このページは2018年7月7日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第50回 古美術と社会学シリーズ⑩ 「日本の宗教の変遷と古美術」
(1) 七夕と古代宗教

今日は七夕です。七夕は中国や韓国、日本など東アジア圏における節句の一つで、旧暦の7月7日の夜を指します。旧暦7月7日は日本で最も暑い時期で現在の8月から9月にあたり、祖先の霊を祀る祭も行われていました。しかし、明治の改歴以降、本来の意味(お盆のような)は失われてしまいました。
七夕と言えば、中国の「牽牛と織姫」の伝説が有名です。古代の中国人にとって星や星座は占いをするうえで重要なアイテムでした。牛は男性、農耕の象徴で織姫は女性、服飾の象徴。日本にその話が伝わったのは奈良時代です。奈良時代は日本で租庸調が制度化された時代で、米と絹が税として徴収されます。ちなみに関西で天の川の役目を果たしてたのは淀川です。下流に向かって右岸には放牧で有名な寝屋川市、左岸には落ち比売に関係する神社のある池田市があります。
淀川を渡って村人が交流することが、古代日本の異民族間における交流を発展させたのでしょう。
ウィキペディアなどによると、たなばたの語源は「日本書紀」に登場する乙登多奈婆多や「古事記」に登場する淤登多那婆多にあると書かれています。奈良時代、秦氏などは八幡信仰をしており、旗は朝廷の重要な祭祀を司る貴重品でした。その風習が一般にも広まり、祇園会が始まった平安時代に庶民は護符をつるすようになります。七夕の語源は護符を書いた短冊を棚につけたので、棚旗。それに当て字をして七夕となりました。
毎年7月、京都で祇園会、祇園祭が開かれます。旧暦では6月7日から14日、現在は7月17日から24日に開催されます。旧暦では祇園会は夏の始まりの行事、七夕は夏の終わりの行事と言った感じで行われました。平安時代の人は夏の真っ盛りに祖先の霊が自分たちに会いに来ると考えていたようです。
863(貞観5年)、神泉苑において御霊会がはじまり、それが八坂神社の祇園会の祭礼に発展します。祇園会は869年(貞観11年)に疫病封じのために始まったお祭りです。八坂神社の祭神スサノオノミコトが南海を旅をした時、蘇民将来がスサノオをもてなしたので、スサノオはその例に疫病封じの「蘇民将来子孫也」と記した護符を与えたので、祇園会ではその護符を付けて祭事を行います。
私見ではスサノオノミコトは辰砂王、水銀(丹)を司る王。古墳時代が始まると、各地の王族は不老不死を求めて水銀(辰砂)を石棺に敷き詰めて埋葬しました。日本(ニホン)の日は、元々は丹。先ほど、スサノオと蘇民将来の交友関係のことを話しましたが、蘇民将来は字から推測すると蘇我氏であることがわかります。蘇というのは馬や羊の父から作るチーズのような乳製品。現在でも奈良県明日香村に行けば食べることができます。蘇我氏は西アジアに住んでいるソグド人の子孫で、6世紀頃、大陸から日本に渡来してきました。それを仲介したのが秦氏です。
祇園会は古代豪族・秦氏が始めた祭事です。秦氏は桓武天皇に平安京遷都を進めた氏族です。彼らの京都での根拠地は太秦や嵯峨野で、平安時代の御所は秦河勝の屋敷跡に建てられたと言われています。太秦にある広隆寺に行くと、有名な半伽思唯像(弥勒菩薩)の横に秦河勝の木造が安置されています。京都に行って、この像を見たら、「この人が平安京の基礎を作った人だと思い出してください」。
広隆寺の横に大酒神社という社があります。ここの主祭神は秦始皇帝、弓月君、秦酒公。相殿神に兄媛命(呉服女)、弟媛命(漢織女)が祀られています。織女は乙姫様ですが、彦星は誰でしょう。正解は弓月君。弓月君は古代、中央アジアにあった大月氏の国の王族。月氏の立てた国は秦や漢王朝の北方に位置し、匈奴と共に大きな勢力を持っていました。月氏はクシャーン朝も立てていましが、クシャーンが日本に渡来すると、古代豪族の葛城氏、藤原氏になります。我々が想像していた以上に、古代世界の交流は活発だったのですね。で、なぜ、彦星は弓月君か。弓月は三日月ですが、それが牛の角を表しています。広隆寺にある弥勒菩薩の印も、牛の角を表している。弥勒菩薩は主に騎馬民族が崇拝した仏で、新羅での信仰が盛んだった。このことから新羅は騎馬民族であることがわかります。
これらのことから牽牛と織姫が1年に1度、出会うことができる七夕の起源が騎馬民族と漢民族が交流する日の名残りにある事が推測できます。牽牛が漢民族、織姫が騎馬民族と勘違いしていると、古代史の世界を分析することはできません。
古墳時代から平安時代にかけて、宗教は秦氏や蘇我氏がもたらした外来の宗教を中心に日本古来の土着の宗教が融合して展開しました。空海がもたらした密教などは、仏教とヒンドゥー教が混ざって成立した宗教ですが、日本にあった神仏習合の風習などは密教的な要素が大です。
ちなみに室町時代になると祇園会に山鉾が登場します。山鉾は聖書に登場する「ノアの箱舟」で、ペルシャ絨毯が使用されるのは古代の名残です。祇園祭は戦乱で一時、中断しましたが、1500年(明応9年)に復活、現在も続いています。
今回は骨董講座というよりは、宗教講座のようですが、寺院や博物館で仏教、神道美術を見る鑑賞の手引きとなると思うので御拝聴ください。

