このページは2019年6月1日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第59回 「日本の古民芸」
(1) プロ野球と民芸美

広島出身の私はカープファンです。4月、セリーグが開幕した当初は、カープは泥沼のような状態で最下位。「今年はダメかな」と悲しい気持ちで試合を見ていましたが、元号が令和に変わる頃から見違えるようなチームになって勝利を重ね、現在、セ・リーグ首位に立っています。なぜ、骨董講座でカープの話をするのか疑問に思われるでしょうが、1970年代、カープが強くなった時期と伊万里焼や民芸ブームが起きる時期が同じだからです。「巨人、大鵬、卵焼き」と言っていた時代、セ・リーグの王者は常に巨人でした。お金がないカープは、財力のある巨人には絶対に勝てなかった。そのような状況ではプロ野球が面白くないので、1965年にドラフト制度が導入され、プロ野球改革が始まります。それで強くなっていったのが、カープでした。
1965年と言えば、東京オリンピックが下位された翌年。この頃から日本中に高速道路網が整備され、東京の骨董業者がトラックで関西に仕入れに行くようになります。それから数年後、1969年頃から団塊の世代と呼ばれるる骨董業者が活躍するようになり、それまで主流だった茶道具や鑑賞陶器、絵画が骨董業界に、伊万里焼や古民芸の新しいジャンルが導入されます。
1970年に大阪で万国博覧会が開催され、新しい価値観を創作する時代に入ります。「日本列島改造論」を表した田中角栄が首相に就くと各地で開発が始まり、土蔵の解体と共に多くの古美術品が市場に出回るようになりました。高速道路の拡大に伴って、東京の古美術商たちが地方に出かけ、新しい商品開発に乗り出します。その中心が日本全国を廻って伊万里焼を探した「良い仕事していますね」の中島誠之助さんや民芸の森田さん。彼らは青山周辺で古美術商を営みます。当時は雑誌の創刊ブームで、それまで老人の趣味とされていた骨董収集が一般の人にも認知されるようになり、その時、ヒット商品したのが伊万里焼、古民芸品、仙台箪笥、絣などで、森田さんが扱う商品を周辺に住む感性の鋭いデザイナーやアーチストが購入しました。
巨人が茶道具や鑑賞陶器、絵画ならば、ドラフト制導入後のカープは伊万里焼や古民芸に近い存在だと言えるでしょう。そのような理屈は眉唾だと思われる人は、カープが強くなった時期と骨董業界の状況を比べて見てください。投稿で平和島の骨董市が始まったのが1978年。この頃、カープが何度も優勝しています。それが偶然ではありません。時代が変わり、人々の趣味の嗜好もこの時期に変わったのです。
もう一つ、骨董業界と野球の変革期が重なった時期があります。それは落合監督が中日ドラゴンズを率いて優勝をしていた時代。落合監督は2004年から2011年まで駐日を率いて、8年の間に4度の優勝をしました。しかし、不思議なのは中日ドラゴンズが優勝しても、中日の人気は地元だけで、プロ野球は一向に盛り上がらず、優勝した中日の人気は全国区に拡大しませんでした。この時期、日本社会にはネットやSNSが普及、情報所得ツールが変わっています。そのことに中日ドラゴンズの経営者たちは気づいていなかった。経営者たちは、「強ければ、人気が出る」という幻想を捨てずに経営を行っていたのです。「優勝すれば人気があがる」という一時代昔の理論、野球は地元のためにあるという考え方は、すでに過去のものとなっていたのです。ご存知のように名古屋は紀州徳川家のおひざ元、茶道の盛んな土地です。時代が変わり、茶道の人気が廃れた時期も、中日の人気がなくなった時代と重なっています。私は落合監督以前の中日ドラゴンズが好きだったので、ドラゴンズの経営者が早くネット時代の野球がどのようなものか気づくことを願っています。ちなみにDNAベイスターズは、そのことに気づいています。巨人は読売本社が強いので、改革はまだまだ。このまま金満野球を続けても優勝はできないでしょう。巨人は鑑賞陶器、中日は茶道具、広島は生活骨董、DNAは雑貨と見ると、プロ野球と古民芸の関係が理解できると思います。

