このページは2018年11月3日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第52回 キルトとパッチワーク、手仕事
(1) 布の日本史

明日、井荻会館でキルト作家の黒羽志寿子先生、てまり教室を主宰する安部梨花さん、奥菜穂さんが行うトークショー「キルト、てまり、現代美術」の司会を私がすることになりました。3人とも女性手芸家ですが、私自身は手芸、特に染織、衣装に興味がないので、この際、キルトや染織のことを勉強しようと思って、今回の骨董講座は「キルト、パッチワーク、ボロ」としました。専門家ではないので自分の体験を通して感じた染織、手芸論を展開しようと思います。
まず最初は「布」について話。日本でいう「布」とは多数の繊維を板状にしたものを指します。織物、編み物、レース、フェルトなどが一般的な布と認識されています。古代の日本で「布」は植物繊維で作られた物を指し、絹織物や毛織物は「布」と呼ばれていませんでした。
旧石器時代、日本列島に住む人たちは寒さから身を守るためにオオシカやマンモスなどの毛皮を剥いで衣服にしました。新石器時代になると、大型獣が姿を消したので中小型の獣の皮を使って衣服を作るようになります。約1万年前の栃原岩陰遺跡から骨で作った縫い針が出土しているので、この時代に縄文人が裁縫していたことは確かです。紀元前6000年頃、縄文海進がピークに達すると、日本列島は暖流の影響を受け植物の豊富な列島環境を形成します。青森県にある三内丸山遺跡からは繊維の遺物が出土しているので、紀元前2500年頃には列島に住む縄文人は獣の皮に変えて植物繊維を利用するようになったと考えられます。私は三内丸山人が栗の遺伝組み換えを行うようになった時代、同時に植物繊維を使用するようになったのではないかと考えています。この時代の衣服の主流は「編布(アンギン)」という絡み編み(もじり編み、すのこや俵と同じ)です。編布の材料となったのはイラクサ科(カラムシ、アカソ、イラクサ)の植物繊維。三内丸山遺跡に行くと博物館で編布のワークショップをやっているので興味のある方は参加してみてください。現在の新潟県妻有地方では、明治時代まで編布が作られていました。この地方にある博物館に行くと布編の現物を見ることができます。
縄文人は編布を使った衣服を着ていましたが、弥生時代に入ると朝鮮半島や大陸から織物が輸入されるようになります。中国の織物は紀元前2000年頃が起源とされています。これは縄文人が編布を作り始めた時期と重なります。東アジアでは紀元前2000年頃に自然環境が変化して文化が変容したのでしょう。
「魏志倭人伝」に「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している」という記述があります。これが日本で一番古い織物の記述でしょう。次に布の記述が登場するのは「日本書紀」。4世紀前後、応神天皇の時代、中国やインドから呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)の2人の織姫がやってくる話です。呉織は呉服、漢織は穴織、「はとり」というのは機織り(はたおり)のことです。5世紀の雄略天皇の時代には養蚕や織姫の話があるので、5世紀には日本で機織りが盛んに行われるようになったと考えればよいでしょう。池田市には呉織神社、漢織神社の他、多くの染色にまつわる地名が残されています。このことからこの地方が渡来系の秦氏の根拠地であったことがわかります。奈良時代に入ると政府は国民に「租庸調」などの税を課します。この中で「調」というのが、「布」による税です。時代によって調の納税額は変わります。主な材料は麻、苧、葛などの絹以外の繊維製品を指していました。東京都にある調布市などは調布と関係のある地名です。
ちなみに絹の着物などは高貴な人しか着ることができず、庶民は麻などの服を着ていました。横浜市麻生区の麻生は麻が映えていた土地の名残です。
日本人が綿製品を栽培、加工を始めたのは安土桃山時代です。この時代、日本は大航海時代の影響を受け、インドや南蛮貿易を通じて世界とつながりました。日本は金や銀を輸出、綿や呉須を輸入しました。この時代から日本人は現在の緑ではなく、紺色を青と認識するようになります。江戸時代に入ると幕府が綿の栽培を奨励したので栽培が急速に広がり、都会で木綿問屋も結成され、地方では綿を染める材料の藍や綿栽培に欠かせない肥料の煮干しや鰊粕などの関連産業も盛んになりました。
18世後半、イギリスで産業革命が起こるとその影響は世界に広がり、日本も近代化の波に飲み込まれていきます。

