このページは2014年4月6日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第7回 「日本の陶磁器・古民芸」 (1)  縄文土器と弥生土器

陶磁器の種類
・土器 (無釉700〜900度)
 粘土を野焼きで焼いた物。素焼きの焼物で吸水性がある。縄文土器、彩文土器。
・陶器 (施釉薬1100〜1200度)
 窯で焼き、施釉した吸水性がある焼物。粗陶器、精陶器がある。楽焼、瀬戸焼、信楽焼。
・b器 (焼き締め1200〜1300度)、
 釉薬を掛けない吸水性がない陶器。原料に珪酸、鉄を含むので赤褐色、黒褐色に焼成される。須恵器、備前焼。
・磁器 (1100〜1300度)
 カオリンを含んだ粘土を原料にした焼物。吸水性はない。伊万里焼。

日本で土器の製作が始まった紀元前12000年です。氷河期が終わり、ナウマン象のような大型哺乳類が絶滅し、主食が小獣、果実に移った頃で、日本の土器は世界的に最も古い。縄文人は穀物や木の実を縄文土器に入れて煮て食べ、木の実の貯蔵用にも使用しました。最初期の縄文土器は尖頭土器で、土に埋めて安定させるために下部がドングリのように尖っています。撚糸を土器表面に回転させた模様がついており、彩色されていません。
縄文時代は5期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)に分けることができます。
青森県にある三内丸山遺跡は前期(紀元前4000〜2000年)の遺跡で、縄文人は2000年間、定住生活を送っています。前期後半になると日本列島各地で自然環境に合わせた模様、海辺では魚介類、山中では火炎や星の運行などをデザインした土器の製作が始まります。その後、気候変動が起こると(後期・紀元前2500〜1300年頃)、北日本に住んでいた縄文人の西への移住が始まり、呪術的な土偶、火炎土器、貝塚などが出現します。
縄文人の特徴は戦争がない、酒を飲まない、環境変化によって移住するなどの特徴を持っています。
日本人が稲作を始めたのは紀元前300年頃です。稲作開始を紀元前800年とする説を唱える人もいますが、集団で稲作を始めたのが紀元前300年頃だと考えればよいでしょう。稲作を始めた人々は大陸や朝鮮半島から渡来した人たちで、水田稲作は上陸後、100年間で日本列島に広がります。渡来人たちは簡素な弥生土器を作り、生活に使用しています。稲作が全国に広まると同時に弥生土器も各地で製作されるようになりました。東海地方の弥生土器などは朱を用いた彩色があります。後に日本人は弥生土器を漆器で再現して日常に使用しました。
弥生人の特徴は身分制を採用したので戦争があり、酒を飲み、定住生活をする特徴があります。
一般的に弥生時代には日本人全体が稲作をしているようなイメージがありますが、米は雑穀の一種で、主食ではありません。相変わらず、日本人は狩猟・採集を中心に生活を営んでいました。
3世紀中頃、初期大和政権が誕生すると、規格型の前方後円墳、弥生土器よりも薄い土師器が造られるようになります。同型の土師器が関東地方以西で出土するので、土師器の分布をみると大和政権の領域が把握できます。
5世紀前半、中国大陸で混乱が起こる(五胡十六国時代)と、大陸や朝鮮半島から大量の渡来人が日本列島に移住してきます。彼らは須恵器、かまど、馬、鉄器、文字などの大陸文化を日本にもたらしました。当初、須恵器は朝鮮半島南部の伽耶や新羅から持ち運ばれていましたが、渡来人たちが列島に定住した後、各地の登り窯で製作されるようになります。須恵器は保水性があるので、日本酒を造る時に使用せれたと考えられます。
この頃から日本人は自ら鉄の生成を始めます。たたら場の職人は鉄の生成をしない時期は須恵器の製作をしていました。
かまどの伝播とともに麹も輸入され、日本酒も造られるようになります。
6世紀、仏教が伝来して寺院が造られるようになると、日本人は屋根瓦の製作を開始します。仏教の伝来によって日本人は文字を使用し、隋や唐、新羅などの外国と交流するようになります。奈良時代、平城京で党の影響を受けた奈良三彩が製作されています。
奈良三彩や釉薬を掛けた青瓷や白瓷は貴族の使用品で、10世紀まで、日本人は木の器を中心に須恵器、土師器を併用していました。
12世紀、平安時代に日本は宋から大量の陶器を輸入しています。

