このページは2014年6月7日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第9回  ガラス (1)  ガラスの歴史

[1] ガラスとは
・液体を結晶化させずに過冷却して、その粘度が個体と同じ程度に達した非昌質状態。天然の珪酸塩溶融体が冷却してガラスとなる。
・ガラスはガラス転移点で固形化され、それよりも高温であるとゴム状態となる。
・溶岩の石基の粒間に形成され、二酸化ケイ素が大量にあると黒曜石などのガラス質となる。
・ガラスは准安定状態で長時間経過すると、結晶が析出(物質の液体から固体が現れる現象)して細かい結晶の集合体となる。
・二酸化ケイ素の代表的な結晶は石英などである(磁器は、長石30%、珪石40%、粘土30%で、1300度以上でガラス化する)。
・人類はガラスの素材となる鉱物を再結晶、再沈殿させて製品を作り出してきた。
・ガラスの転移点温度は150〜450度。
・二酸化ケイ素、カリウム、ソーダ灰(炭酸ナトリウム)の素材に酸化鉛を添加すると透明なクリスタルガラスが生成される。


紀元前21世紀(エリドゥ・ウル第三王朝)
大英博物館
世界で2番目に古いガラス塊
ラピスラズリ色のガラスでは最古の物

           
 二酸化ケイ素   石英      黒曜石     カリウム   炭酸ナトリウム   一酸化鉛  クリスタルガラス  

[2] 歴史

古代ガラスは砂、珪石、ソーダ灰、石炭などの原料を摂氏1200度以上の高温で溶解して、冷却固定させてガラス製品を作っていたので、大量な燃料が必要なため、ガラス工房は森の中に置かれていた。ガラス工場が固定化したのは石炭と石油が使用されるようになってからである。
・紀元前4000年頃 二酸化ケイ素(シリカ)を使った初期ビーズが製作される。
・紀元前2300年頃、シリア・メソポタミアでアルカリ石灰ガラス製品が作られる。
・紀元前1600年頃 シリアでコア・ガラスが作られる。
・紀元前300年頃 青森亀ヶ岡遺跡で青色ガラス小玉が伝播する。
・紀元前1世紀頃 シリアで吹きガラス技法が成立する。モザイクガラスの発展。
・300年頃〜600年頃 中国にササン朝のガラス製品が輸入される。
・1268年 ベネチアでガラス同業者組合が結成され、1291年、それがムラーノに移る。
・1674年 イギリスのラベンズクロフトが鉛クリスタルガラスの特許を得る。
・1680年頃 ボヘミアで、ナトリウムよりもカリウムを多く含有するカリガラス(カリ石灰ガラス)が生産される。屈折率が高いので、現在は光学ガラス・理化学ガラスなどに使用される。
・1711〜1716年頃 江戸でガラス製品(源之丞作)が作られる。
・1764年 フランスのルイ15世がロレーヌ地方のバカラ村にガラス工場の設立を許可する。
・1856年 ジーメンスが1600度でガラスを溶かす技術の特許を取る。
・1867年 パリ万博にエミール・ガレがガラス作品を出品する。 ・1885年 ルネ・ラリック商会が設立される。
・1891年 ドームがナンシーにガラス工場を設立。
・1970年代 2000度でガラス溶解が可能になる。現代では10000度でガラス溶解する技術を開発中。

           

[3] 日本のガラスの歴史

・1818〜1830年頃(文化文政時代) 加賀屋がギヤマン製造を始める。
・1846年 島津斉彬が薩摩でガラス製造を始める。
・1883年(明治16年) 西洋ガラスの技術が取り入れられて、近代的なガラス生産が始まる。日本硝子製造会社。明治20年代に解散。
・1889年(明治22年) 大阪に製硝合資会社(後に駒井庄太郎が有名になる)が設立する。
・1895年(明治28年頃) 鉛ガラスからソーダ石灰ガラスの製造に移行する。
・(明治35年頃) バカラ製の茶道具が製造される(春海商会)。
・1902年 板ガラスの量産化が始まる。
・1909年明治42年 ドイツからプレスガラスの機械が輸入される。
・1914〜1918年頃 日本製ガラスの輸出量が増大する。酒用のリキュールガラスが利休台付コップとして売り出される。
・1928年(昭和3年) 島田ガラスがアメリカ式自動成型を導入し、ガラスの輸出量が増大する。
・1934年 各務クリスタル創業。

