このページは2014年2月1日(土)・8日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第5回 『朝鮮半島の古美術・文化』 (1)  有史以前の朝鮮半島

『朝鮮』の名称が初めて現われるのは漢代に記された『管子』で、紀元前7~6世紀頃の朝鮮(平壌周辺)の様子が記されています。当時、半島に住んでいた人々は、沮(ショ、ソ)と呼ばれていました。沮には『阻む』という意味があり、中原に住む人々は、行く手をはばむ太白山脈で移動を止めました。後に朝鮮人は沮を、海から日が昇る意味の朝(チョ)貊貊に変えます。朝鮮の鮮は濊(ワイ)を表わす魚と、貊(ハク)を表わす羊から成っているので海洋民族と騎馬民族が混血して朝鮮族を形成したことがわかります。
濊と貊たちが混ざり合ったことは扶余(ソウルの南方)にある松菊里古墳から推測できます。
紀元前500年頃、朝鮮半島に石柱で石蓋を支えた支石墓(ドルメン)が大陸から伝播します。支石墓は西方のフランスにまで伝播しているので、大陸全体に支石墓文化が広まっていたことがわかります。それを広めたのはステップロードを行き交いする騎馬民族です。半島には約5万前後の支石墓があります。
前述の松菊里古墳には円形の竪穴住居跡と、方形の竪穴住居跡が見つかっているのですが、方形の住居群が火事で焼け落ち、その後、丸形の住居が建てられた。それは民族の興亡を表し、方形は騎馬民族、円形の海洋民族の象徴なので、松菊里古墳の騎馬系住民が海洋系に襲われて追い払われたことが推測できます。
紀元前249年、中原にあった魯が、孝烈王(楚)によって滅ぼされると、季氏の一部が朝鮮半島に亡命、箕氏朝鮮を建国します。箕氏朝鮮については謎が多いのですが、殷の紂王は季(キ)氏出身、周の王族、周王、周公旦、昭公も姫(キ)氏をなのっているので、朝鮮人の祖先は姫氏だと考えられるでしょう。殷の季氏は騎馬民族で、遊牧民でした。それは彼らが食材のレベルを牛、羊、豚、鳥で、魚は下層の人々が食べるものだと考えていたことからわかります。彼らは魚やコメを主食とする人々を、東夷と呼んで蔑んでいましたが、東夷の夷は、稲を表す言葉で、現在の韓国では、コメのことをイと発音します。古代の日本人も、コメをイイと呼んでおり、イイは、飯と書きます。コメを主食とするイ族は、東アジア全域に広がって行き、伊、李、季、姫、紀、箕に変化します。
一方、王姓の人は揚子江流域で水田稲作を始めた人々で、王はワ、倭で殷の人々は揚子江流域に住む人を倭人として捉えていました。
紀元250年頃、中国を追われた箕氏(魯)が大陸文化を携えて朝鮮半島に移住します。『箕』は竹で編んだ籠で、竹は南方文化圏に属しています。また、楚に滅ぼされた魯に、魚冠が付いていることを考えると、魚を箕で採ることから魯と付けられた可能性が高い。米と魚といえば、現在の日本人の食生活の中心ですが、日本人の食生活を考えると我々は文化的には箕氏朝鮮の子孫である可能性が高いでしょう。
