このページは2014年3月1日(土)・8日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第6回 『中国の古美術と文化』 (1)  中国とは何か

中国とはアジア大陸東部に広がる地域です。
正確に言うと『中国』という国は存在せず、歴史的に漢、唐、宋、元、清などの王朝の呼び方が使用されています。古代の日本は『倭』と呼ばれていましたが、7世紀には『日本』を使用して今日まで続いているので、国の呼び方の変更からも日本が平和だということがわかります。その間、中国は多くの民族が栄枯盛衰を繰り返して、興亡をくり広げてきました。
唐時代の詩人、杜甫(712~770年)の『春望(757年)』の『国破れて山河あり』のように、中国は政争が絶えない国です。
中国史に興味のない人は、中国は常に漢民族の支配した同民族国家というイメージがありますが、隋、唐、元、金、清など漢民族以外の王朝がたくさん存在しており、それが混血して漢民族ができあがりました。現在、漢族は人口の92%を占めるといわれていますが、実際には混血民族というのが真実です。
中国には『南船北馬』という言葉があります。この言葉が中国をよく表現しています。『南船』は揚子江(長江)流域の文化、『北馬』は黄河流域の文化をさす言葉で、中国は海洋民族と騎馬民族、農耕民族が集まって作った国です。現在でも北京では上海派閥と北京派閥が政争を繰り返していますが、これは古代からずっと変わらない。日清戦争というと、国同士の戦いのように見えますが、その時、清は近代的な軍隊を編成していなかったので、日本が戦ったのは北部軍です。日本で言うと薩英戦争のようなものです。
その後、広東省出身の孫文が南部で辛亥革命を起こし、南京に『中華民国』を建国しますが、孫文が南から興ったのは、清の影響が薄かったからです。 中国では北は小麦、南は米の文化圏に属します。コメ(稲)は紀元前8千年から認知されてようですが、水田稲作は紀元前5千年頃、長江中流域で始まったと考えられています。上流に向かった水田農耕はタイに、下流に広がった稲作は紀元前300年には九州に到達します。その頃、中国北部は乾燥地帯だったので雑穀が主流で、南部ほど盛んではない。稲作は南方の作物。日本列島は海に囲まれているので湿気があり、水の利用も容易だったので稲作に適した土地でした。
中国に黄帝、神農、堯、舜、禹という伝説の五帝がいます。黄帝は中国を作った神です。中国人は自分たちが黄河上流の黄土高原から発生したと考えているので、『黄』を大切にする。『黄河』は黄色い色の河、漢民族は自分たちは『黄泉』から生まれたと信じています。ですから、五行の中心の色は黄色です。現在、中国の色は共産党の赤ですが、清朝の皇帝は黄色を重んじました。中国人は国を興すと、民族によって色を使い分けます。元を起こしたチンギスハーン(1162~1227年)は『蒼き狼』と呼ばれていたので、青を重んじます。それで染付を創造した。漢民族が復興させた明は儒教の国だったので『白』を重んじます。元に追随した高麗は青、明に追随した李朝は白を重んじました。高麗青磁、李朝白磁は中国の影響を受けているわけです。中国には五行思想があり、それを各分野に当てはめます。五帝も『木火土金水』にあてはめますが、王朝によって重んじる色、皇帝が違うのでややこしい。
一般的に五行で、東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武、中央は黄泉と言われています。朱雀大路や白虎隊などは五行の影響で付けられました。 中国には五帝の他に疱犧(伏犧)・女媧・(祝融)・神農(燧人・黄帝)という『三皇』がいて、天皇・地皇・人皇と呼ばれています。
五帝と三皇の違いは南北民族、農耕民か狩猟民かの違いから発生します。五帝の最後の『禹』は治水の神様ですが、治水は水田稲作に欠かせない農耕の神様。このことから五帝の発生は南方であることがわかる。逆に三皇は北、騎馬民族の文化です。ちなみにJリーグが採用している三本足烏は、北方文化が起源です。騎馬民族は治水をしないので、水神、木神は必要ない。自然である山も川も『三』が変形した文字ですが、三皇に関係している。
中国の首長号には『王』と『干』があります。『王』は川をせき止めた字なので農耕民族、『干』は神樹を信じる騎馬民族の象徴です。王を囲むと『国』という字ができる。
騎馬民族である『干』民族は金の文化、農耕民である『王』民族は玉の文化を持っています。国という字には玉があるので、国という言葉は南から発生したことがわかります。
中国文明を理解しようと考えるのであれば、『揚子江と黄河』、『南船北馬』、『五帝と三皇』、『王と干』など、南北の文化を分けて考えるとわかりやすい。それから、交易は東西と考えると中国文化の把握が容易になります。……。
日本仏教には顕教と密教がありますが、顕教の天台宗は南方、海、密教の真言宗は北方、山の宗教です。話が脱線してしまいました。これから中国の骨董の話をしますが、以上のことを踏まえて、これからの話を聞いてください。