ガラスの種類
・吹きガラス ・プレスガラス ・切子ガラス ・ランプ ・ガラス絵

           

(2)  日本人とガラス

日本人とガラスの関わりは旧石器時代、黒曜石をスクレイパー(薄片石器)に使用した時から始まります。産地は北海道白滝村、長野県和田峠、大分県姫島(天然記念物指定)などが有名です。旧石器人は黒曜石の鋭利性を使って動物の皮をはぎ、肉を切りました。この時期、採掘された黒曜石は縄文時代に交易品として取引されています。
同時代、メソポタミアで人工的なガラスの製作が始まりました。「ガラスの炉を築く時、ふさわしい月の縁起の良い日を選び、炉を築くこと。…ガラス炉にガラスを入れる日を決めたら、クブ神(夏、熱をつかさどる神)の前で生贄を捧げ、香炉にビシャクシンの香をたきなさい。」と、粘土板にガラス製法の関係文書が残っています。
日本人が人工ガラスに接したのは紀元前3世紀頃。日本各地の弥生時代遺跡で、中国から輸入したアルカリ石灰ガラスの青紺色玉が出土します。
5世紀、朝鮮半島から大量の移民が渡来すると、ガラス精製技術も日本に入ってきました。各地の古墳からガラス製勾玉が出土しますが、古墳時代のガラス工房がまだ見つかっていないので、ガラス製勾玉は輸入品と考える考古学者もいます。
7世紀、寺院の屋根瓦の製造とともにガラス工房も開かれます。正倉院の書物には天平6年(734年)の年号の入った造物所作物帳にガラス球を作ったことが記載されています。現在、正倉院には水差、碗、コップなどが所蔵されていますが、それらの作品は中東製で唐を経由して日本に伝わったことがわかっています。
10世紀、遣唐使が廃止されると一時的にガラス製品の輸入は滞りました。それが復活したのは16世紀で、南蛮人が日本に渡来するようになってからです。織田信長などはワインを飲む時、グラスを使用していたでしょう。
江戸時代初期、有田周辺で磁器生産が始まると、日本人は吸水性のないガラス質磁器に魅了されます。それまでガラス質の製品を作れなかった日本人は、技術を知った後、大量に磁器の生産に乗り出しました。同時代、西洋ではガラス製品の生産は一般化していますが、日本ではガラスを生産する熱意はなかったようです。やはり東洋人は陶磁器が好きなのですね。
日本人が初めてガラスの製造を試みたのは享保時代です。この頃は蘭学や博物学が盛んだったので、好奇心の強い日本人がガラスを作ったのでしょう。日本でガラス製品が販売されるようになったのは文化文政時代、加賀屋がガラス製品を製造、販売しました。ガラス職人たちは長崎の出島からガラス製造技術の情報を仕入れて作品を作りました。ガラスは磁器生産同様、高温を維持する火力が必要なので大規模な工房が必要です。一般に日本人がガラス製品を認知したのは、19世紀、各地で殖産が行われるようになって以降です。
この時代の遺物は各地の博物館で見ることができます。鉛分が多い色つきガラスで、それを見ていると日本人技術者の腕の良さ、繊細さを感じることができます。幕末に薩摩でつくれられた切子ガラスも同様です。
幕末、日本が開国して横浜や神戸の港を開くと、西洋のガラス製品が大量に日本に入ってきます。この時代に作られたガラス絵というアンティークがありますが、日本人はイギリスから輸入したガラス板に絵具で日本の風景、浮世絵を描いて販売していました。西洋人には浮世絵や名所の絵が人気だったようです。
明治時代になると外国との交易が盛んになり、西洋の文物が日本に流入し、日本人は身近にガラス製品に接するようになりました。ランプなどは文明開化の象徴です。
逆に日本から輸出された陶磁器、工芸品は西洋の美術家に大きな影響を与えます。ゴッホやモネは浮世絵の様式を取り入れて作品を作っています。アールヌーボー様式は日本の影響で起こった美術運動(ジャポネズム)で、ガレ、ドームはガラスを使って、西洋美術に新風を吹き込みました。


