このページは2019年2月5日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第55回 アンコール講座③「伊万里の歴史」
(1) 伊万里焼の誕生

アンコール講座の第2回目は「伊万里焼」です。この講座は2014年11月の2回目にやった講座ですが、あの頃、講座に参加していた人はほとんどいません。時日の立つのは早いものです。
焼き物には陶器、炻器と磁器があります。陶器は1000度以下、炻器、磁器は1300度以上で焼成されます。英語で磁器のことをポーセリン、あるいはチャイナと言います。磁器がチャイナと呼ばれるのは中国人が磁器を発明したからで、中国では磁器を瓷器と記述します。ちなみに漆器は英語でジャパン。磁器をチャイナ、漆器をジャパンというのは、両国の特徴を表しています。
古代から中国人は陶磁器を、日本人は漆器や木工品を食器として使用しました。平安時代になると奥州藤原氏や平家などは中国製の陶磁器を輸入して使っています。しかし、庶民が使う食器はほとんどが木工品。遺跡を掘るとたくさんの縄文、弥生土器が出てくるので、古代の日本人は陶器の食器を使用していたと考えがちですが、それは祭祀用の器で、日常では木工品が食器の主流でした。木工品は地中で風化するので、発掘されることは稀です。さかのぼると、鎌倉時代の漆器の出土例があるくらいです。
日本人が陶器の食器を使用するようになったのは室町時代後期、ポルトガルの商人や宣教師が日本に渡来するようになってからです。1453年の鉄砲伝来、49年のキリスト教伝来は有名な出来事です。南蛮人が中国の陶磁器を商品として日本に運んで来たことによって、日本人は陶磁器の食器を使うようになりました。
室町時代、八代将軍・足利義政が集めた東山御物というお宝があります。ほとんどが中国製品で、その中の多くは唐物と呼ばれる茶碗や茶入れでした。当時の日本人にとって中国陶磁器は宝物。南蛮人も本国で使用する食器は木工品です。南蛮人が明に来て、現地の人々が磁器を使用しているのを見て、「これは商品になる」と思った。彼らにとって磁器は憧れの的だったのです。南蛮人の読みは当たり、彼らが運んできた中国製の陶磁器は日本国内で高値で取引されました。当時、日本人は磁器を生産することができなかったので、南蛮人は中継貿易で成功を収めます。
歴史の教科書にはキリスト教と鉄砲についての項目はあるのですが、磁器についての話は書かれていません。
当時の南蛮人や日本人は中国製の陶磁器に夢中になった。その価値観を覆したのが侘び茶を完成させた千利休です。和風文化のブランド化を最初に始めたのが織田信長ですが、信長は天下を取る前に死んでしまいます。跡を継いだ秀吉と利休は、信長の遺志をついで和製食器のブランド化に着手します。それが和風茶道の始まりです。
歴史書などで秀吉は和風茶道のパトロンにように書かれていますが、秀吉の本心は唐物好き、ブランド好きです。侘茶など眼中になかった。秀吉は知ったかぶりで利休の言うことを聞いていたのです。それは唐物好きの秀吉が李朝好きの利休に切腹を命じたことで推測できます。 秀吉は最後まで侘び茶が好きになれなかった。金の茶室にある金の天目茶碗は唐様です。 ワイン好きの人に日本酒の良さを語っても理解できないように、二人の好みはまったく違います。骨董の世界でいうと鍋島焼のファンに民芸品を勧めるようなものです。
極論をいえば、唐物をブランド化するか、李朝の陶磁器をブランド化するかで対立したのです。漢流か韓流か、現在でいうと、どこの先端テクノロジーを使用するのか迷うことに似ています。
結局、唐物を選んだ秀吉は利休を切腹させた後、明に軍隊を派遣します。秀吉は明に直接、貿易をすることを提案したのですが、明が無視した。それで怒った秀吉は文禄、慶長と二度にわたって明を攻めます。日本軍が朝鮮に攻め入ったというのは間違いで、朝鮮は明に向かう中間地点に過ぎません。そこで李氏朝鮮の頑強な抵抗に遭った。日本軍は明を攻めるどころではなく、李氏朝鮮と戦うことになり、その結果、戦争は長引き、秀吉は戦争の途中で死んでしまいます。
あのまま日本軍が明を占領していたら、日本の陶磁器も大きく変わっていたはずです。多分、唐津焼よりも先に伊万里焼の生産が始まっていたでしょう。また、明が清に滅ぼされずに続いていたら、日本の磁器生産はもっと遅れていたと推測できます。文禄・慶長の役は東アジア全体に大きな影響を及ぼし、明から亡命して来た中国人陶工たちの手によって伊万里焼の本格的な生産が始まります。