中華(ちゅうか)あるいは華夏(かか)という用語は、『優れた文化を持つ者』を意味し、漢民族の間で『中国』と同様の自称として用いられた。
漢民族は周辺民族を『北狄』『東夷』『西戎』『南蛮』と呼び、野蛮とみなして蔑んだ。

     

(2) 中国の陶器

英語で陶磁器のことを『チャイナ』と言います。これは中国が西洋人にとって陶磁器の国だからです。漆は『ジャパン』であることは皆さん、ご存じでしょう。
ところが中国と日本の陶器の歴史をみると、日本の縄文土器のほうが古い。よく、『中国五千年の歴史』と言いますが、日本人が縄文土器を作り始めたのは紀元前一万年くらいなので、『日本一万年の歴史』とも言える。現在、中国で確認されている土器は出土した最も古い裴李崗跡でも紀元前7000~5000年頃のものです。ですから早期の縄文土器のほうが古い。それほど、日本の陶磁器史は長いのですが、それを日本人でも知っている人は少ない。
しかし、文明になると意味合いが変わってきます。文明の条件は国家組織、統一文字・言語です。中国にも旧石器時代から土器があり、それは文明以前のものです。1921年、スウェーデンの地質学者J・Pアンダーソンが河南省土器の仰韶村で新石器時代の彩文土器を発見します。それが現在、『仰韶土器』『アンダーソン土器』と呼ばれて骨董屋で売られています。仰韶土器を作った仰韶文化には半坡類型(紀元前4000年)と廟底溝類型(紀元前3300年)があります。
中国の考古学者は彩文土器が中国で自然発生したと考えていますが、時期的に見ると、エジプトやメソポタミア文明が起こった時期と重なっている。ですから自然発生ではなく、何らかの交流があったと考えられます。
仰韶文化は中国でも西方で作られたのですが、同時期、黄河下流域では大汶口文化(紀元前4000~2300年)が出現します。これはちょうど、三内丸山遺跡と同時代です。大汶口遺跡を調べると、当時の人たちが米や豚を食べていたことが判明しています。水田稲作がこの時代に黄河下流域に達していたことがわかる。日本の遺跡から大汶口文化に似た遺物が出土するので、両者の間に交流があったことは確かです。中国は紀元前3000年に東西との交流を始めたのでしょう。
紀元前1600年頃、中国に殷と国が出現します。殷文化の特徴は甲骨文字と青銅器を使用していることです。甲骨文字の研究から先ほど述べた五帝に近い人物の存在が確認されています(二里岡文化)。エジプトや西アジア文明は、紀元前4000年には青銅器時代に入っていますが、中国が青銅器時代に入ったのは殷の時代からなので、このことから西域から文化が伝播したことが推定できます。
この頃、中国では高温で焼かれた磁器に似た灰釉陶器が発明されました。また、ロクロや施釉陶の技術を発明し、中国陶器は発展を遂げます。
殷は『商』とも呼ばれています。商売や商人の語源が『商』で、この時期、中国人は東西南北に出かけて行って盛んに交易を行っていました。彼らの主力商品は塩と青銅器です。
殷の滅亡後、周(紀元前1046年~紀元前256年)という国が出現します。
周の後期(紀元前403年)、周の政治は乱れて戦国時代に入ります。この時、出現したのが儒教を興した孔子(紀元前552~紀元前479年)です。孔子は黄子(子は先生の意味)だったと推測できる。孔子が祖先を大切にする儒教を広めたのは自分が『黄』国出身だと考えていたからでしょう。
中国には儒教の他、老子の起こした道教があります。現在、中国には『李』姓の人が1億人いますが、老子は李姓なので、李氏たちは自分たちが老子の祖先と考えています。ちなみに唐は李淵が建てた国なので、道教を国教としました。孔子の仕えた魯は、姫(李)氏の国なので、孔子と老子は影響を及ぼし合っていた可能性もあります。
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、最初の『皇帝』号を使用します。秦の出現によって、中国は大きく様変わりしました。最も変わったことは皇帝の概念、文字・度量の統一化でした。我々は中国の文字を漢字と呼びます。漢字が統一されたのは秦の時代なので、秦字というのが正しいのですが、秦は20年で滅びてしまう(紀元前206年)ので、漢字となりました。
秦の後、前漢(~紀元前8年)が興ります。第7代皇帝・武帝(紀元前156~紀元前87年)の時代になると、中国の影響が及ぶ領域が、現在の領土とほぼ同じになり、中国は国家として形を整えました。
前漢時代の陶器で特徴的な作品は緑釉陶です。漢時代といえば、緑釉と答えが返ってくるほど代表的です。
漢は祖先を崇拝する儒教を重んじていたので、大量の明器(死者と共に埋葬する器)を作りました。しかし、宝飾品厚葬の習慣が行き過ぎ、後漢を継いだ晋は薄葬令を出し、明器に凝ることを禁じました。その結果、人々は宝飾品の代わりに陶器で作った明器を使用したので、陶器の質が格段に上がります。初期の青磁が作られるようになったのは、この時期です。