紀元前194年、箕氏朝鮮は準王の時、鉄器文化を持った衛満によって滅ぼされます。衛満が建てた国を衛氏朝鮮(~紀元前108年)と呼ぶ。衛氏朝鮮に追われた準王たちは南に逃亡しました。現在でも済州島の人たちは自分たちが準王の子孫だと考えています。
紀元前221年、中国では秦が斉を滅ぼし、秦の始皇帝が中国を統一します。秦・始皇帝は神秘的傾向が強い人物で、紀元前215年頃、彼は不老不死の薬を求めて『徐福(現在の江蘇省西北部、徐州出身で道教の方氏(行者)』という男を蓬莱山に派遣します。蓬莱山は東方にある伝説の島で、住人はみな不老不死であると信じられていました。徐福の話は『史記』淮南伝に載っている。
『一度、渡航に失敗した徐福が始皇帝に謁見して、三千人の童男女と百工(技術者)、五種の種子を携えて再び出発し、平原広沢を得てとどまり、王となって帰らなかった』
徐福は、実際に朝鮮半島や日本列島に渡航して来たようです。その証拠は新羅や早良の土地に残されている。古代、新羅は徐羅伐(ソラボォル)と呼ばれ、国に徐がついているので、徐福一行が半島南部に立ち寄って、クニを建てたことがわかります。
その後、九州に渡来したことは北部九州の遺跡から中国製の青銅器が発掘されることから推測できます。
13世紀に成立した朝鮮の史書『三国遺事』に、檀君が国を建てて『朝鮮』と号した話があります。檀君の『壇』は方形なので騎馬民族だったと推測されます。現在、檀君の陵墓は平壌にあるので、『管子』の朝鮮が現在の北朝鮮周辺を指していることと一致します。
紀元前後、朝鮮半島に新しい民族が渡来します。それが新羅を作った金氏です。紀元前91年、前漢で巫蠱の乱が起きた時、武帝は匈奴の宅候、金日智(現甘粛省武威市出身)に応援を求めます。宅候は巫蠱の乱での活躍し、爵位と、金で作った神人を祭っていたので、『金』姓を与えられした。この時から東アジアに金姓が登場します。金前大統領・金大中がノーベル平和賞をもらえたのも、北朝鮮が金姓で、彼を同族と考えて友好的だったからです。紀元前86年、金日智は武帝から山東省・成武県に領地を与えられ、一族、3万人を連れて移住しました。後、前漢は新(8~23年)の王莽に滅ぼされますが、光武帝が王莽を滅ぼし、後漢を建国します。その時、王莽の親族だった金氏たちは後漢に追われ、朝鮮半島に亡命する。彼らが作ったクニが金海と金城(慶州)です。
金日智のことは新羅15代・文武王の石碑に刻まれています。現在では新羅王族の祖先は、匈奴の金氏であると認識されつつあるが、その碑文が発見された時、韓国の考古学会は一時、騒然としました。それが事実であるならば、韓国人が自分たちの歴史を変えなければならなくなるからです。後に朝鮮半島は新羅によって唯一されますが、新羅は金の文化を持つ国です。金の文化は匈奴の文化なので、新羅が金氏の子孫であることを証明することができます。6、7世紀に出現する金冠などの装飾品は、倭人が新羅の影響を受けて、製作したものです。