(3)  日本のガラス作品の展開

明治・大正ガラスの代表はランプ、瓶、吹きガラスの氷コップなどです。
日本人にとってランプは西洋文明を象徴する物で、特にガラスのホヤのついたランプは重宝されました。ランプには高級な座敷ランプ、卓上に置く台ランプ、室内を照らす吊りランプ、携帯用の豆ランプなどがあり、手先の器用な日本人は西洋ランプを模して、グラビュールや切り子、ぼかしなど様々な技法を使って、ホヤを製造しています。
明治20年代、ガラスの量産が始まります。しかし、当時は手吹きで一点ずつ作っていたので大量生産は不可能でした。それが可能になったのは機械化が始まった明治末期です。
明治時代末期、日本は文明国の仲間入りをします。ガラスの製造機械が輸入され、ガラス製品が大量生産できるようになりました。当時、ガラス製造ができた国は西洋列強と日本だけです。先進国でなければガラス製品は作れませんでした。現在、日本には明治・大正時代のガラス製品がたくさん残っていますが、それは誇るべきことです。
大正時代、ガラス瓶が飲料水や薬品を入れる容器として普及します。ガラス製品を使用することは衛生上、良いことで、ガラス製品は医学、化学、薬学など、科学分野を発展させました。劇薬などを入れるガラス製薬は青や茶色など目立った色が付いています。これを収集するコレクターもいます。各地に残る江戸時代の蘭医の屋敷には西洋製のガラス瓶が残っています。それを見ていると、江戸時代の医学の様子がわかります。

飲食に目を向けると、ガラス製品には氷コップ、コンポート、鉢、飲料水のビン、コップ、酒器、皿などがあります。その中でも現在、骨董ファンに人気があるのが氷コップです。
日本人が氷を食べる歴史は平安時代に始まりました。清少納言の「枕草紙」には「あてなるもの(上品なもの)」に「削り氷にあまづら(甘葛)入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記されています。
近代に入ると、1869年(明治2年)、横浜の町田房造が氷やアイスクリームの販売を始めます。明治20年代、人工氷の生産も始まり、かき氷も一般化して、大衆的なものになりました。村上半三郎が氷削機を発明して特許をとりますが、それが一般化するのは昭和初期です。昭和初期のかき氷は砂糖をふりかけた「雪」、砂糖水をかけた「みぞれ」、小豆餡をのせた「金時」の3種類で、色のついたシロップを使用するようになったのは戦後です。ですから、大正時代の氷コップには透明なかき氷がのっていました。
明治時代、かき氷を入れる容器は剣先コップと呼ばれるコップでした。当時、アイスクリームは高級品だったので小さめの氷コップに盛られていたようです。
戦前のガラス製品には、吹きガラスと機械によって生産されたプレスガラスがあります。
明治末期頃からプレスガラスの機械が輸入されて大量生産が始まりました。古美術の世界では手作り感のある個性的なガラス製品に人気が集まっていますが、当時は機械を使って生産されたガラス製品のほうが手づくりの物よりも高価だったようです。現在では、それが逆転しています。
日本人がガラス製品を生産した理由は西洋文明に追いつくため。その他に日本人の感性によるものが大きいと思います。季節を大切にする日本人はガラス製品にも四季の感性を導入しています。日本人はガラス製品を夏物と考えていたようで、多くのガラス製品は涼感を出すような工夫されています。古美術店では夏になるとガラス製品を出して涼感を演出します。逆に冬季は漆器です。
日本の伝統芸能といえば茶道ですが、明治時代、茶道界では水差しや菓子器などにフランス・バカラ社のガラス製品を導入しています。保守的だと思える茶道が先進のガラス製品を使用しているのは興味深いことです。
戦前、中国や朝鮮はガラス製品を生産していません。西洋文明の導入が遅れたこともありますが、保守的な彼らは陶磁器にプライドを持っていたのでしょう。日本はガラス製品を生産、使用することで他国よりも先に近代化しました。
ガラスを使用する国は、政治的にも自由さがあります。ガラス製品は、それを使用する民族に透明な感性を維持させるのでしょう。ガラス製品が一般に普及した大正時代、日本人がデモクラシーを完成させています。「ガラス張り」という言葉がありますが、ガラス製品に慣れていた大正時代の日本人は透明性を確保していました。それが変質したのは昭和10年代、軍部が権力を握ると、政治に不透明感が漂います。太平洋戦争が近づくにつれ、ガラス製品は激減します。
(続く)


