このページは2014年7月5日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第10回 明治時代以降、日本の古美術品の発見、ブーム・流行の系譜(新感覚骨董まで)
(1) 幕末・明治時代の状況、アーネスト・フェノロサ |
骨董講座は10回目です。講座を始めた当初、受講者がいるのだろうかと心配しましたが、会を重ねるごとに皆で楽しい時間が過ごすことができ、良かったと思います。今回のテーマは「明治時代以降、日本の古美術品発見、ブーム・流行の系譜(新感覚骨董まで)」です。明治維新以降、日本人が古美術品をどのように発見し、扱ってきたかをお話します。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 甲冑 大名道具 茶道具 廃仏毀釈 フェノロサ 岡倉天心 東京芸術大学 |
(2) 財閥形成、白樺派、民芸運動 |
日本の古美術品を扱う東京美術倶楽部が創設されたのは1907年(明治40年)です。当時の日本は日露戦争に勝利して外国との不平等条約も解消され、先進国の仲間入りをした時代でした。この時期、日本の近代化の基礎が作られました。次の転機が訪れたのは第1次世界大戦の時期で、戦場となったヨーロッパとは別に、日本は東アジアで漁夫の利を占め、好景気に沸きます。この頃、財閥が形成され、各団体の幹部たちはこぞって古美術品の収集に乗り出しました。その代表が三井財閥の益田孝(鈍翁)、十五代・住友吉左衛門などの実業家です。彼らは収集した古美術品を使って茶会を催し、政治・経済的な情報交換をして企業活動を行いました。これは安土桃山時代、信長や秀吉が利休とともに茶会を催したことと似ています。 第二次世界大戦が終結すると財閥は解体され、古美術品は個人から会社に移行されます。各企業は所有する古美術品の保管・展示のために企業活動の一環で美術館を設立します。以下にあげた美術館は企業が作った美術館です。また、企業とは別に宗教団体も文化事業の一環として美術館を建設しています。日本には公立、私立の美術館、博物館が合わせて約1100個あります。目的は様々ですが、各地の美術館が日本の文化を支えているといって良いでしょう。
企業運営の美術館
大正時代、財界人は名物を収集していたのですが、庶民の間にも大衆文化が起こります。雑誌「キング」や「白樺」の発行によって一般人でも古美術品に触れる機会が訪れました。大正デモクラシーの1908年に創刊された「白樺」は学習院の生徒たちが軍人主義を標榜する乃木希助に反発して編集した雑誌ですが、大正期の日本文化形成のうえで重要な役割を果たしています。白樺に投稿した武者小路実篤、志賀直哉、有島健郎などの作家たちは従来の古典教養よりも西洋文化に着目、ロダン、セザンヌ、ゴッホの紹介を行いました。同人には中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生などの画家がおり、新しい文化形成を行います。大原孫三郎が倉敷に建てた大原美術館(1930年開館)は日本有数の西洋絵画コレクションのある美術館ですが、世界的に見ても昭和初期に近代絵画のコレクションを展示する美術館を開設したことは画期的なことです。現在でも倉敷は文化レベルが高く、個人の古美術品収集家もたくさんいます。これは倉敷に大原美術館があったことが要因でしょう。大原は柳宗悦の民芸運動を支援し、1936年、日本民芸館の開館にも協力しています。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 益田孝 佐竹三十六歌仙 大原美術館 白樺 柳宗悦 李朝白磁壺 唐三彩 |
(3) 青山次郎、中国古陶磁、文化人の骨董収集 |
意外に知られていないのですが初期の民芸運動に青山二郎が加わっています。しかし、青山は柳宗悦や浜田庄司の民芸理論に嫌気がさして運動から遠ざかります。1927年(昭和2年)、青山は実業家・横河民輔の蒐集した中国陶磁器2000点の図録作成、彼が図録作成した古美術品は現在、東京国立博物館東洋館の基礎となっています。この時、青山は26歳。驚くべき天才です。
戦前から戦後にかけて、青山二郎のもとに小説家や評論家が集まり、文化サロン(通称、「青山学校」)を作りました。青山の家には小林秀雄、中原中也、河上徹太郎、三好達治、大岡昇平、北大路魯山人、白州正子など、錚々たる顔ぶれの文化人が集まって来ました。彼らが募集したのは旧財閥から流出した古美術品、青山二郎の見立てた骨董品(中国・朝鮮陶磁)です。
昭和40年代に入ると日本は一層、豊かになり、サラリーマンが骨董に興味を持つようになります。田中角栄の「日本列島改造論」で各地の開発が始まり、土蔵の解体と共に多くの古美術品が市場に出回るようになります。商品の多様化が進み、情報の拡散と相まって、小遣いで購入できる商品の発掘が始まり、それに適合した伊万里焼、民芸品のブームが起こります。昭和30年代、有名店古美術商が近畿地方の古壺を探したように、昭和40年代、日本全国を廻って伊万里焼を探していたのが「良い仕事していますね」の中島誠之助さん、民芸の森田さんです。この時期、青山周辺に古美術商が登場しますが、彼らの扱う商品は従来のものとは違うもので、それを周辺に住むデザイナーやアーチストが購入しました。当時は雑誌の創刊ブームで、それまで老人の趣味とされていた骨董収集が一般の人にも認知されるようになります。その時のヒット商品が、たこ唐草や仙台箪笥です。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 小林秀雄と青山二郎 唐津 むし歯 信楽壺 初期伊万里 中島誠之助 たこ唐草徳利 弓野甕 |
(4) バブル時代以降の古美術品の動向 |
古美術品が市場に出回るのは景気の変動期です。昭和30年代の高度成長期、40年代の列島改造論、50年代のバブル経済時代に新しい商品が見出され流通しました。
2000年代、IТバブルとサブプライムバブルによる好況期が2度ありました。この時期、以前に比べると伊万里などの商品も安価になり、団塊の世代が退職金をもらって使ったので古美術業界も潤いました。リーマンショックが起きる前まで、団塊の世代は高額商品を求めました。 ちなみに外国の変革期にも古美術品の流通が起こります。近年では中国の改革開放(1983年頃)で中国の発掘品、ソビエトの崩壊でロシアイコン、アフガニスタン戦争でガンダーラ仏、日朝交渉で黄海道の箪笥が海外に流出しています。それより前ですが、知り合いの骨董屋さんはサイゴン陥落の時、重要文化財の骨董品を手にしていたのですが、ヘリコプターに乗り込む時、アメリカ軍にすべて破棄さされたそうです。「もったいなかった」と言っておられました。最近、北朝鮮の古物が日本に大量に入ってきています。それを見ると北朝鮮の動向を推測できます。
最近の骨董業界を見ていると商品数が減って品薄状態になったことを感じます。それとともに外国産の模造品が増えました。業者間の市場に行っても、以前のように古物がなく、半分、リサイクル市場のような感じがあります。これはネット・オークションの出現によって流通形態が変わったことが原因です。業者の市場で売るより、ネットで売る方が高値で売れるし、店の宣伝にもなるので、直接、ネットで売る。 |
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