         

(2) 室町時代以降の宗教の変遷

東アジアの近世宗教が確立したには15世紀~17世紀です。中国では異民族の元が衰退、明(1368年~1644年)が成立すると、明では漢民族の宗教である儒教が主流となります。それに李氏朝鮮は追随する。中国と日本の宗教文化を見ると、一時代遅れで日本で広まることがわかります。世界遺産の日光東照宮(17世紀)は、紫禁城(1420年造営)を模倣している事は明白です。宗教も同様で、江戸幕府が儒教を国教としたのは明建国よりも約200年後です。徳川政権が明の政策を取り入れた時代、その本家である明が清に滅ぼされたのは皮肉。だから中国の文化が日本に残るような状況が生まれる。中国文化の研究者が日本に資料を求めてやってくるのはこのような事情があります。
この時代はヨーロッパの国々が海外に進出する大航海時代で、各国は始めて出会う新たな異民族や文明に警戒感を抱きます。スペインによってインカ帝国が滅ぼされたのは有名な話。アメリカ大陸にいたインディオも同様に抹殺されました。各国は外敵によって自国防衛の必要性に迫られ、外交よりも民族理念を再確認するようになります。
日本人が外敵を意識したのは13世紀末の元寇です。これによって日本人は日本人としての自覚を持つようになります。当時の日本人は神道に帰依、明から渡来した反元政権の僧たちの影響を受け、禅宗も活発になります。禅はもともと自然の中で行う修験道に近い宗教で、仏教と道教が混ざり合ってできた宗教。「神風」という言葉は神道から発生した言葉です。
室町時代、各地に自治権などを持った郷ができ、それが拡大して戦国大名、大寺院などを中心とした組織が出現します。織田信長が本願寺や比叡山、豊臣秀吉が根来寺と戦ったのは有名な話ですね。織田、豊臣の宗教政策の失敗を見た徳川政権は強大な権力を握ると諸宗教の権力を削減させる制度を打ち出し、1665年に諸宗寺院法度を完成させます。それ以降、日本人は寺院よりも神社の祭事や地域の祭などを中心に宗教活動に接するようになり、恵比寿・大黒様信仰が流行します。
江戸時代の宗教活動がどのようなものだったかは、伊万里焼の模様を見ると見当がつきます。仏教的な柄で使用されたのは蓮の花、瓔珞文くらいで、文様の多くは自然や幾何学。それらの模様を見ると日本人は宗教よりも自然信仰をしていたことがわかります。
鎌倉から安土桃山時代の武士の多くは禅宗を信仰していました。これは禅宗の作法が他の宗教に比べて簡素だったからです。座禅をすれば、貴族のように煩瑣な儀式をしなくても格好がつきます。茶道の同様で、ただ「結構でした」といっておけばよい。シンプルな作法が忙しい武士の心をとらえた。日本の陶磁器も茶道と共に発達し、現在も古美術の一翼を担っています。
徳川時代になると幕府は仏教を抑圧したので、江戸時代、良寛、白隠、円空など数人を除くと名僧が出ていません。かといって儒教の人物もいない。世界的に見て、日本で人物が出た領域は自然科学の分野。このことからも日本人が自然と共に生きてきた国民性を持っていることがわかります。
18世紀中頃、賀茂真淵や本居宣長によって神道や「古事記」の研究は始まり、頼山陽などが「大日本史」で皇室を敬う思想を展開します。19世紀初頭、黒船が開国を求めて日本近海に現れるようになると、日本人は元寇の時のように再び自分たちのアイデンティティを神道に求めるようになります。神道と言えば伊勢神宮、江戸時代、伊勢神宮に参る「お陰参り」が60年周期で大流行しました。庶民の間では神道が抑圧を開放してくれる神事だったのでしょう。
それが形を変えて社会現象になったのが明治維新後の廃仏稀釈です。平安時代以降、日本人が信仰してきた神仏習合の本地垂迹説を明治政府が分離させようと画策ました。その結果、一部の神職たちが暴れて寺院を襲った。明治時代の日本人は帝国主義の時代、他国との戦争の恐怖から神道信仰に傾斜していったと考えられます。それが終わったのは太平洋戦争の敗戦。この時、日本には「神風」は吹きませんでした。