         

(2) 糸、染織の日本史

「布」は自然界から採取した材料で糸を作り、加工したものです。 自然界から得られる繊維には麻、綿などの植物性繊維とウールなどの動物繊維、蚕などの虫を利用した絹のような繊維があります。 ウールや麻のように短い繊維はまとめて捩じり、長い糸にします。また、絹のような長い糸は複数を捩り撚り合わせることによって強度を増します。 生産された糸を自然界の染料を使ってそめることを「染織」と呼びますが、染織と染色を分ける基準は、①まったく染めない、②糸を染めてから織る(先染め)、③布地を織ってから染める(後染め)です。②では色糸の配置を計算して織り上げることで、様々な模様を織り出すことができます(錦、絣、西陣織、博多織など)。縞や格子模様も、先染めによって実現されます。後染めは、染めていない糸で織り上げた織物(白生地)を、染料に浸けたり、型紙や筆などを用いて捺染する(更紗、友禅染など)方法。江戸初期頃までは着物は公家や武家の上流階級しか着用できませんでした。中期頃から「ひいながた」(雛型)と呼ばれる、今のデザイン・カタログにあたるものが作られ、富裕な商人・町人層にも着物は広がります。延宝元年(1673年)、日本橋の越後屋が「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」、「小裂何程にても売ります(切り売り)」などの商法で従来の呉服業界の常識をうち破り大成功を収めた話は有名ですね。また、現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現したのも越後屋です。
1800年頃、各藩が財政対策として綿栽培を奨励し、久留米絣、伊予絣弓浜絣などの名産品が作られるようになります。
明治時代になると政府の政策で綿布の生産が強化され、1930年代には綿布の輸出量が世界一になります。同時に絹製品も生産されるようになります。 世界遺産の富岡製糸場などは近代の遺産、世界遺産です。
骨董市などに行くとこの時代の先染めと後染めの絣布をたくさん見つけることができます。先染めの絣は江戸時代後期、後染めの絣は明治時代以降の作品です。 江戸時代の絣の模様は和風な素朴、明治時代の絣の模様はどこか西洋風になります。以前、一度、はさみの柄の絣を扱ったことがあります。 陶磁器の模様と同様、絣にも文明開化物があったのですね。
明治時代から1960年代まで、絣は普段着として大いに使用されました。 第二次世界大戦中、政府は女性の着物着用を禁止したのでモンペファッションが流行しました。 戦後、日本は綿の輸出量はで再び世界一となりますが、その後は安いアジア産の綿に押され、日本人の洋装化が進んで和服自体、着る機会が少なくなったので、生産量も激減、一部の愛好家の間で使用される着物となりました。
私たちが着ているジーパン、コットンシャツ、靴下、下着、Тシャツなど、ほとんどは綿製品です。現在、日本で使用される綿製品はほとんどが外国産です。
1970年代、高速道路や交通機関、テレビなどのインフラ整備が進み、近代的な経済成長が始まり、地方の近代化が始まります。この時期から日本の綿製品は激減します。 急激な近代化で日本人は和風感を失っていきますが、その反動で青山に「古民芸もりた」産などが登場し、新たな民芸運動が起こります。 その主役が藍を使った伊万里焼や絣でした。洋風化が進んだ1980年代になると絣で作った洋服や着物を着て青山など最先端なファッションタウンを歩く人が出現します。山本寛斎などは浮世絵や絣柄などの和風デザインに影響を受けたデザイナーと言えるでしょう。一方、繊維素材にこだわったデザイナーに三宅一生がいます。2人とも昭和時代後期のファッション界を牽引したデザイナーです。この時代、骨董市には地方からたくさんの絣は都会に運び込まれ、伊万里焼同様、新しい骨董の商品としてもてはやされました。
骨董の業者一に行くと、かならず絣布を持って地方の業者がいて、それをオークションしていたことを思い出します。
ちなみに明日、井荻会館でトークショーに出演する黒羽志寿子先生は絣を材料にしてキルト作品を作っています。 先生が絣でキルト作品を作るようになったのは1970年代後半、日本の洋装化が始まった時期と一致します。