         
縄文土器         弥生土器         須恵器         奈良三彩        宋時代青磁         宋時代白磁

(2) 中世・近世の陶磁器

12世紀後半、武士が政権を獲得すると、陶器の世界に変化が起こります。武士は自分の勢力圏に鍛冶場を作り、そこで陶器の製作をしました。中世の窯場に「六古窯」と呼ばれる焼物があります。六古窯は瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波焼、備前焼で、近隣には名刀を製作した鍛冶場がありました。
六古窯が主に製作した焼物は壺類で、食器はあまり作っていません。日本は材木が豊富にあるので、中世食器の代表は漆器です。壺を作った目的は銭や種もみを貯蔵する、水を溜めるためでした。ちなみに壺(つぼ)の語源は、粒(つぶ)だと言われています。
六古窯は16世紀、戦国時代まで日本陶器の中心でした。
16世紀、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行った時、武将たちは多くの朝鮮人陶工を日本に連れて帰ります。現在、韓国の人達はそれを強制連行だと考えていますが、陶工たちは江戸時代に帰国が許されても日本に残っているので、彼らは自分たちの意思で日本に渡来したようです。渡来した朝鮮人陶工たちは各藩のお抱え技術者となり、日本の陶器を発展させました。九州地方の唐津焼、高取焼、上野焼、薩摩焼など、中国地方の萩焼などは朝鮮人陶工が中心となって開かれた窯です。
この時代に、もう一つ注目しておかなければならないのは茶陶の出現です。室町幕府や織田信長は唐物を茶道器としましたが、茶陶の需要に対応するために秀吉は利休に命じて和物茶陶を開発させます。利休が指導して焼かせたのが楽焼、瀬戸焼、織部が指導して焼かせたのが美濃焼です。茶道の精神が陶器に導入されたのと、朝鮮人陶工が渡来したことによって、日本の陶器にバラエティになります。
17世紀前半、明が滅亡の危機を迎えると、景徳鎮から中国人陶工が渡来しました。彼らは九州の有田周辺で磁器生産を始めます。伊万里焼誕生のことは前回の「骨董講座 伊万里焼」で話しましたが、明の復興運動と東インド会社の思惑が一致して企画された案で、この時期、日本で初めて染付が焼かれました。
話は変わりますが、日本人が青を考えている色は昔、青ではありません。なぜなら13世紀、元が中東からコバルトを輸入して染付磁器を生産するまで、中国にはコバルト色がなかったからです。12世紀まで、中国人は青磁を「緑色」と考えていました。ですから中国の青磁と染付の色は区別して考えるべきです。
江戸時代初期、日本の陶磁器は一気に開花し、世界一になります。現在、使われている陶器技法のすべてが17世紀に開発されていました。日本人が短期間で陶器産業のトップに躍り出たのは、日本人の手先の器用さ、技術力があったからです。それは昭和時代、自動車産業でも発揮されました。
17世紀前半、長次郎、本阿弥光悦、後半、尾形乾山、野々村仁清など、個人が独創的な陶器を作ります。個人名が残っているのは、ほとんどが京都の陶工です。江戸時代の陶器を分類する時は、個人が作ったか、集団で作ったのかを把握すると陶磁史の把握がしやすいでしょう。後者の代表は伊万里焼で、伊万里焼の製品は生地師、絵師、陶工など、数人がかりで一つの製品を仕上げています。陶器の場合は、一人の作家が作る場合が多い。
1800年前後、幕府の規制が緩むと、日本各地の陶工が有田に潜入して技術を取得し、自国で磁器を焼くことができるようになります。四国の砥部焼、中部地方の瀬戸などでも磁器が焼かれるようになります。現在、磁器のほとんどが「伊万里焼」で総称されますが、厳密に言うと、地方窯の作品もたくさんあります。磁器を焼いた代表的な窯を列挙します。
・平佐焼(1776年 薩摩) ・須江焼(筑前 1780年頃) ・小峰焼(延岡 1790年陶器製造許可)
・砥部焼(1777年 伊予) ・三田焼(播磨 1789年)
・京焼染付(1781 奥田穎川) ・瀬戸(1807年 尾張 加藤民吉)
・平清水(1844年 山形)
これを見ると1780年前後に磁器の技術が日本全国に広まっていっていたことがわかります。時代的に言うと寛政時代ですが、それ以前の田沼時代に「天明の飢饉」で財政的に圧迫された江戸幕府・田沼意次が殖産興業を発展させるために磁器生産を許可したのでしょう。