           

(3) 巡礼の歴史

最近、寺社を廻って「御朱印」をもらうブームが起きています。日本人も外人も信仰とは別に観光地巡りの記念として「御朱印」をしてもらう。「御朱印」1つにつき300円程度、これが意外と寺社の収入になっている。お布施みたいなものですね。逆に観光客が来過ぎて御朱印をしない寺社もありますが……。 御朱印が生まれた起源は定かではありません。中世から近世にかけて御朱印は一種の身分証明、通行手形の役割を果たしたと考えるのが普通です。観光旅行が自由にできなかった江戸時代、伊勢参りや霊場参拝を理由とすれば、比較的容易に通行手形を得ることができたので、庶民はなるべく多くの寺社を廻って御朱印をもらっています。 御朱印の歴史は、巡礼の歴史と重なっています。日本人はヨーロッパに行くとスペインやフランスなどの聖地巡礼の遺跡を巡りますが、自分の国では寺社巡りを「聖地巡礼」とは考えていないようです。日本人の宗教は曖昧な点が多いので、どちらかというと史跡巡り、観光地巡りのように感じるのでしょう。逆に言うと、それが日本人の宗教観を表しているといえます。最近はネットなどで珍しい「御朱印」帖が売り買いされている。こうなると宗教というよりはビジネス、かつての切手収集のようです。 日本人が宗教的巡礼を行うようになったのは、平安時代の「熊野詣」が最初。花山院(968年~1008年)から始まり、その後、多くの院が熊野詣を行っています。熊野詣は多くの随行者を伴う物見遊山的な旅なので出費が重なって経費を捻出するのに苦労したという記録も残っています。ちなみに後鳥羽院は13回、後白河院は27回熊野に行っています。 花山院は「西国三十三(近畿と岐阜にある観音霊場)」を定めたとされる伝説を持つ院。「三十三」は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)に説かれている、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に求めて西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できる数字とされていました。平安時代、この世を謳歌していた公家や貴族にとっては極楽往生に行くことが人生最大の目的だったようです。 「西国三十巡礼」は当初、奈良県にある長谷寺が1番でした。12世紀後半になると後鳥羽院や後白河院の影響で熊野那智山が1番となり、それが15世紀になると固定化し、東国からも庶民が巡礼に訪れるようになります。 江戸時代には日本各地で「観音巡礼」が流行し、関東では坂東三十三箇所や秩父三十四箇所が設立され、「日本百観音」を巡る「巡礼講」が組まれるようになりました。各地方には人々から依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいて、巡礼講や三十三度行者の満願を供養した「満願供養塔」が現在でも各地方に残っています。 江戸時代の三十三所の巡礼を見ると、巡礼地の地位は確立されておらず、観音巡礼というよりは霊場巡礼と言った感じがします。当時は観音巡礼の他、四国八十八所、善行寺参り、七福神巡りやなどの巡礼も創設されました。 西国三十三所と共に有名なのが「四国八十八か所」を巡る巡礼です。この巡礼は「遍路」と呼ばれ、地元の人は巡礼者のことを「お遍路さん」と呼んでいます。 広島に住んでいた私の祖母は「お遍路さん」の格好をして度々、四国に行っていました。その時、私は若かったので祖母がどのような気持ちで巡礼の旅をしていたか理解できませんでしたが、歳を取ると、①旅によって日常生活から離れ気持ちをリフレッシュする ②家族や親族の安泰を願う ③年老いていく自分を見つめるなどの理由で、巡礼をしていたのだろうと推測できます。 このような行為を古美術の世界に置き換えると、陶磁器が好きな人であれば、日本各地の窯場巡礼ということになるのでしょうか。信仰の代表的な対象は「唐津焼」ですかね。 2015年、文化庁が「日本遺産」18件の1つに「四国遍路ー回遊型巡礼路と独自の巡礼文化」を認定ています。「日本遺産」は、どちらかというとマニアックな遺産群。従来に有名な観光地巡りではないマニアックな地域を遺産として認定するのを見ると。日本人の歴史観も大きく変化したようです。