       

(2) 民芸運動と映画監督

「民芸」を芸術として広めたのは日本民芸館を創設した柳宗悦(1889年〜1961年)です。柳宗悦はイギリスのウィリアム・モリス(1834〜1896年)の「アーツ・アンド・クラフツ運動」の影響を受け、庶民の使う日常雑器に美を見出しました。明治時代、日本人は西洋に目を向け、ヨーロッパの美術を崇拝し、和風の美を軽んじていました。それに異を唱えたのが岡倉天心やフェノロサ。しかし、彼らが和風の美として捉えたのは、高貴な人たちが扱う鑑賞美術品で、庶民が使う日常雑器ではありません。
大正時代、デモクラシー運動が起こり民衆が力を持つと美術に対する考え方が変わり、それまで古典中心の美一辺倒だった日本人が「日常の美」にも目を向けるようになります。その中心となったのが雑誌「白樺」を創刊した武者小路実篤や昭和初期に民芸運動を主導した柳宗悦たちです。「白樺」の同人には中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生などの画家がおり、新しい文化形成を模索しました。大原孫三郎が倉敷に建てた大原美術館(1930年開館)は現在、日本有数の西洋絵画コレクションのある美術館ですが、当時は世界的に見ても最先端の絵画コレクションを展示した画期的な美術館です。その大原は柳宗悦の民芸運動を支援し、1936年、日本民芸館の開館にも協力します。柳は陶芸家の浜田庄司や染色家の芹沢_介らと一緒に昭和初期、民芸運動を始めますが、現在、柳宗悦たちが行った民芸運動を見ると「果たして彼らは庶民の美、用の美を追求していたのか?」という疑問がわきます。多くの民芸ファンは柳宗悦が収集した古美術品の多くはブランドで、民芸運動に参加した作家たちも作家主義の人が多い。現在、浜田庄司、河井寛次郎、芹沢啓介の作品は分ランド品となり、高値で取引されています。彼らが主張した民芸運動は、現在から見ると、「民芸様式を模した作家主義」です。柳は「用の美」を唱えていますが、以前ならいざ知らず、現在では状況では民芸運動家の作品を日常雑器には使えない。
先ほどプロ野球と古民芸について話しましが、ここでは映画監督と民芸の関係についてお話しましょう。河井寛次郎などの民芸作家が活躍していた時代、映画界では黒澤明、小津安二郎、溝口健二など、今日の巨匠と呼ばれる監督が活躍していました。彼らは映画製作に強い権限を持ち、自分の好きな映画作品を創作します。監督も民芸作家も巨匠と呼ばれる人が、あの時代は存在していた。ところが、団塊の世代の骨董屋が活躍する時代になると、映画界は一変し、AТGなど、自主独立映画が主流となります。この時期の映画監督は映画会社の意向よりも、自分たちの理論を実現するために低予算でも作品を製作しました。それは鑑賞陶器(巨匠や巨人など)から、生活骨董(AТGの監督、カープなど)に骨董の趣味が変容したことと似ています。
2017年、「カメラを止めるな」という低予算(300万円、撮影期間6日間)で作った映画が大ヒットしました(興行収入、約30億円)。この映画には有名な俳優が出ていませんが、大ヒットした。その理由は金をかけて有名な俳優主体を使って作る映画に、映画愛を持つ人が飽き飽きしているからです。「カメラを止めるな」を製作したスタッフの映画愛に観客が同調した。これは骨董業界にも当てはまります。骨董業下では着物、刀剣、仏像ブームなどがありましたが一時的なブームに乗って、にわか骨董ファンになった人たちはいつのまにか消滅した。で、残ったのは、流行ではなく生活に密着した骨董愛のある人たちです。黒澤明など巨匠の監督の作品は今見ても面白く、有名な民芸作家の作品は見ごたえがありますが、それは庶民には手の届かないものです。逆に現在は、ブランド品ではない、自分の愛する骨董品を手元における人たちが増えた時代ということもできるでしょう。

