【1】 茶とはチャノキの葉や茎を加工して作る飲み物で、酸化発酵させた紅茶とさせない緑茶がある。茶のもとの字は「荼」で、草の苦さニガナを意味する。茶の原産地は中国・雲南で四川、雲南の人が茶を飲み始めた。
【2】 漢代の「神農本草経」果菜部上品に「苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老」という記述がある。これを読むと2千年前、人々が緒を薬として服用していたことがわかる。
【3】 茶の字が使用されるようになったのは唐代、陸羽(?~804年)が「茶経」を著わして以後。「茶経」には茶の飲み方として、觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餠茶(へいちゃ)がある。觕茶はくず茶、散茶は葉茶をいうとされ、餅茶は乾燥した茶葉を圧搾して固形にしたもの。末茶(抹茶)は餠茶を搗いて粉にしたもので、7世紀にはこの末茶が主流であった
【4】 宋代(960年-1127年)になると、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研った粉を飲むようになった。これが現在、日本の茶道で取り入れられている抹茶。この時代、茶は中国の主要輸出品となり、アジア各地に輸出された。
【5】 日本に茶が初めて輸入されたのは奈良時代だが、当時、日本人がどのような方法で茶を飲んでいたかは解明されていない。鎌倉時代、臨済宗の開祖・栄西禅師(1141年~1215年)が日本での茶の栽培を復活させ、「喫茶養生記」を表して茶の普及に努めた。禅師は「喫茶養生記」の中で、「茶は養生の仙薬」と書かれている。
【6】 南浦紹明(1235年~1309年)によって中国の茶道具が輸入されて日本で茶道が始まる。茶道は禅宗の行事の一部として広まり、千利休によって大成された。
【7】 当初、茶道は武士などが行っていたが、江戸時代に入ると庶民にも広がった。黄檗宗によって日本にもたらされた煎茶が流行、抹茶とは違う茶道が一世を風靡した。明治時代に入ると「茶の湯」は「茶道」と改称され、戦後は女性の礼儀作法の嗜みとみなされるようになった。
【8】 世界で主に栽培されているはチャノキとその変種であるアッサムチャで、低木、寒さに強い、カテキン含有量が少ないチャノキは緑茶、大木、熱帯に生息、カテキン含有量が多いアッサムチャは紅茶用として使用される。茶に含まれるカテキンは血圧上昇抑制、血中コレステロール調節、血糖値調節、抗酸化作用、抗がん、抗菌など、多くの分野で生理活用されている。新芽には多くのカフェイン、カテキン、アミノ酸が含まれているので摘採時期が重要となる。日本の茶摘みの時期は5月上旬~6月(八十八夜の頃)で、そのころ摘まれたお茶が「新茶」と呼ばれる。
【9】 ヨーロッパに紹介されたのは、1609年、オランダ人が平戸に商館を設け、日本の茶がジャワ経由でヨーロッパに輸出された時。そのため、ヨーロッパで最初に飲まれたのは日本の緑茶であった。茶は薬屋で取引される高価なもので、聖職者が眠気覚ましの薬に用いた。18世紀になるとヨーロッパ人は紅茶を飲むようになった。半発酵茶である烏龍茶は、福建北部の武夷山で始まり、福建南部の安渓で生産された。安渓で産する烏龍茶の代表が鉄観音である。茶の輸入によって貿易超過に落ちいったイギリス商人はアヘンを中国人に売って貿易収支の均衡化を図った。その時、起きたのがアヘン戦争である。イギリス商人は中国からの輸入を減らすために、インドで茶の生産を行う。それ以後、インド、スリランカが茶の一大栽培地となる。
【10】 インド、タイ、中央アジア、イラン、ロシア語でも茶はチャ、チャイと発音されるので、茶が中国から世界に伝播したことがわかる。17世紀、ヨーロッパに茶を持ち込んだのはオランダ人で、ティーは中国南部・閩南語(ビンナンゴ)。
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