このページは2018年7月7日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。 |
第50回 古美術と社会学シリーズ⑩ 「日本の宗教の変遷と古美術」
(1) 七夕と古代宗教 |
今日は七夕です。七夕は中国や韓国、日本など東アジア圏における節句の一つで、旧暦の7月7日の夜を指します。旧暦7月7日は日本で最も暑い時期で現在の8月から9月にあたり、祖先の霊を祀る祭も行われていました。しかし、明治の改歴以降、本来の意味(お盆のような)は失われてしまいました。 |
(2) 室町時代以降の宗教の変遷
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東アジアの近世宗教が確立したには15世紀~17世紀です。中国では異民族の元が衰退、明(1368年~1644年)が成立すると、明では漢民族の宗教である儒教が主流となります。それに李氏朝鮮は追随する。中国と日本の宗教文化を見ると、一時代遅れで日本で広まることがわかります。世界遺産の日光東照宮(17世紀)は、紫禁城(1420年造営)を模倣している事は明白です。宗教も同様で、江戸幕府が儒教を国教としたのは明建国よりも約200年後です。徳川政権が明の政策を取り入れた時代、その本家である明が清に滅ぼされたのは皮肉。だから中国の文化が日本に残るような状況が生まれる。中国文化の研究者が日本に資料を求めてやってくるのはこのような事情があります。 |
(3) 巡礼の歴史
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最近、寺社を廻って「御朱印」をもらうブームが起きています。日本人も外人も信仰とは別に観光地巡りの記念として「御朱印」をしてもらう。「御朱印」1つにつき300円程度、これが意外と寺社の収入になっている。お布施みたいなものですね。逆に観光客が来過ぎて御朱印をしない寺社もありますが……。 御朱印が生まれた起源は定かではありません。中世から近世にかけて御朱印は一種の身分証明、通行手形の役割を果たしたと考えるのが普通です。観光旅行が自由にできなかった江戸時代、伊勢参りや霊場参拝を理由とすれば、比較的容易に通行手形を得ることができたので、庶民はなるべく多くの寺社を廻って御朱印をもらっています。 御朱印の歴史は、巡礼の歴史と重なっています。日本人はヨーロッパに行くとスペインやフランスなどの聖地巡礼の遺跡を巡りますが、自分の国では寺社巡りを「聖地巡礼」とは考えていないようです。日本人の宗教は曖昧な点が多いので、どちらかというと史跡巡り、観光地巡りのように感じるのでしょう。逆に言うと、それが日本人の宗教観を表しているといえます。最近はネットなどで珍しい「御朱印」帖が売り買いされている。こうなると宗教というよりはビジネス、かつての切手収集のようです。 日本人が宗教的巡礼を行うようになったのは、平安時代の「熊野詣」が最初。花山院(968年~1008年)から始まり、その後、多くの院が熊野詣を行っています。熊野詣は多くの随行者を伴う物見遊山的な旅なので出費が重なって経費を捻出するのに苦労したという記録も残っています。ちなみに後鳥羽院は13回、後白河院は27回熊野に行っています。 花山院は「西国三十三(近畿と岐阜にある観音霊場)」を定めたとされる伝説を持つ院。「三十三」は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)に説かれている、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に求めて西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できる数字とされていました。平安時代、この世を謳歌していた公家や貴族にとっては極楽往生に行くことが人生最大の目的だったようです。 「西国三十巡礼」は当初、奈良県にある長谷寺が1番でした。12世紀後半になると後鳥羽院や後白河院の影響で熊野那智山が1番となり、それが15世紀になると固定化し、東国からも庶民が巡礼に訪れるようになります。 江戸時代には日本各地で「観音巡礼」が流行し、関東では坂東三十三箇所や秩父三十四箇所が設立され、「日本百観音」を巡る「巡礼講」が組まれるようになりました。各地方には人々から依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいて、巡礼講や三十三度行者の満願を供養した「満願供養塔」が現在でも各地方に残っています。 江戸時代の三十三所の巡礼を見ると、巡礼地の地位は確立されておらず、観音巡礼というよりは霊場巡礼と言った感じがします。当時は観音巡礼の他、四国八十八所、善行寺参り、七福神巡りやなどの巡礼も創設されました。 西国三十三所と共に有名なのが「四国八十八か所」を巡る巡礼です。この巡礼は「遍路」と呼ばれ、地元の人は巡礼者のことを「お遍路さん」と呼んでいます。 広島に住んでいた私の祖母は「お遍路さん」の格好をして度々、四国に行っていました。その時、私は若かったので祖母がどのような気持ちで巡礼の旅をしていたか理解できませんでしたが、歳を取ると、①旅によって日常生活から離れ気持ちをリフレッシュする ②家族や親族の安泰を願う ③年老いていく自分を見つめるなどの理由で、巡礼をしていたのだろうと推測できます。 このような行為を古美術の世界に置き換えると、陶磁器が好きな人であれば、日本各地の窯場巡礼ということになるのでしょうか。信仰の代表的な対象は「唐津焼」ですかね。 2015年、文化庁が「日本遺産」18件の1つに「四国遍路ー回遊型巡礼路と独自の巡礼文化」を認定ています。「日本遺産」は、どちらかというとマニアックな遺産群。従来に有名な観光地巡りではないマニアックな地域を遺産として認定するのを見ると。日本人の歴史観も大きく変化したようです。 |