         
   アンダーソン土器  大汶口土器    青銅器(殷)     甲骨文字      白玉(商)              灰釉壺(戦国) 

         
   兵馬俑(秦)            緑釉壺(漢)      金製品(唐)         陵墓                  龍門石窟 

(3) 中国陶磁器の展開

ここで簡単ですが、中国陶磁器の発達について話をしましょう。先ほど話したように、中国は民族の攻防が激しい国なので、国や皇帝が変わると陶磁器の様相も大きく変わります。

古代
・晋(265~420年)
 薄葬令施行。青磁、黒釉陶の発展
・五胡十六国時代(304~439年) 北方騎馬民族
 騎馬民族による西域文化・仏教文化の流入
・唐(618~907年)
 三彩の使用。青磁(緋色青磁)、白磁(刑州窯)の完成
・宋(960~1279年)
 石炭の使用によって火力が上がり、精巧な製品が作られるようになる。浄土宗、禅宗の影響を受けた単色の焼物が流行する。景徳鎮など、多くの窯が開かれる。

中世
・元(1271~1368年) モンゴル族
 カオリンを使用した磁器の発明。コバルトによる染付磁器(青花)の出現
・明(1368~1644年)
 染付の展開と五彩の発明。景徳鎮が磁器生産の中心となる。

近世
・清(1644~1912年) 女真族
 技術の発展による磁器製品の細密化。
・その後、中国陶磁器は社会情勢の不安定化とともに衰退する。

歴史を見ると、漢民族と北方の騎馬民族が交互に政権を担っていたことがわかります。五胡十六国、元、清などは北方民族なので、漢人は他民族に支配されていたことになります。中国の庶民は政治さえ安定していれば皇帝がどの民族でも良かったようです。清朝時代、中国人は辮髪をしていましたが、これは女真族の風習です。中国人は清が国を安定すると、女真族の風習を取り入れて自分たちの文化に作り変えました。
時代別に考察してみると面白いことに気付きます。数例、あげてみましょう。
①漢民族が国を支配する時代、儒教が国教となるので白い陶磁器が流行する。宋の時代、朱子学(江戸幕府が取り入れた)が流行しました。儒教は清楚を重んじるので、単色が流行します。特に白磁が流行したのは南宋と明時代前期でした。明王朝は王宮では白磁を使用しています。その影響は李朝にも及びます。
②騎馬民族が政権を担う時代、西域との交流が活発化する。五胡十六国時代、西方から仏教が伝播して北魏が国教とします。この時代を読む鍵は馬です。日本に馬が輸入されたのは5世紀ですが、この時代に須恵器も日本に入ってきました。もう一つ、重要なのは元の時代、ペルシャからコバルトが伝わり、染付磁器が生産されるようになったことです。カオリンはペルシャ、コバルトは中国では産出しないので両国が協力して染付磁器を完成させました。最初の染付磁器は貿易の輸出用だったらしく、中国本国よりも中東諸国に遺物がたくさん残っています。日本人が馴染みの唐草模様は中東のデザインです。
明は国内では白磁を使用しましたが、輸出用の染付は生産していました。
③中国は他民族との交流しながら陶磁器技術を発展させてきました。しかし、社会が不安定になった近現代、中国人は独創的な陶磁器製品を作ることを止めました。
中国陶磁の面白さは民族の興隆、政権によって独創的な作品を作ってきたことです。しかし、最近は海外に輸出する模造の陶磁器(コピー商品)を大量に生産しています。彼らは漢民族をやめて、商人に戻ったのかもしれません(笑)。

         