   
 松菊里古墳                       支石墓           武威市遺跡

(2) 古代の朝鮮

3世紀になると朝鮮半島は高句麗、百済、新羅、伽耶の四つの勢力に統合されます。檀君は朝鮮の始祖と考えられていますが、高句麗の始祖は朱蒙(解、高氏)、百済の始祖は温祚(朱蒙の子)、新羅の始祖は赫居世(キャクキョセ、新羅語バルクヌィ)と金閼智、伽耶の始祖は金首露です。金閼智は前述の金日智に似ているので、新羅の始祖は金日智でしょう。
百済、新羅、伽耶はそれぞれ、馬韓、辰韓、弁韓と呼ばれています。韓の語源は騎馬民族の首長・干です。ジンギス・カーンのカーンと一緒。現在、朝鮮半島は北と南に分かれていますが、元々、違う民族が建てた国なので対立するのも無理はありません。イギリスがアイルランドやスコットランドと対立しているようなものです。ちなみにスコットランドはイギリスから独立する気配があり、今年9月に住民投票が行われます。
4世紀頃、倭人は三韓と同族で交流も盛んでした。そもそも、この頃に近代国家の概念はない。近代国家観を持って古代史を語るのは、古代史、歴史の知識の乏しい人です。ですから三韓の王を倭人などというと、近代国家間を信じて、目くじらを立てる。当時は倭人も三韓人も国家とは群落のことだと考えていました。ですから新羅は金城だけ、大和は奈良にあった地方国家です。それを広い領域を支配していたと考えるのは大きな間違いです。
5世紀前半、百済の阿辛王が高句麗に敗れて、河内に移住して応神天皇になります。その時、百済や伽耶から新しい文化が輸入された。馬、鉄器、かまど、須恵器、仏教などです。戦後、江上波夫先生が『騎馬民族征服説』を発表して大きな話題になりました。しかし、征服説が余計です。『騎馬民族移住説』とすれば研究も、もっと進んでいたでしょう。5世紀、多くの三韓王族が日本列島に渡来した。日本列島は平和ですから、文化を持っていると尊敬される。当時、列島に住んでいた倭人は半島文化を見て、憧れを抱いたでしょう。明治の日本人が西洋文化に、戦後はアメリカに憧れていたようなものです。
古美術の世界では、この時期の須恵器を大量に扱います。伽耶式土器や新羅式土器は九州からも出土する。韓国から流入した須恵器をみると半島南部から九州、吉備を経て大和にやってきたことがわかる。
日本の古代史において5世紀は『文明開化』の時代でした。半島からの文化移入は高句麗、百済、伽耶が新羅に滅ぼされる7世紀まで続きます。
6世紀後半、日本に仏教文化が伝播します。それを推進したのが渡来系豪族の蘇我氏でした。蘇我氏は仏教徒であるサカ族(シャカ族)の末裔で、当時、華北に勢力を持っていた突厥の王族でした。突厥は隋や唐と対等に国交を樹立した国家で、隋や唐の王族は突厥から多くの王妃を迎えています。
当時、新羅は弥勒菩薩信仰が盛んでした。広隆寺には2つの国宝、弥勒菩薩がありますが、有名な方は新羅系の仏像です。蘇我氏は百済系王族だったので、扶余にあった王興寺をまねて釈迦如来は本尊の飛鳥寺を創建しています。交易民だった秦氏は新羅系で弥勒菩薩信仰をしています。四国の中で金文化を持っていたのは新羅だけで、他の三国に金の文化はありません。写真は金でできた新羅の金冠ですが、これは三日月型をしています。三日月はトルコの象徴です。語尾が変化する膠着語はトルコ語、韓国語、日本語だけなので、3つの国の民族が同じであることがわかります。古代、突厥は、東は日本、西はペルシャ周辺まで勢力を持っていました。
古美術の世界では、昔から古代瓦が人気ですが、最近は大量に偽物が出回っているので気をつけてください。
8世紀後半、日本の朝廷は高句麗系と新羅系に分裂します。現在、東大寺の前身は光明皇后の菩提寺で、新羅系です。彼らはそこから高句麗系の平城京を見下ろしていた。高句麗系の人たちは唐から鑑真を招いて、新羅系の東大寺に対抗します。2国間の関係は悪化した799年、日本は新羅との国交を断絶し、渤海(高句麗の末裔)と関係を強化します。
918年、新羅は内乱によって滅び、王氏が高麗(~1392年)を建国します。高麗がコリィァンの英語の語源です。王氏は楽浪郡を支配していた王氏の末裔で、日本の応神天皇の祖先。この時期、日本は遣唐使を廃止して、独自の文化形成を行い、かな文字が発明され、仏教と神道の混ざった本地垂迹文化が出現します。
高麗は仏教文化を取り入れ、華北を支配する宋、遼、金を宗主国と仰ぎ、良好な関係を気づいてきました。高麗を代表する高麗青磁は宋や金の影響を受けて作られたものです。
しかし、元が出現すると状況が一変、元の直接支配を受け入れ、高麗王朝はモンゴル化して独自性を失う。それから、水軍を持たない元に命じられて元寇(1274年、1281年)を起こします。
14世紀に入ると大陸で紅巾の乱が起こり、元が衰えを見せると、高麗は元と国交を断絶、国力を回復します。この時、武将として活躍した李成桂が1388年、クーデターを起こし、1392年に高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建てます。

       

(3) 李氏朝鮮(1393年~1910年)

高麗王位を簒奪した李成桂は明の洪武帝の命令で、国号を『朝鮮』とします。この時、『朝鮮』と『和寧』の候補があったのですが、洪武帝は『朝鮮』を選びました。日本では一般に李朝と呼びますが、韓国内では単に朝鮮と呼びます。 李氏は唐の末裔の鮮卑族(女真族ともいわれている?)なので、高麗朝の人々は政権を簒奪した李朝を蔑みました。日本で言うと、豊臣秀吉が天下を統一したようなものです。
李朝は約500年続いたのですが、理解しやすくするために3つの時代に区分されます。