         

(2) 伊万里焼の誕生と展開

多くの陶磁器研究家は日本の磁器生産を朝鮮人陶工が始めたと考えています。もちろん、渡来した陶工の何人かが磁器を日本で生産したことは事実です。しかし、それは少量で日本の磁器史に影響を及ぼすほどではない。むしろ、彼らが影響を及ぼしたのは和製の茶陶で、そのほとんどは李朝の陶工によって作られたといっても過言ではありません。
それでは伊万里焼を出現させたのは誰か? 答えはオランダ人商人、東インド会社の人々です。彼らは危機に瀕した明から陶工を日本に密航させ、有田地方で伊万里の製造を始めさせます。彼らが伊万里製造を有田で行わせた理由は二つあります。1つは中国人が多く上陸することのできる長崎が近かったこと、もう1つはその周辺に磁器用の土があったからです。
オランダ人商人は明の復興運動をしていた鄭成功に資金援助の代わりに技術者を九州に渡来させたと推測できます。渡来した中国人陶工たちは有田周辺に匿われ、伊万里焼の生産に携わるようになり、1640年代、有田周辺で色絵、青手九谷の量産が始まります。中国人陶工はそれまで唐津焼を作っていた李朝の陶工や日本人技術者を組織化して磁器を生産させたのでしょう。
伊万里焼の中に「青手九谷」という焼き物がありますが、突然、出現して短期間で消える。理由は日本に渡来した中国人陶工が本国に帰国したでしょう。
中国人陶工が去った後、日本人陶工は帰化した朝鮮人陶工とともに色絵の生産を始めます。それが柿右衛門様式の有田焼です。
現在、韓国人は日本に陶磁器技術を教えたのは李氏朝鮮人だと考えていますが、李朝には青手九谷も色絵磁器も存在しません。存在しない技術を日本人に教えたというのは大いなる誤解です。李朝の陶工が指導したのは白磁や茶陶器だったはず。
明が滅亡するとオランダ商人・東インド会社の指導によって、日本で磁器生産が始まります。オランダ人商人が目論んだ商品開発は成功し、彼らは伊万里焼をヨーロッパに輸出することによって莫大な利益を上げました。
当時のヨーロッパ人にとって磁器は憧れの的でした。ベルリンの南方100キロのドレスデンにあるツィンガー宮殿に行くと、彼らが日本製の磁器をいかに大切に扱っていたかがわかります。ドイツのマイセン窯で磁器の焼成する1709年まで、日本の色絵、柿右衛門はヨーロッパを席巻します。参考写真を見ると、マイセン窯が柿右衛門様式を忠実に写していることがわかります。マイセン窯の成功、清の安定化によって、日本の磁器のヨーロッパへの輸出は激減。日本に代わって清がヨーロッパへの磁器の輸出を始めます。
当時の状況をみると、現在の日本に似ています。元禄時代がバブル時代、現在は享保の改革の時代で、日本は内需拡大の時代に入りました。
磁器輸出の減少によって、伊万里焼は存亡の危機を迎えます。彼らはオランダ商人に頼ること止め、国内に販路を求めました。その手助けをしたのが近江商人です。
伊万里の模様に名所は3か所しか描かれていません。1つは富士山、1つは二見が浦(伊勢)、そして最も伊万里に描かれた地域が近江(近江八景)です。なぜ、近江が伊万里焼に描かれたか? 答えは簡単、近江商人が中心となって伊万里焼の受注を営業して回ったからです。近江、伊勢、富士山を結ぶルートは近江、松坂商人が握っていたのでしょう。近江商人の西武、伊勢商人の三越などが、その代表です。
伊万里焼の販路拡大で見逃してはならないのが、北樽廻船の運輸が発達です。大阪、瀬戸内海、日本海、蝦夷を結ぶ北方海路は、日本の流通の幹線路として重要な役割を果たしました。樽廻船は蝦夷から大阪に海産物を、大阪から蝦夷に米を運びました。大阪が天下の台所を言われるのは樽廻船の拠点だったからです。
伊万里焼の流通も北樽廻船のルートにそって展開しています。ですから、現在でも小浜や酒田などの港町には多くの伊万里焼が残っています。長野県周辺や太平洋岸の東北地方には伊万里焼きでは見当たりません。
18世紀に入ると伊万里焼は外国から国内に市場を移します。内需拡大を意識した享保の改革によって、伊万里焼の生産量、販路は大きく拡大します。その結果、各地の商人や庄屋も伊万里焼を使用するようになりました。

           