         

(3) キルト、パッチワーク、てまり作りの世界

キルトは表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で刺し縫い(キルティング)した物です。 日本では他色の布を縫い合わせたパッチワークキルトが主流となっています。
キルトはヨーロッパの寒冷地で、保温のために布地に綿を挟んだことによって始まったと言われています。 その後、清教徒によってアメリカに伝播、物質的に貧しかったアメリカ人はキルトを実用品としました。 アメリカ独立戦争後、暮らしに余裕が出るとアメリカ人はキルトに装飾性を施すようになります。それがアメリカンキルトです。 1850年頃、「キルティング・ビー」と呼ばれる多人数で1枚のキルトを製作する会が催されるようになり、会は女性の社交場となりました。
1900年代になるとキルトは一時的に衰退しますが、1970年代,キルト研究家のジョナサン・ホルスタインが、昔のキルトコレクションを公開すると、キルトはアートとして認識されるようになり前世界に広まっていきました。 アメリカにはボルチモアキルト、アーミッシュキルト、ハワイアンキルトなど、地方色、宗教色豊かなキルトがあります。 パッチワークキルトの他、明るく大らかな主題がデザインのアップリケキルト(ハワイアンキルト)などがあります。
日本には「ボロ」と呼ばれるパッチワークの衣服があります。その多くは農村の人によって作られた実用品です。それが現在、アートとして外国人の間で流行しています。 特にニューヨークやボストンなど都会の人が「ボロ」に注目、日本人は「何で、このような汚いボロ着がアートなの?」と疑問に思うでしょうが、違った視点から見るとそれはアートとなるようです。 質の良いボロは1着30万くらいするのですから何に価値がつけるか、人それぞれですね。
現在、日本でキルトといえば和の素材を使った「ジャパニーズキルト」が主流です。その第1人者が明日、トークをする黒羽先生。最初は店のお客様。 20年来の付き合いです。最近、黒羽先生が英語とフランス語の「黒羽志寿子のキルト」を出版しました。外国人が日本のキルトに注目するは新しい傾向です。
1975年、資生堂ギャラリーのキルト展で、ジョナサン・ホルスタインのコレクションが公開されました。その時期から日本でもキルターが増え始めたと言われています。 現在、キルトは実用品からアート作品に変化しています。多くの人が趣味でキルト作品を作り各地のギャラリーで展覧会を行います。 毎年1月、東京ドームで「東京キルトフェスティバル」が開催されます。2019年で18回目。毎年、入場者数も増え、日本でもキルトアートは定着したようです。

キルトは布をパッチワークして作品化する手芸で既製品の布が主な材料ですが、一方のテマリシャスさんは自分で糸を始めるところから作品作りが始まる。 日本におけるてまりの起源は16世紀にあると言われています。てまりの発展も綿製品が流行し始めた時期と一緒なので、意外と外来文化の影響を受けているのかもしれません。
てまり遊びの基本は「ついて跳ねさせて遊ぶ」ですが、明治時代になるまでてまりはあまり跳ねないので子供たちは苦労したそうです。 20世紀初頭、ゴムまりが登場すると弾力性も増して一般化します。童謡のてまりの歌が流行するのはゴムまりが流行した明治時代後期。 近年では、てまりは遊具としてではなく装飾品として愛好されています。美しいてまりをつくる事を目的とする。 キルトもてまりも実用品から装飾品、アート作品に変身しています。 日本人は手先が器用だと言われますが、パッチワークやてまり教室が流行しているのも日本的な特徴かもしれません。 キルトは世界的なアートですが、てまりが世界的なアートになるかどうかはテマリシャスさんの活躍いかんですね(笑)。