(4) 中国文化考

中国が日本文化に及ぼした影響、日本が中国に及ぼした影響について考えてみましょう。
7世紀前半まで、日本(倭)は国家として中国の政権と国交がありませんでした。600年、飛鳥政権は遣隋使を隋に送りますが、隋の政権は倭を国家と認めず、未開国として扱っています。それに触発された倭は漢字、仏教、律令制度を取り入れ、中国と国交を開始します。隋の後を継いだ唐に日本は20年に1度(300年で10~20回)、遣唐使を送って唐の文化を吸収しました。東大寺正倉院にある宝物や真言宗の密教法具などは遣唐使が日本に持ち帰ったものです。
894年(寛平6年)、菅原道真の進言により遣唐使は廃止されます。これによって日本は中国との交流を止め、和風文化が興隆することになります。日本人が再び中国との交流を始めたのは宋時代です。経済通の平清盛は宋から大量の銅銭を輸入しました。その結果、宋の銅価格が高騰したことが判明しています。平氏、奥州藤原氏、鎌倉幕府は宋と交流し、陶磁器など中国の文物を輸入しました。この時代、特筆すべきことは禅宗の伝播です。同時に抹茶も輸入され、それが発展して茶道文化が生まれます。
鎌倉幕府と宋は友好的でしたが、元が出現すると雲行きが怪しくなります。元寇の起こる前、南宋から多くの禅僧が日本に亡命して来ました。鎌倉幕府は彼らを匿い、元との対決姿勢を強めた。鎌倉幕府と元との戦いは、禅宗の影響が大きいのです。この時代の輸入品は宋銭、陶磁器、絹織物、書籍、文具、香料、薬品などです。抹茶は薬品として輸入されました。輸出品は銅、硫黄、木材、日本刀、乾物などです。吉田兼好の「徒然草」には「宋の薬品がないと、日本の医療は成り立たない」と書いています。
日本と明の関係は良好でしたが、桃山時代、豊臣秀吉が朝鮮出兵をすると悪化します。戦争によって明は疲弊し、清に滅ぼされます。滅亡した明の遺臣たちは国を復興するために江戸幕府に協力を求めます。それが歌舞伎の「国姓爺合戦」に描かれました。黄檗宗の隠元が来日したのも、この頃です。骨董講座「伊万里の歴史」の回で話しましたが、日本で色絵・磁器生産が始まったのは、明の遺臣たちの資金供出が大きく関わっています。それを支えたのが東インド会社を経営したオランダ人です。
江戸時代、清と日本の関係は良好で、清の文物が日本に輸入されました。19世紀末、日本人は清の煎茶文化に憧れを持ち、長崎の卓袱料理(テーブル料理)などを楽しんでいたようです。19世紀中頃、西洋列強が東アジアに進出してくると、中国も日本も帝国主義の渦に巻き込まれていきます。

最後に中国と日本の文化についてお話をしたいと思います。

【1】 中国人と日本人の大きな違いは、歴史観にあります。中国は前政権が滅びると、後の政権が前政権の歴史書を編纂します。それをするのが新政権の義務です。その結果、中国人は文章で自分たちの歴史を確認することができます。一方、日本人は歴史に疎いので時代ごとに都合のよい歴史書を編纂します。江戸幕府が成立して武家政権が強化されると、公家の力は脆弱なものとなりました。それが明治時代になると逆転する。中国では民族の交代が政権の交代に繋がりますが、日本は同一民族志向が強いので、政権の交代が曖昧です。中国では前王朝の関係者を政権に残すことはありませんが、日本人は幕臣の多くが明治政府に鞍替えしています。

【2】 文章で歴史を残す中国人ですが、内戦で多くの文物を失う癖があります。最近では文化大革命で清朝などの文物がブルジョア的だと破壊されました。日本でも廃仏毀釈がありましたが、中国ほど徹底的に物を壊しません。正倉院にある唐の文物、空海が日本に持ち帰った密教法具、茶道家が大切に守ってきた天目茶碗など、本国に残っていない文物が日本に残っています。抹茶道具など、本場であった中国には存在しない。日本人は文よりも物を残す癖がるので、このような現象が起こるのです。古代、地中に埋葬した物は別にして伝世と呼ばれる文物が少ないのが特徴です。その結果、北京に故宮博物館よりも台湾の故宮博物館の方が充実している。
最近、中国人の歴史家たちは中国には残っていない資料を求めて日本にやってきます。日本の資料をもとに自分たちの歴史研究をしているのが実情です。
このように考えると中国は思想や文の国、日本は技術、物の国ということになります。
(終わり)

         

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