【1】建国から威臣・勲臣が高官を占める時代(1393年~1567年)
【2】士林派による朋党時代(1567年~1804年)
【3】外戚のよる勢道政治時代(1804年~1910年)

対外的にみると、
・明(1393年~1637年)を宗主国としていた時代
・清(1637年~1894年)を宗主国としていた時代
・日本の勢力下に置かれた時代(~1945年)、に分けることができます。

【1】に起こった歴史的事件で特筆すべきは、ハングルを制定した第4代世宗(1397年~1450年)による仏教弾圧、田制改革による中央集権化への取り組みです。
この時期は前期李朝の安定期で、国内外ともに勢力を拡大させます。しかし、世宗は唐(李淵が建国)が道教を重んじ仏教を弾圧したように、仏教を弾圧し、民の国教である儒教(朱子学)を国教とします。李朝は白磁というイメージが強いのですが、白磁(ソウル周辺の渓龍山窯)の一般使用も禁止されます。儒教の白は王族だけのものでした。16世紀後半まで象嵌、印花、掻き落とし、線刻、鉄絵、刷毛目、粉引などの技法を使った粉青沙器と呼ばれる高麗青磁を継承した青磁が焼かれていました。士林時代、豊臣秀吉の倭乱(文禄・慶長の役)の頃から、青磁製品の生産は中止され、白磁、鉄釉が主流を占めるようになります。チャングムは韓国ドラマの代表ですが、あの舞台設定は評判の悪い燕山君(1476年~1495年)で、仏教弾圧時代なので、王宮でも色ものが禁じられていました。ですから、チャングムに登場する色彩とりどりの王宮の様子は全くの作りものです。チャングムの時代は男尊女卑で、女性名前さえ名乗ることができなかった。チャングムというのはあだなです。1643年、酒井田柿右衛門が色絵製作を作りました。日本は色彩が豊かな国家ですが、李朝は逆だった。李朝の人から見れば、女性が羽振りを利かせている女尊の国は野蛮に見えたでしょう。柿右衛門は美人の磁器人形も作っている。李朝の人から言わせると言語道断です。この頃、男性中心のソンビ(士)文化が確立されます。

【2】の時代にあたる桃山時代、日本に来た朝鮮通信使は秀吉が職人に『天下一』を授与しているのを見て『野蛮』と記しています。文人国家では職人に対する差別が激しい。ですから、江戸時代初期、帰国が許された朝鮮人のうち学者たちは帰国したが、陶工はほとんど帰国しなかった。日本に渡って来た陶工たちは、その後の日本の陶磁器を発展させました。この時期、李朝白磁は渓龍山から広州に移ります。
18世紀中頃、李朝もやっと白磁に染付が施されるようになります。それまでも染付はありますが、極端に数が少ない。
1720年、官窯が広州から金沙里に移され、美しい白磁が作られるようになります。
李朝は政争に明け暮れているのですが、18世紀中頃、52年間、王だった第21代英祖(1724年~1776年)は蕩平政治(派閥の要職を分配する)を行って、政治を安定させます。余白、バランスをとった英祖の思想が、染付を代表する『秋草紋染付壺』を生み出します。極端な李朝の中では、英祖とその後を継いだ世祖の時代がバランス感覚のもっとも良い時代でした。だから、秋草紋染付、白磁ちょうちん壺など秀作が生まれたのです。1752年、官窯は分院里に移ります。

【3】の時代(19世紀)に入ると蕩平政治は崩壊し、それを支持していた勢力は一掃され、外戚による僻派の勢道時代が始まります。同時に18世紀末、朝鮮半島に伝わったキリスト教の弾圧が激化、辛亥邪獄(1801年)では3万人の犠牲者が出たといわれています。
李朝は外国の干渉や影響を排除するために高宗(24代、1852年~1919年)の実父・大院君が極端な政策をとります。日本で言うと大院君は尊王攘夷派、それと対立した閔氏一族は開国派です。
1875年(明治8年)、日本が江華島に侵入、江華島事件を起こして、李朝を開国させます。その後、李朝はアメリカなどと条約を結び、外国文化の流入を容認します。1883年、分院里は官窯から民窯に移され、良く言えば李朝陶磁器の自由化、悪く言えば質の低下が起こります。
(続く)

