます。

・天照大神=大日如来=十一面観音=日吉神(=猿)
・八幡神=阿弥陀如来=応神天皇=熊野権現(=鳩)
・愛宕権現=智明権現=勝軍地蔵菩薩=天児屋命
・秋葉権現=観音菩薩
・素戔鳴命=牛頭大神=薬師如来=東照大権現=松尾神=経津主命(=牛)
・大黒天=大国主命(=ねずみ) ・市杵姫=弁財天=宇賀神(=蛇)
・武甕槌命=不空羂索観音菩薩(=鹿)

これらの本地垂迹は一部で、各神社によって様々な説があります。事細かに見ていくと頭が混乱してくるので止めておきましょう。逆に言えば、日本人は神も仏も合体させて神様、仏様として信仰していたということになります。一言でいうならば日本人は多面性を持った神仏教です。
ところで、平安時代以降、神道にさまざまな流派が生まれました。皇道神道、神社神道、民族神道、教派神道、古神道、国家神道などです。一般に神道は神社神道の祭事を中心とする神道ですが、教学を中心とする両部神道、山王一実神道、神儒習合神道、吉田神道などの家元神道、出雲大社教などの国教神道、山岳信仰の御岳教などがあります。
各神道はお札を発行しています。四国八十八か所参りなどの「お遍路さん」は、各地の寺社を巡り、お札を集めると御利益があると喧伝しています。それが仏教と合体したので何が何だか分からなくなる。
それで簡素さを求めた禅宗が流行した。禅宗はただ座って行くだけで良い。楽です。
簡単にいえば天皇や公家を中心にした主教は儀式だらけで複雑化し、武士や農民が求めた宗教は簡素だといえるでしょう。簡素化の代表は「無」、「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」。いずれも鎌倉時代に成立しました。日本の歴史を見ると宗教が複雑化する時代と簡素化する時代が交互に出現していることがわかります。
室町時代に流行した神に稲荷神があります。日本の中でお稲荷さんは八幡神社に次いで多い。一般に稲荷神は稲作、商売の神とされていますが正体は不明です。一説には冥界の犬(ケロベロス、オオカミ)が狐に変身したと考えられています。桃太郎では犬、猿、きじが家来でお供します。これは平安京の伏見稲荷、日吉大社、賀茂神社と適合します。犬(狼)は元を建てたチンギス・ハーンはオオカミの化身なので、稲荷信仰は騎馬民族から発生したものかもしれません。稲荷は「INRI(キリストを象徴する頭文字)」であるという人もいます。そうであるならば、稲荷神の正体はますます不明になる。
私は桃太郎の話は犬が土葬、キジが鳥葬、猿が火葬を象徴したと考えています。ですから、平安京は3つの神獣に守られた都です。やっぱり、京都は宗教が入り乱れた都市なので、このような現象が起こります。
江戸時代、幕府が幕藩体制を築くと大名に宗教を統制させます。寺受制度を確立した結果、おおまかな神仏だけが残ります。
江戸時代、庶民が信仰した神は伊勢神宮の天照大神。「お蔭参り」の伊勢参りは江戸時代に3度、起こっています。このような宗教行為は他に見あたりません。伊勢参り同様、熊野詣にも人気が集まりました。これは伊勢講や熊野比丘尼が各地を回って勧進を行った影響です。
江戸時代の仏像や神像を見ると、室町時代よりも簡素化しています。
複雑な仏像は消え、代表的な神仏が残る。もちろん土着的な民族神信仰も生きています。東北のおしらさまなどは民間信仰の一例です。神道、仏教、民間信仰が相まって日本の宗教は形成されています。
ちなみに日本には山岳宗教と都市宗教がありますが、前者の代表は真言宗、曹洞宗、後者の代表が天台宗、臨済宗、浄土宗です。両派とも工夫を凝らして勢力の拡大を目指しました。真言宗のお遍路、臨済宗の茶道などは宗教行事の変形です。
現在、京都は臨済宗の都ですが、これは茶道文化と大いに関係があります。日本人はお茶が好きで、意識しなくても禅宗様は生活の一部になっているだから、日本人は宗教的な民族であるということもできます。

漆は製作に手間のかかる技法ですが、日本人は昔から根気強く漆器製作に励んでいます。日本人の漆に対する情熱は、日本に漆作品が多数残っていることから窺うことができるでしょう。

         