         
瀬戸焼         信楽焼           楽焼             織部           美濃焼          初期伊万里

(3)  江戸時代の陶器の展開

ここで江戸時代の陶器の展開を話します。

陶器は大きく分類すると茶陶、雑器に分けることができます。さらに茶陶は京都の公家・町人系、武家系に分けることができる。京都の茶陶作家の系譜を見ると長次郎、本阿弥光悦、野々村仁清、尾形乾山、永楽和全・保全、奥田穎川、青木木米、仁阿弥同八などがいます。京焼作家は作家ごとに強い個性を持つ特徴があります。一方、武家の茶陶は「遠州七窯」が代表的な窯です。志戸呂焼(遠江)、膳所焼(近江)、赤膚焼(大和)、朝日焼(山城)、上野焼(豊前)、高取焼(筑前)。「骨董講座 茶道」で話しましたが、七窯はお茶の生産の盛んな土地です。
江戸時代は士農工商の封建社会が確立していたので、身分の秩序がはっきりしていましたから、使える陶磁器も制限されていました。上記の陶器は武家や公家など上流階級の5パーセントの人々が使用したものです。上記の高級品別に各藩は御用窯を設けて藩主用、献上用の陶磁器を作っていますが、その代表は鍋島焼(肥前)、薩摩焼(薩摩)、源内焼(讃岐)、御深焼(尾張)、八代焼(肥後)などです。特に鍋島焼は磁器の代表として有名で、鍋島藩は厳重に製法を秘密にして、枚数制限をして希少的価値を高めました。
残りの95パーセントの人は雑器を使用していました。江戸時代中期まで農民は庄屋以外、磁器を使用できなかったようです。
磁器窯の拡散が始まった18世紀後半、各藩は陶器生産も盛んに行いました。その頃、一般庶民が生活に使用した陶磁器は古民芸品と呼ばれています。磁器の中に波佐見焼の「くらわんか」や瀬戸の石皿は現代でも人気がある商品です。
 陶器の技法には成形、刷毛目、絵付、吹墨、叩き成形、象嵌、摺絵、掛け流し、釘彫りなど様々な技法がありますが、日本人はあらゆる技術を駆使して茶陶や民芸作品を作っています。
特徴のある技法を使った地方窯、国焼の代表を上げてみましょう。

成形・備前焼 刷毛目・現川焼 絵付け・九谷焼、薩摩焼 象嵌・八代焼
摺絵・御深井焼 掛け流し・小代焼 釘彫り・小石原焼 いっちん・丹波焼

これに藁灰釉、鉄釉、緑釉など色とりどりの釉薬を掛けて、陶工たちは作品に表情を持たせました。
江戸時代の陶磁器を見ると、よくもまあ、これだけバラエティのある作品を作ったものだと感心します。
江戸時代末期になると、新しい窯場が活況を呈します。その代表が再興九谷焼です。九谷焼は前田藩の財政をバックに文化年間(1804〜1818年)に春日山窯、若杉窯、文政年間(1818年〜1830年)に吉田屋窯、宮本窯、松山窯などが起こり、加賀は一台窯業地に変容します。
1867年、前田家の支藩・大聖寺藩では産業振興の一環として、色絵伊万里写しの作品を量産します。明治時代に入って大聖寺窯で作られた作品は外国人にも好評で本場のしのぐ勢いを示しました。また九谷窯の方でも輸出用の製品作りが始まり、伊万里写し、薩摩写しなど各地の様式を取り入れた作品を作っています。
江戸時代が終わり明治時代になると廃藩置県が行われ、各地の窯場は民営化され、窯場の人達の移動が始まります。陶工はより良い賃金、環境を求めて移住します。この時期、伊万里焼の陶工たちは瀬戸、大聖寺などに移住したので、伊万里焼は存亡の危機を迎えます。その時、伊万里焼復興に尽力したのが、深川栄左エ門一族や富永源六などです。ちなみに現在、宮内庁御用達になっている深川陶器は、磁器製「絶縁がいし」を日本で初めて作った会社です。
明治時代、文明開化の波が西洋から押し寄せ、庶民の生活が欧米化すると、反動が大正時代末期に起こりました。その運動を推進したのがイギリスのアーツ・アンド・クラフト運動の影響を受けた柳宗悦です。柳宗悦たちが濱田庄司、河合寛次郎らとともに各地の民芸品を紹介し、民芸の美を理論化します。