(3) 江戸の食生活と伊万里焼

20年前、骨董に興味を持った私は母の実家にある蔵に入って、骨董品漁りをしました。ほとんどの古物は祖父によって売り払われていたのですが、傷ついたそば猪口が数個、蔵の中に残っていました。18世紀後期の伊万里焼で、その時、私は伊万里焼が土地持ちの農民も使用したことを突き止めました。ちなみに私の母の実家は貫地谷と言います。女優の貫地谷しほりは私のはとこにあたります。仙遊洞ともども、しほりちゃんを応援してあげてください。余談でした。
18世紀、伊万里焼は北前船と共に発展します。内需拡大型の享保の改革は日本経済の流通を変え、経済の中心が大阪から江戸に移りました。上方ですね。
この時期、日本人の食生活に大きな変化が起こりました。そのきっかけとなったのが濃口醤油の発明、流行です。関東の醤油は伊万里焼の誕生と同じころに始まり、廻船の発展に伴って流通が盛んになります。その影響で江戸の庶民がうなぎの蒲焼、二八そば、天ぷらを食べるようになりました。
江戸と京都の料理の違いは水の影響があります。江戸は硬水なのでカツオだし、関西は軟水なので昆布だしを使用します。
毎月、大阪から常連のお客様が来られるのですが、うちに来る前にかならず、東京でそばか天ぷらを食べている。お客様の話だと寿司、うなぎは大阪でも食べられるが、そば、天ぷらは東京でしか本場の味は味わえないそうです。そば、天ぷらは濃口醤油の方が美味しい。薄口醤油は塩分が多いので、そばに合わない。それは個人の好みの違いだと言われるかも知れませんが、江戸時代の資料に上方の人が、江戸のそばとてんぷらを食べたがったという記録に残っています。
ちなみに鰻の蒲焼を土用に日に食べるように仕掛けたのは平賀源内です。この頃、甘口の醤油が関西で発明され、それが江戸でも流行しました。
寿司といえば江戸前ですが、それも醤油の消費拡大と大いに関連があります。
江戸は寿司、京都は野菜と言われますが、京都には海がないので新鮮な魚介類を食べることができません。それでおいしい野菜を作ることに情熱を注いだ。伊万里焼は新鮮な魚介類を盛るとおいしそうに見える食器で、揚げ物や煮物は合いません。先ほど、日本海の港町で伊万里焼が普及したことを話しましたが、それは港町には新鮮な魚介類があるからです。そこで獲れた魚を伊万里に盛ると美味しそうに見える。
あとで伊万里焼の模様について話しますが、タコ唐草文は日本人が魚介類を食べるようになって普及した模様です。
江戸時代における時代様式の話をしておきましょう。伊万里の様式を大まかに区別すると、次のように8つに区分することができます。
1、初期伊万里 日本で磁器の生産が始まる時代。
2、延宝・元禄様式 伊万里焼の和風化が完成、色絵磁器がヨーロッパに輸出された時代。
3、享保様式 販路が国内に移る時代。
4、宝暦様式 博物学の発展によって、模様が複雑、和風化する時代。唐草の流行。
5、寛政様式 清の影響を受け、中国趣味が流行する時代。煎茶、江戸前の流行。
6、文化文政様式 庶民文化の開花期。爛熟した模様の出現。
7、幕末の伊万里 江戸幕府の衰退によって伊万里焼が解放された時代。志田窯の出現。
8、文明開化 藩の解散によって、伊万里焼の陶工たちが自力で商品開発をする時代。文明開化柄の流行。

時々、お客様から「伊万里焼の時代判定はどのように行うのですか?」という質問をされます。私は「その時代に流行した様式を覚えると時代が判定できます」と答えます。
最近、ヤフオクなどで様式を完全に真似た伊万里焼写しが出回っています。本物そっくりで、骨董屋でも真贋の区別ができません。先輩が営んでいる伊万里専門店にも景徳鎮製の模倣品が置いてある。偽物でも好きならば良いですって?
それでは最近、世間をにぎわせているホテルのレストランの産地偽装と一緒。それがまかり通るのであれば、ホテルの産地偽装も許してあげなければなりません。景徳鎮産の伊万里焼写しを江戸時代だと言って売るのは詐欺ですね。最近は消費者も賢くなって、そのような商品には手を出しませんが、10年前はみんな、模倣品を本物だと信じて購入していた。あの頃はネット・オークションを無為に信じる変な時代でした。

         