(4) 失われつつある手仕事

20世紀に入るとレーヨン(1885年)、テトロン(ポリエステル系)、ナイロン(1938年、ポリアミド系)、ビニロン(1950年、クラレ)などの化学繊維が実用化されました。 レーヨンは絹に似せて作った人工繊維で、石油を原料としたポリエステルなどと違って加工処理した後、埋めると土に還ります。
第二次世界大戦後は化学繊維と自然繊維の価格競争が始まり、輸送手段が発達すると発展途上国からの自然繊維の活用の方が割安なため、世界的に衣服や布は自然繊維を使用するようになりました。
ところで、先日、NHKのクローズアップ現代で「日本国内で1年に廃棄される衣服の数が19億着(94万トン)であることは判明して問題になる」という番組を放映していました。 プラスチックごみや化学繊維の問題とは別に、これは商業的にも大きな問題です。
また、最近、NHKが「資本主義は転換期にある」という番組をしきりに放映しています。1980年代まで有効だった資本主義の構造は、IТやSNSが台頭してきた2000年以降、大きく変化した。 アメリカのGAFAはIТと先端機器を駆使して世界の文化まで変容させ、世界中の小学生がスマホをいじっています。SNSの発展やAIの登場によって人類の文化は大きく変わるかもしれません。 人々はSNSによる情報取得を優先し、印刷媒体による活字情報から遠ざかっています。GAFAの登場は商業、流通、経済にも影響を与え、これからますます影響力を増し、資本主義の構造自体を変えるでしょう。
先端技術の発展はAI、IТ、SNSだけではなく、各分野に及んでいます。日々、新しい感覚のアートが生まれ、それがオークションに掛けられて高値を呼ぶ。 先月、ロンドンのサザビーズでバンクシーの作品が勝手に動き出して話題になった。あれはイベント性だけに注目した事件です。
従来、我々はアーティストの手によって作られる作品をアートだと考えていました。現在は会社や企業に特注した作品、下請けの業者に頼んで製作された作品がアートになっており、それが日本各地で行われるビエンナーレ、トリエンナーレで展示されます。 現代美術は手仕事から離れる状況に陥り、公共性が増した。しかし、果たしてそれを個人の表現と呼べるかどうか疑問です。行政主導によるアート展は所詮、公共事業。農村にばらまく助成金と変わりない。
世界の社会構造が変容し、バーチャルや規模の大きな刺激が蔓延する中で「手仕事」の意味とは一体、何でしょう?
逆に言うと現代社会は人が考えたり、手を使って仕事をすることの意味が希薄になっているような感じがします。個性とか自己実現という言葉が蔓延していますが、どれもステレオタイプで意外と無個性。 衣料の世界でも同じで、ZARA、H&M、ユニクロが個人ブランドを凌駕しています。それから個人の行為より大多数が支持するイベントが目立っている。現在の日本人はアメリナイズされているので、SNS、IТ、АIを使用しなければ仕事ができないという妄想に取りつかれているようです。
私は骨董屋なので過去、人の手によって作られた物を扱っています。それも新しく作られた商品数(いずれ捨て去られる物なのですが)が上回り、徐々に購買者が縮小している。このままではGAFAと組んだ大企業が世界を画一化しそう。 それが資本主義に代わる新しいイデオロギーなのでしょうか。20世紀は民族独立の世紀でしたが、21世紀はグローバリズムの世紀、それが資本主義に代わるシステムなのか。将来、かつて民俗学という分野があって人々が興味を持っていたというようにならなければ良いと、民俗学好きの私は考えています。
明日、対談する黒羽先生やテマリシャスさんは手仕事をしている方たちです。彼らにファーストファッションや現在の日本の状況について聞いてみたいと思います。
人間はある時代にしか生きることはできません。過去や未来を想像したとしても、現状に則して生きることしかできない。 先端技術が発達し、社会状況が変化していることに対応しなければならないのですが、人類には普遍の美、普遍の真実があると考える古風なタイプの私は古美術品を扱いながら日々、それを探求しています。スマホを巧みに操る若者から見れば、私は中世の人のように見えるかもしれませんね(笑)。

         

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