           

(4) 近代の新興宗教

幕末から明治時代にかけて既成の宗教とは違う新宗教、あるいは新興宗教と呼ばれる新しい宗教が出現します。それらの宗教は明治時代以前の寺社を中心とした宗教とは一線を隔しています。新宗教は都市化、産業化、家族形態の変化、マスメディアの登場、交通の発達、学校教育の普及といった近代化の波の中で生まれました。20世紀に入ると産業の機械化が加速し、都市化が始まったことで、従来の農村文化と違う新宗教が庶民の間で求められるようになります。 戦前から続く教団に天理教、金光教、生長の家などがあります。出口ナオが作った大本教などは当時の政府と対立して大規模な弾圧を受けました。大本教の教祖だった出口王仁三郎は抹茶碗などの作陶をしていたのですが、彼の作品は初と共に現在でも高値がついています。その他にも教団を作った教祖の書は高値がつきます。 昭和初期、1930年(昭和5年)に創価学会、生長の家、1938年(昭和13年)に立正佼成会が創立され、戦後、大教団に成長しました。特に創価学会は公明党を持つ宗教団体として日本の政治にも大きな影響を及ぼす教団となっています。 新興宗教の教団の中には独自の美術館・博物館を持つ教団がたくさんあります。最も有名な新興宗教の美術館は、天理教の天理参考館、創価学会の富士美術館、世界救世教(1935年)の岡田茂吉がつくったMOA美術館、神示秀明会のミホ・ミュージアムなどです。ミホ・ミュージアムは1997年に設立されたのですが、ミホ・ミュージアムが誕生した秘話などを先輩から聞いていたことを覚えています。 新興宗教の教団でなくても、相国寺などの承天閣美術館なども古美術品を収集しており、財閥が作った美術館・博物館とは違った雰囲気になっています。宗教教団の力は凄いですね。 これまで話した教団は戦前から続く教団ですが、1970年代になるとそれとは違ったニューエイジの教団が出現します。彼らは世界平和、隣人愛、生活公助など、従来の宗教とは違った枠組みの宗教を創設しました。ベトナム戦争に反対したヒッピー運動などは世界的に拡大した新しい宗教でしょう。踊念仏がロック・コンサートに変わった。そう考えると宗教はシリアスな面ばかりを持つ思想だとは考えられません。 当時、日本人はアメリカ文明や高度経済成長を信仰していました。言い方を変えると、経済を信仰していた感じがします。それが崩壊したのは1995年、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こった年です。高度経済成長、バブル経済の終わりと共にそれまで日本人が信じていた経済への妄信が終焉します。その頃から世間の新興宗教に対する目が厳しくなった。新興宗教の反政府主義、カルト化が問題となり、公安が危険な教団の監視を始め、マスメディアはオカルトという言葉を使用することを控えるようになります。その代わりに使用されるようになったのがスピリチュアル、ヒーリング、パワースポット、オーラなどの言葉です。 2000年代にテレビに登場した細木数子や「オーラの泉」に出演していた江原啓之などが茶の間を賑わせました。 しかし、2011年、東日本大震災が起きると、ヘイトクライム、LGBТ、パワハラ、セクハラ、介護など生活に密着した社会問題に目が向けられるようになります。虚構の世界よりも実体のある社会に目が向くようになった。さらにSNSなど情報通信が発達すると、従来の宗教とは違った面から宗教をとらえる動きが出現します。最近、起こった女性の歴史、仏像、日本刀などの関心、ブームは昭和時代では考えられなかった現象です。また、SNSや先端機器に支配される社会から距離を置くために田舎にある寺での座禅会や写経会に参加する人々も増えています。都会で流行しているホットヨガ・ブームなども1970年代に流行したヨガと一線を隔しています。 古美術の世界の話をすると、ネット・オークションが登場して便利になった反面、露店市で露天商と会話をしながら古美術品を買う楽しみや骨董屋で物を探す喜びもなくなったような感じがする。このような状況を見ると、現代社会で生きる我々は知らず知らずのうちにSNS教という宗教に入信させられているのかもしれません。また、テレビゲームに依存する若者などのゲーム中毒者は昔の過激な宗教者に近い感じもします。骨董の世界にも「骨董病」という言葉がありますが、中毒症状を起こすようであれば、どのような領域でも問題が起きます。宗教というと昔の信仰の行為をイメージがありますが、現代社会における新宗教に気をつける必要もあります。 骨董品がこの世から無くならないように、宗教も人間が生存する限り続いていくでしょう。両方とも時代と共に変わる世界です。

               

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