20年前、骨董に興味を持った私は母の実家にある蔵に入って、骨董品漁りをしました。ほとんどの古物は祖父によって売り払われていたのですが、傷ついたそば猪口が数個、蔵の中に残っていました。18世紀後期の伊万里焼で、その時、私は伊万里焼が土地持ちの農民も使用したことを突き止めました。ちなみに私の母の実家は貫地谷と言います。女優の貫地谷しほりは私のはとこにあたります。仙遊洞ともども、しほりちゃんを応援してあげてください。余談でした。
18世紀、伊万里焼は北前船と共に発展します。内需拡大型の享保の改革は日本経済の流通を変え、経済の中心が大阪から江戸に移りました。上方ですね。
この時期、日本人の食生活に大きな変化が起こりました。そのきっかけとなったのが濃口醤油の発明、流行です。関東の醤油は伊万里焼の誕生と同じころに始まり、廻船の発展に伴って流通が盛んになります。その影響で江戸の庶民がうなぎの蒲焼、二八そば、天ぷらを食べるようになりました。
江戸と京都の料理の違いは水の影響があります。江戸は硬水なのでカツオだし、関西は軟水なので昆布だしを使用します。
毎月、大阪から常連のお客様が来られるのですが、うちに来る前にかならず、東京でそばか天ぷらを食べている。お客様の話だと寿司、うなぎは大阪でも食べられるが、そば、天ぷらは東京でしか本場の味は味わえないそうです。そば、天ぷらは濃口醤油の方が美味しい。薄口醤油は塩分が多いので、そばに合わない。それは個人の好みの違いだと言われるかも知れませんが、江戸時代の資料に上方の人が、江戸のそばとてんぷらを食べたがったという記録に残っています。
ちなみに鰻の蒲焼を土用に日に食べるように仕掛けたのは平賀源内です。この頃、甘口の醤油が関西で発明され、それが江戸でも流行しました。
寿司といえば江戸前ですが、それも醤油の消費拡大と大いに関連があります。
江戸は寿司、京都は野菜と言われますが、京都には海がないので新鮮な魚介類を食べることができません。それでおいしい野菜を作ることに情熱を注いだ。伊万里焼は新鮮な魚介類を盛るとおいしそうに見える食器で、揚げ物や煮物は合いません。先ほど、日本海の港町で伊万里焼が普及したことを話しましたが、それは港町には新鮮な魚介類があるからです。そこで獲れた魚を伊万里に盛ると美味しそうに見える。
あとで伊万里焼の模様について話しますが、タコ唐草文は日本人が魚介類を食べるようになって普及した模様です。
江戸時代における時代様式の話をしておきましょう。伊万里の様式を大まかに区別すると、次のように8つに区分することができます。
1、初期伊万里 日本で磁器の生産が始まる時代。
2、延宝・元禄様式 伊万里焼の和風化が完成、色絵磁器がヨーロッパに輸出された時代。
3、享保様式 販路が国内に移る時代。
4、宝暦様式 博物学の発展によって、模様が複雑、和風化する時代。唐草の流行。
5、寛政様式 清の影響を受け、中国趣味が流行する時代。煎茶、江戸前の流行。
6、文化文政様式 庶民文化の開花期。爛熟した模様の出現。
7、幕末の伊万里 江戸幕府の衰退によって伊万里焼が解放された時代。志田窯の出現。
8、文明開化 藩の解散によって、伊万里焼の陶工たちが自力で商品開発をする時代。文明開化柄の流行。
時々、お客様から「伊万里焼の時代判定はどのように行うのですか?」という質問をされます。私は「その時代に流行した様式を覚えると時代が判定できます」と答えます。
最近、ヤフオクなどで様式を完全に真似た伊万里焼写しが出回っています。本物そっくりで、骨董屋でも真贋の区別ができません。先輩が営んでいる伊万里専門店にも景徳鎮製の模倣品が置いてある。偽物でも好きならば良いですって?
それでは最近、世間をにぎわせているホテルのレストランの産地偽装と一緒。それがまかり通るのであれば、ホテルの産地偽装も許してあげなければなりません。景徳鎮産の伊万里焼写しを江戸時代だと言って売るのは詐欺ですね。最近は消費者も賢くなって、そのような商品には手を出しませんが、10年前はみんな、模倣品を本物だと信じて購入していた。あの頃はネット・オークションを無為に信じる変な時代でした。
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