         

(4) 日本陶器の特色

最後に日本陶器の特色を時代ごとにまとめておきましょう。縄文時代は渦巻き型の円形、弥生時代は安定型の方形が基本。縄文土器は立体彫刻的、感覚的で、弥生土器は平面的、観念的です。日本は自然が豊かで変化に富んでいるので、縄文人は体感で土器を製作しています。同時代の中東や西洋の土器を見ると、体感的な土器よりも彩文のある観念的な土器が多いことに気づきます。そこに騎馬民族が使用した須恵器が入ると、日本陶器の基本形が揃います。縄文土器は雑器ではなく祭器として製作されましたが、弥生土器以降、土器、須恵器は一部を除いて生活用具の側面が強くなります。
何回も繰り返しますが、日本人の食器は漆器で陶器は別な祭器や日常雑器でした。
古代や中世の陶器を見ると、中国陶器の模倣をしている割に技術がなかったために、逆に独創性のある作品を作り出していることがわかります。六古窯などの壺には自然釉が景色を作っている。西洋、中国、朝鮮には自然釉を愛でる文化はないので、世界中で自然釉文化を持つのは日本だけです。日本人は歪みや釉はげを景色として鑑賞しますが、他民族にそのような感覚はありません。
個人的な意見ですが、そのような感覚は縄文時代に身に付いたと考えら、それが桃山時代に開花しました。 桃山時代、藤堂高虎が指導して焼かせた「藤堂伊賀」という作品があります。ひしゃげた水差しが有名で、窯場の中で自然に歪んでしまった物を直して水差しにしたものですが、これは日本人の美意識を象徴するような作品です。
千利休が興した茶道はどちらかというと禅宗味があるので観念的です。一方、藤堂伊賀は体感的なので、縄文土器に近い感覚です。利休が長次郎に作らした赤楽茶碗の色を見ると、弥生土器や朱漆器を思い起こしていまします。そう考えると千家の茶道は弥生的、藤堂伊賀は縄文的だということができます。ちなみに朱色を使った弥生土器、朱漆器、かに肌の信楽の壺は日本人が好きな美の系譜です。
平安時代、日本には天台宗と真言宗の2つの宗教が伝播しました。天台宗は観念的、真言宗は体感的な宗教なので、その流れを見ると日本文化が分析できます。
縄文系のキーワードは、「渦巻き、自然、黒茶、体感、真言宗(密教)」で、弥生系のキーワードは「方形 人工、白朱、観念、天台宗(顕教)」。日本の陶磁器は中国や朝鮮の影響を受けたと言われていますが、技術的影響を受けていても文化的にはあまり影響を受けていないようです。それが中国や朝鮮半島に歪みの文化がないことを見ても理解できます。
日本の陶磁器を理解するもう一つのキーワードは「季節感」です。日本人は各季節によって衣食住の装いに変化をつけます。日本人はせっかちと言われますが、それは日本人が季節の変化に順次、対応するからです。昔の日本人は1年を72期に分けて、それぞれの季節を楽しんでいました。
明治時代、西洋の一神教の文化が流入すると、「日本人は同一民族だ」という概念が定着します。江戸時代、地方ごとの特色を生かした陶磁器が作られていましたが、明治時代に一時、消滅します。そのような地方の独自色を見直したのが、柳宗悦の興した民芸運動でした。
戦後、一神教的な国家主義が消滅すると、日本人は再び、地方ごとの特色を再認識している感があります。それは地産地消や町おこし、ゆるキャラなどに見ることができます。
近年、日本人の感性はインターネット社会の拡大によって、画一化しつつあります。観念的で、感覚や体感性が乏しい。このような時代、我々、日本人は江戸時代に作られた各地の民芸品に触れて、多様な自然、環境に触れる必要があります。幸い日本には江戸時代の工芸品、陶磁器がたくさん残っています。
そのような作品に触れていると、日本人の多様な感性を取り戻すきっかけになると思います。
(終わり)

         

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