         

(3) 民芸の陶磁器に関する産地鑑定の難しさ

2000年代になるとヤフーオークションが始まり、骨董業界に限らず商品流通に変化が起こります。それまで業者が見向きもしなかった古民芸品がネットに出品されるようになります。偽物も含めて市場は何でもありの状態になり、骨董屋さんの営業文句、「これは珍しいですよ」も通用しなくなりました。商品はネットを見れば出品されているし、相場も見当がつく。ネットの出現によって、それまで玄人だと自称していた古美術商の鑑識眼の怪しさに素人が気付くようになったのです。かと言って、素人の鑑識眼が飛躍したのではない。ネットの拡大で偽物を本物と勘違いして購入する人も増えています。
ヤフオクが出現して大きく変わったのは収集家の趣味が個別化したということです。昔は雑誌を見て、流行を追った収集家が多かったのですが、最近は自分の興味の対象を絞って骨董を楽しむ人、また、高価だった伊万里焼も手ごろな値段になったので普段に気軽に使用する人も増えました。今まで流行を追って骨董を収集していた人の中には商品露出の拡大で、逆に何を買ってよいかわからなくなっている人もいます。
古美術商をやっていて一番困るのが陶磁器(古民芸)の産地を特定するのが難しいことです。目の利かない古美術商は「感覚で美を感じればよい」とか、「産地の鑑定は簡単だ」という人がいますが、そのような人は時代の潮流についていけない人たちです。一般社会でも情報やデータ収集をしているのだから、骨董業界でも、それは確実に進化している。最近は各地(小杉焼や切込焼など)で古民芸を愛する人たちが集まってサークルを作り、研究会を行っています。よほど、骨董品を愛していないとサークルなど作れません。かと言って、底に参加しているサークルの人たちは大学教授のように学術的でもない。権威的な研究などしていません。
陶磁器の鑑定は釉薬、土、造形を見て判断するのですが、本に掲載されている陶磁器は高台の部分が掲載されていないので産地が確定できません。それで混乱が増す。
高台を載せてくれると良いのですが。それでも今まで知らなかった商品の産地が確定できた時は楽しいので不明な窯の作品を買うことが止められません。
一般の人は古美術商は何でも鑑定できるように考えますが、専門の分野も違います。現在、私が産地鑑定をできるのは全体の3割程度。難しいですね。
最近、仙遊洞のネット通販で国焼(民芸陶磁器)を購入される方が増えました。国焼きの面白さは地方によって雰囲気が違うところです。日本酒や焼酎も地域によって水や材料が違う。国焼も味わいが違うことが面白いですね。変な比喩かもしれませんが、日本酒に甘口、辛口があるように国焼にも甘口、辛口があり、かつてビールはキリンビールといった一極化の時代は終わりました。キリンビールが伊万里焼ならば、国焼は地ビールですね。
私は酒好きですが国焼の徳利や杯を使って飲むと味わいが増します。新潟の熱燗に新潟の、鹿児島の焼酎に鹿児島の酒器を使うと楽しい。その地方の肴があるとなお良い。
カープから映画監督、郷土料理と古民芸を結び付けて話すのが、この骨董講座の特徴です。このような講座は、根拠(エビデンス)ばかりを求める大学などでは絶対できません。巨人や巨匠のいなくなった現在、骨董ファンも自分の趣味をもう一度、見つめなおす時期に来ているのかもしれません。

         