(4) 近世の仏教美術

東京の若い古物商が仏教美術を扱い始めたのは二十数年前です。それまで仏教美術は信仰の対象と考えられたので敬遠されがちでしたが、信仰の自由が拡大して日本人は美術面から仏教をとらえることができるようになりました。以前の寺院や宗教者の態度を見ると信長が仏教を弾圧した理由や明治維新後、廃仏毀釈が起こした庶民の気持ちが理解できます。それをいまだに理解していない宗教者がいるのは残念なことです。
民芸ブームの後、仏教美術ブームが来ました。その頃、私も仏教美術品を扱うようになりました。当時の古美術商は仏教美術に関して鎌倉以前の作品ばかりに注目し、桃山時代の仏像などは無視する傾向にありました。私は時代よりも美意識を優先させたので時代は気になりませんでした。それで比較的、安く仏像、宗教用具を入手することができた。
酒飲みの私は不遜ですが仏像を飾る「千体堂」というバーをやりたくて、個人的に江戸期の仏像を千体集めることを目指して機会があれば購入していました。ところが、これが良く売れる。買っても、すぐに売れて在庫がたまらない。今まで私は千体以上、江戸期の仏像を扱いましたが、現在、手元にあるには十数体です。歴所や仏女が出現する前のことで、彼女たちが集める前に一部の古美術ファンは仏像を買っていた。実は皆さん、仏像が好きだったのですね。最近は江戸時代の仏像も高くなって、入手しにくくなりました。
江戸時代以前の仏像は廃仏毀釈にあって鼻と手が欠損しています。個人の持仏は大切にされていたので欠損がありません。それから問題は太平洋戦争時。空襲でたくさんの仏像が消滅した。どれだけの仏教的な美術品が消滅したのかを考えると、ある世界が消えたようにも思えます。その残像を古美術ファンは追っている。消滅したものへのロマンです。
江戸期の仏像の面白さは民間仏にも表れています。地方のお百姓さんが手慰みで作った仏像には素朴な美しさがあり、見ているとユーモラスです。円空や木喰を見出したのは民芸化の柳宗悦ですが、江戸期の仏教美術には都会や貴族趣味ではない、気取っていない信仰があります。
江戸期の民間信仰物の代表は恵比寿大黒。大黒天はもともとインドのシバで、それが日本に伝来、大国主と合体して信仰されました。大黒さんは男性器、おちんちんの神様で、日本人は子孫繁栄を願っていました。恵比寿さんは日本独自の海の豊穣神です。日本人は海に囲まれており、海から異人が宝物を運んでくることを神格化したのです。
恵比寿と大黒が1対になったのは江戸時代中期、北前船が発達した時代です。恵比寿は芦屋、大黒は出雲の神で、どちらも北前船の航路上にあります。日本人は近世に入ると各地の産物の交易が幸福をもたらすことを知っていました。キリスト教は商業を蔑視しているので、日本人の感覚と随分、違います。後に恵比寿大黒は七福人に拡大します。
七福人の中で日本の神は恵比寿神だけです。大黒天、弁財天、毘沙門天はインドの神様、福禄寿、布袋、寿老人は中国の神様です。他国の神さまを勝手に自分たちの神様にするのですから、日本人の宗教観、幸せを運んでくれるのであれば何でも好かったのでしょう。
現在でもそれは同じ。クリスマスの1週間後に寺院の除夜の鐘を聞き、神社に初詣に行きます。一神教の外国人から見れば、日本人は何を信仰しているのか不明に映るでしょう。
一言でいえば日本人は多神教なので、何でもありです。日本人が一神教的傾向を示した戦前、結果がどのようになったか皆さんが知っています。
ところで、江戸時代の代表的な陶磁器である伊万里焼に仏教柄はあまり採用されていません。瓔珞文があるくらいです。これは仏教と民間信仰が離れていたことを憶測できます。庶民には神道柄の方に親しみが持てたのでしょう。
二十数年前、仏教ブームが来る前、二十代の私はせっせと寺社に通っていました。バブル時代だったので、日本人は寺社よりも証券会社に行く方が忙しかった時代です。それで有名な神社でもゆっくり鑑賞することができました。しかし、最近は様子が違います。伏見稲荷や戸隠神社の参道は若い人も含めて観光客でいっぱい。時代が変わったと思います。
仏教美術を見ると癒されるという人がいますが、それは儀式的な葬式仏教とは違う宗教へのアプローチです。権威的な宗教よりも、生活に根づいた宗教が日本人には合っています。
信仰は個人のもの。他人から強制されるものではない。ですから、仏教美術を通して信仰心を深めるのも一つの道だと思います。
(終わり)

         

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