(4)  ガラス製品の使用

戦後、日本人が自由を手に入れると再びガラス製品の生産を始めました。日本では80年のバブル時代まで個性的なガラス製品が作られました。サイケデリックが流行した60年代、ストイックな70年代の時代を反映した作品が残っています。
しかし、新しい科学製品が普及する時代になると、ガラス製品は徐々に存在感を失いました。私の子供時代、コーラやジュースの容器はガラス瓶でしたが、いまではプラスチック製容器に様変わりしています。台所を見回してもガラス製品はコップ、窓ガラスくらいで、以前のようにガラスに親しみが湧きません。ガラス製品は意識して使用しなければ、生活感のない道具になったようです。これは漆器にも当てはまります。
ガラス製品には壊れやすいという問題がつきまといます。ガラス製品は割れると鋭角的になるので危ない。それがガラス製品の使用を制限しているようです。
安全性を重要視する現代社会ではガラスの存在感は希薄になりがちですが、骨董ファンはレトロなガラスに目を向けています。明治大正期のガラス製品には手作りの素朴さがあり、機械で作ったガラス製品にはない手作り感、温かみがあります。
骨董ファンが身近に接することのできるガラス製品は食器、花器などで、ガラスの食器などを使うと涼感が出ます。家庭でたくさんのガラス食器は使用するのは難しいのですが、気に入ったガラスの骨董品を使うと楽しい気分になります。大正時代の氷コップを使って、アイスクリームやかき氷、果物を食べると懐かしいレトロ感を味わえます。
以前に話しましたが、伊万里焼は新鮮な野菜、魚介類の合う、表面がガラス質の耐水性、衛生的にすぐれた食器です。陶器の表面にガラスの膜を張ったものが磁器だと考えればよいでしょう。ですから、ガラス食器も新鮮な食物に合います。ちなみに冬の寒い日、冷たくなった器に熱いものを盛ると、伊万里焼の食器は割れてしまいます。これは表面が耐熱性のないガラス質だからです。冬、伊万里焼の食器を扱う時は常温化か、一度、お湯に通して使用するようにしてください。
磁器や陶器の素地はガラスに比べて絵付けがしやすいので装飾性に富んでいます。それに比べるとガラスは装飾の施しようが限られているので普及が制限されているのかもしれません。このままではサッシ用の板ガラスだけが残るこということになりかねません。
最後に古美術商ならではの体験をお話しましょう。有名なガラス製品コレクターにアルフィーの坂崎さんがいます。彼は骨董好きなので、たくさんのガラス製品を集めて販売しています。また、ガラス瓶のコレクターに庄司先生がいます。骨董業界では「ビン博士、ガラス瓶の庄司」といえば知らない人はいません。以前、私が初期のカルピスの瓶を入手したことがあります。そのことを庄司先生に話すと、「絶対に譲ってほしい」と言われました。現物を見せると、庄司先生も見たことのないカルピスのエンボスの入ったねじれたガラス瓶で、現在、その瓶はガラス瓶博物館に飾ってあります。あのカルピスの瓶は掘り出しものでした。
一時、坂崎さんと庄司先生はガラス瓶を使ってコンサートを開いていた時期があります。懐かしいな〜。私は庄司先生と知り合って、ガラス瓶の面白さを教えてもらいました。先生は鷺沼の自宅をボトルシアターとして公開されています。興味のある方は連絡されてみてはいかがでしょう。5万本を超えるガラス瓶が並んでいるのは壮観。それから年に数回、コンサートを開かれています。
もう一つ、ガラスにまつわる話をします。私の従兄弟も骨董屋をやっています。彼は昔、10万本のガラス瓶を初出ししたことがあり、その時、見つけたガラス瓶には珍しいものが多く、仕入れ額の30倍になったそうです。当時、「私はガラス瓶なんて……」と馬鹿にしていたところがありましたが、珍しいガラス瓶を見ると面白いものでした。特にラムネ瓶が面白くて、魚の形をした物もありました。私も店でたくさんガラス瓶を売りましたが、今から考えると当時のことが不思議に思えます。
あの時の熱中は何だったのでしょう?
ちなみに私の従兄弟の妻になった彼女もガラスコレクターで、今でもガラス製品を販売しています。二人が出会った日、彼女は露店でガラス瓶を売っていました。その時の光景は今でも目に焼き付いています。「ガラス瓶なんか売れるのかな〜」が、その時の私の感想でした。「二人の縁はガラス瓶が取り持った」といっても過言ではありません。シンデレラのガラスの靴ではありませんが、ガラスには恋人を結び付ける力があるようです。
(終わり)


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