(4) 伊万里焼の文様

現在の景徳鎮伊万里焼写しの氾濫から、2つのことが見えてきます。
1つは中国人も伊万里焼を認知したということです。中国人の古物商に伊万里焼を見せると、「これはすべて景徳鎮で作ったものだ、日本人が、このような綺麗な磁器を作れるわけがない」と言い張っていました。中国人は磁器に対するプライドがあるので、美しい磁器を見ると全部、中国製だと思っていたのです。今でも時々、伊万里焼は中国人が作ったと信じてている人もいますが……。
以前の話ですが、中国人は明時代末期の古染付の虫食い(日本人が注文して、わざと皿の縁に釉ハゲを作った茶陶用器)がある皿を見て、「中国人の恥」と言っていました。彼らにとっては完全無比、玉のような作品が最も貴い物だったのです。しかし、彼らが日本人の美意識を知るにつれて、古染付に対する評価も変わりました。釉ハゲのある古染付は当時の高級品で、安価な物ではないことに中国人が気づいた。それで現在、日本にいる中国人古物商が、しきりに古染付を買い戻しています。中国人がすしや和食を食べるようになって、日本の良さを認識したのですね。
他に産地偽装品の問題があります。偽物はルイ・ヴィトンやローレックスのようなブランド品だけではなく、伊万里焼でも大量に出回っています。伊万里もブランド化してきたのでしょう。それを日本人が買う。これは日本人のチェックの甘さを意味します。皮肉にも偽物を買うだけ日本人には金銭的な余裕があるということです。
伊万里焼だけではなく、唐津焼や古代瓦など、多くのジャンルで偽物が出回っています。それがインターネットの発達によって目につくようになった。偽物に関わりたくなければ、目の利く骨董屋さんとつき合うことが肝心です。
伊万里焼にはさまざまなジャンルがあり、豊かな美的世界が広がっています。中国にはタコ唐草、花唐草、微塵唐草文様は存在しません。それは中国人に刺身を食べる文化がないからです。日本人は新鮮なナマ物を盛るために唐草文を選んだ。
伊万里焼の絵付けは分業によって行われるのですが、微塵唐草など細かな絵付けは女性が行っていました。九谷の絵付けも女性が行ったのでしょう。微塵唐草などの繊細な絵付けは忍耐強い女性でなければできない仕事です。
伊万里焼には清潔感があります。それは女性がいる職場、伊万里焼きの絵付け場が清潔だったことを意味します。火を使う窯場には女性は入れないので、絵付け場が女性の活躍の場だったわけです。日本人は共同作業が得意で、それが伊万里焼の製作にも反映されています。伊万里焼は男女が共同で作っていた。生魚は新鮮でないと食べることはできませんから、清潔感のある伊万里焼が似合うのです。刺身をただの生ものだと考えるのは、料理を知らない人の考え方。刺身は技術のいる立派な料理です。焼いたり煮たりする方がよっぽど簡単だ。
儒教色の強い李氏朝鮮では陶工などの職人は社会的に低い身分でした。1番、偉い人は詩の創作ができる文人です。ですから李朝の作品には、女性の繊細な絵付けは見られません。
唐津焼に男性ファンが多いのは、唐津焼が男の世界の焼き物だからです。唐津の良さは野趣なので女性らしさは見受けられません。唐津焼や萩、高取、上野など茶道の窯を主導したのは李朝の陶工なので男性性が強い。
これまで日本人はマネやコピーのうまい民族だといわれてきましたが、それは大きな間違いです。例えばワインはどの国で作ることもできますが、日本酒は日本でしか作ることができない。なぜなら酒蔵に住んでいる麹菌がなければ日本酒は作れないからです。最近、外国人観光客が大量に日本に観光に来ますが、彼らは日本でオリジナリティのあるものに出合う。日本人はそれが当たり前だと思っているから、ありがたがらない。明日は節分ですが恵方巻の大量廃棄など、馬鹿な人種のやる事。もう少し、賢くなったほうが良いですね。
伊万里焼の良さは何かと聞かれれば、私は「日本人女性の肌のような瑞々しさ」と答えます。外国から帰国して伊万里焼を見ると、しっとりとした女性の肌に出合った気持ちになります。その時、私は伊万里焼と日本人女性を結びつけ、「美しい日本人女性に囲まれて幸せだな」と感じます。伊万里焼は適度な湿気のある日本の風土から生まれた瑞々しい焼き物です。日本人女性の肌が美しいように、伊万里焼の肌も美しい。
日本人女性が世界で一番、人気があるのを知っていますか?
外国の男性は、昔からそれに気づいています。
偽物を買っても寛容で、美しい女性に囲まれていても、それに気づかない日本人男性はどうなのでしょう。古民芸などの陶器は男性作家の個性で、伊万里焼は男女の参画する日本人独特の共同作業で制作されていると考えれば、日本文化の一面を見ることができると思います。最近は美味しい魚介類が外国から輸入され、安価になりました。それを買って伊万里焼の食器に盛るだけでも贅沢な気分が味わえるでしょう。伊万里焼の値段は以前に比べると安くなって購入しやすくなったので大いに活用してください。

           

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