(4) 近代の新興宗教
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幕末から明治時代にかけて既成の宗教とは違う新宗教、あるいは新興宗教と呼ばれる新しい宗教が出現します。それらの宗教は明治時代以前の寺社を中心とした宗教とは一線を隔しています。新宗教は都市化、産業化、家族形態の変化、マスメディアの登場、交通の発達、学校教育の普及といった近代化の波の中で生まれました。20世紀に入ると産業の機械化が加速し、都市化が始まったことで、従来の農村文化と違う新宗教が庶民の間で求められるようになります。 戦前から続く教団に天理教、金光教、生長の家などがあります。出口ナオが作った大本教などは当時の政府と対立して大規模な弾圧を受けました。大本教の教祖だった出口王仁三郎は抹茶碗などの作陶をしていたのですが、彼の作品は初と共に現在でも高値がついています。その他にも教団を作った教祖の書は高値がつきます。 昭和初期、1930年(昭和5年)に創価学会、生長の家、1938年(昭和13年)に立正佼成会が創立され、戦後、大教団に成長しました。特に創価学会は公明党を持つ宗教団体として日本の政治にも大きな影響を及ぼす教団となっています。 新興宗教の教団の中には独自の美術館・博物館を持つ教団がたくさんあります。最も有名な新興宗教の美術館は、天理教の天理参考館、創価学会の富士美術館、世界救世教(1935年)の岡田茂吉がつくったMOA美術館、神示秀明会のミホ・ミュージアムなどです。ミホ・ミュージアムは1997年に設立されたのですが、ミホ・ミュージアムが誕生した秘話などを先輩から聞いていたことを覚えています。 新興宗教の教団でなくても、相国寺などの承天閣美術館なども古美術品を収集しており、財閥が作った美術館・博物館とは違った雰囲気になっています。宗教教団の力は凄いですね。 これまで話した教団は戦前から続く教団ですが、1970年代になるとそれとは違ったニューエイジの教団が出現します。彼らは世界平和、隣人愛、生活公助など、従来の宗教とは違った枠組みの宗教を創設しました。ベトナム戦争に反対したヒッピー運動などは世界的に拡大した新しい宗教でしょう。踊念仏がロック・コンサートに変わった。そう考えると宗教はシリアスな面ばかりを持つ思想だとは考えられません。 当時、日本人はアメリカ文明や高度経済成長を信仰していました。言い方を変えると、経済を信仰していた感じがします。それが崩壊したのは1995年、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こった年です。高度経済成長、バブル経済の終わりと共にそれまで日本人が信じていた経済への妄信が終焉します。その頃から世間の新興宗教に対する目が厳しくなった。新興宗教の反政府主義、カルト化が問題となり、公安が危険な教団の監視を始め、マスメディアはオカルトという言葉を使用することを控えるようになります。その代わりに使用されるようになったのがスピリチュアル、ヒーリング、パワースポット、オーラなどの言葉です。 2000年代にテレビに登場した細木数子や「オーラの泉」に出演していた江原啓之などが茶の間を賑わせました。 しかし、2011年、東日本大震災が起きると、ヘイトクライム、LGBТ、パワハラ、セクハラ、介護など生活に密着した社会問題に目が向けられるようになります。虚構の世界よりも実体のある社会に目が向くようになった。さらにSNSなど情報通信が発達すると、従来の宗教とは違った面から宗教をとらえる動きが出現します。最近、起こった女性の歴史、仏像、日本刀などの関心、ブームは昭和時代では考えられなかった現象です。また、SNSや先端機器に支配される社会から距離を置くために田舎にある寺での座禅会や写経会に参加する人々も増えています。都会で流行しているホットヨガ・ブームなども1970年代に流行したヨガと一線を隔しています。 古美術の世界の話をすると、ネット・オークションが登場して便利になった反面、露店市で露天商と会話をしながら古美術品を買う楽しみや骨董屋で物を探す喜びもなくなったような感じがする。このような状況を見ると、現代社会で生きる我々は知らず知らずのうちにSNS教という宗教に入信させられているのかもしれません。また、テレビゲームに依存する若者などのゲーム中毒者は昔の過激な宗教者に近い感じもします。骨董の世界にも「骨董病」という言葉がありますが、中毒症状を起こすようであれば、どのような領域でも問題が起きます。宗教というと昔の信仰の行為をイメージがありますが、現代社会における新宗教に気をつける必要もあります。 骨董品がこの世から無くならないように、宗教も人間が生存する限り続いていくでしょう。両方とも時代と共に変わる世界です。 |