(4) 各地方の国焼

各地方の国焼のお話をします。まず東北。東北の国焼の特徴は釉薬にあります。主な釉薬は藁灰釉(海鼠釉)と灰釉。意匠はかけ流しが多く、作品自体、シンプルで素朴な感じがします。徳利は口に特徴があり、台形。磁器を作った東北の主な窯は宮城県の切込焼、岩手県の山陰焼、福島県の会津本郷焼。中でも切込焼は磁器なのに素朴な味わいがあり人気があります。切米焼の独特の絵付けが魅力なのでしょう。福島県の大堀相馬焼は関東地方に近いので作品も多様です。2011年に東北大震災があって相馬焼の産地が避難区域にされてしまい窯が廃止されました。残念です。
関東地方・甲信越の国焼にも多様性があります。主な産地は益子焼や笠間焼。両地域で使われる釉薬は緑釉、藁灰釉、褐色・黒釉。益子は浜田庄司が住んでいたので民芸の聖地となりました。千葉県の成田には成田焼という磁器窯があります。不思議なのは神奈川県には有名な窯がないことです。瀬戸が近いので雑器を搬入したのでしょう。埼玉県飯能に飯能焼という焼物があるのですが、私は関東に30年以上住んでいても取り扱ったことがありません。出会っても気づいていないのかもしれませんね。
甲信越の焼物には長野県の松代焼、高遠焼などがあります。平出市にある信斎焼は元相撲取りの奥田信斎が作った個人名前の付いた焼物。長野県の窯も海鼠釉を多用しますが、美しい発色をしています。風土が似ているので東北の作品と似ていますが、一味違う雰囲気がある。青森と長野のリンゴの違いと言ったところでしょうか。
中部地方には日本を代表する瀬戸焼、美濃焼、常滑焼、北陸地方には九谷焼があります。九谷焼、瀬戸焼などの周辺にはたくさんの脇窯があり、中央日本の陶器需要を補いました。1980年代にはは瀬戸焼の石皿、絵皿、馬の目皿、越前のお歯黒壺などが古民芸ブームを支えました。しかし、瀬戸焼の作品は数が大量に残っているので、ステレオタイプに感じられ人気も下がってしまいました。瀬戸焼の石皿には後絵の偽物が多いので購入する時は気を付けてください。北陸では小杉焼、越中瀬戸焼などの作品が人気があります。
信楽焼、丹波焼のある近畿地方は中部・北陸地方同様、陶器生産の中心地です。16世紀後半、茶道が確立されると京都やその周辺で茶陶が作られるようになり、特に京都は茶の文化を中心に陶磁器を生産しました。信楽、丹波などでは江戸時代後期から明治時代にかけて日常雑器を作るようになり、意匠を凝らした丹波焼の作品は1980年代の古民芸ブームを支えました。
中国・四国地方には備前焼、萩焼、不志名焼などの茶陶生産地、砥部焼などの磁器窯があり、その他の地域でも多くの日常雑器が作られました。砥部焼は伊万里焼に似た染付を作っていますが、中にはくらわんかのような素朴絵付けをした徳利もあります。面白いのは茶道が盛んな出雲焼の「ぼてぼて茶碗。茶陶なのですが、古民芸品のジャンルに入れられて人気があります。茶陶のくらわんか版といったところでしょうか。
九州は日本の磁器窯を代表する有田、伊万里焼と茶陶を作った唐津焼、高取、小代、八代、薩摩焼などがあります。陶器の窯は江戸時代に入ると日常雑器も生産するようになり、古民芸ブームを支えました。有田の近くに波佐見焼で生産された日常雑器「くらわんか」は伊万里焼の染付のように緻密ではありませんが、逆に素朴さが受けています。
最近、若い人の間で大分の小鹿田焼焼、沖縄の壺屋焼が流行しています。団塊の世代は伊万里焼ばかり買っていましたが、その下の世代は素朴な国焼、民芸品に心惹かれるようです。
このような日本には各地に個性的な窯があり、様々な種類の日常雑器を生産しました。このように多様な作品を生産した国は他にはありません。日本人が木や土と言った自然の素材を大切にしていたから多様な作品を生むことができたのでしょう。国焼の作品を見ていると、「模倣ばかりする日本人」が間違った認識だということがわかります。昔から日本人は多様性を持って陶磁器を生産していました。
日本にはマス・メディアに取り上げられていない面白い古民芸品がたくさんあります。古民芸品を取り入れると生活に彩が添えられるで、一度、使ってみてください。

         

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