       

(4) その他の朝鮮文化

高麗茶碗
これまで須恵器、高麗青磁、李朝白磁を中心に話をしましたが、李朝で忘れてはならないのが、茶碗です。李朝の茶碗には大井戸、井戸脇、刷毛目、三島、堅手など、多くの種類があります。そこに美を見出したのは茶道を大成させた千利休です。利休が、なぜ李朝の茶碗を茶道に取り上げたかは、前回の講座の時、話しました。数の少ない唐物では間に合わなくなったからです。と、いうよりも李朝の茶碗は抹茶に合うと言ったほうがよいかもしれません。唐物の磁器茶碗で抹茶を飲むのは熱すぎるし、完璧なので、自然美を愛する日本人の感性に合わない。そこで利休が目をつけたのが李朝の雑器でした。当初、茶碗はご飯を食べる雑器ですから、そこに美を見出す利休は凄いですね。
ところで、日本では李朝の茶碗は宝物として大切に扱われましたが、茶道の無い本家の李朝では茶碗の評価も今ひとつです。日本では水差し、花入、香合などの茶道具が作られますが、李朝にはそれがない。……。
現在でも茶道を知らない外国人は、『なぜ、傷だらけで汚れた茶碗が良いのか?』と疑問を持ちます。しかし、日本人の美意識(自然との関わり合い)を知ると、茶碗に美を発見できます。これ見よがしに私を見て的な西洋の自己顕示の美意識とは違う美がそこにある。

民画
日本には士農工商の4つの階級があったので、4つの文化が存在しますが、李朝では両班(文人)、庶民の2つの文化しかありません。李朝も末期になってくると、庶民たちも文化に接することができるようになります。時代がすすむにつれ、絵具や染料の使用も増え、庶民は民画という表現方法を発見します。三十年前、学生だった私は李禹煥先生から民画の話をよく聞きました。先生は当時、『韓国人は民画の良さを理解していない』と愚痴っていたことを覚えています。それは幕末、日本人が浮世絵を全く評価していなかったことに似ている。当時の日本人は浮世絵が西洋美術に多大な影響を与えていたことなど知る由もなかった。最近は韓国人も日本人も李朝民画の面白さを理解できるようになり、市場での価格も上がっています。それでは李朝民画の良さとは何か。それは自由奔放さです。人は教育されると自分を押し殺して表現しようとします。李朝の民画にはそれがない。悪く言えば幼稚でプリミディブな絵ですが、西洋絵画の行き着いた先は李朝の民画の世界でした。李朝民画とピカソやマチスの自由奔放は似ています。民画には遠近法、似せて書こうとする写実などは存在せず、画家が世界と一体化して描いたようなおおらかさがあります。

建築
それは建築にも当てはまります。王や両班たちは人工的な世界に生きていた。清朝の皇帝が一生、紫禁城でたことがないほど極端ではありませんが、李朝の王族もそれに近かい。一方、庶民は自然の中で生きていたので、観念的な世界とは無縁でした。庶民の家を見ると、柱が歪んでいることに気づきます。彼らは企画された材木を使うのではなく、自然にゆがんだ気を使って家を造った。これは建築知識のない、子供のような人が家を建てるのに等しい。日本人の木材といえばまっすぐな杉ですが、韓国には曲がった松材が多い。それを尊重して使用するので柱が曲がっていても自然感がある。歪んだ家の中に直線、測量されて作られたものを置くと堅苦しくなって違和感が生じる。ゆがんだ家の中には、歪んだ陶磁器の方が自然に感じられる。極端に言うと李朝の王宮や両班の家は人工的で、庶民の家は竪穴住居近いものがあります。李朝の庶民が使っていた陶磁器にも歪んだものがたくさんあります。織部に近い美です。
昔、李先生が李朝の美の良さはバランス感覚、余白にあるとおっしゃっていました。韓国人は陶磁器や工芸品を作る時、そこに自然に存在するよう意識的に作っているそうです。歪んでいても、それが自然であれば、それで良い。
話が変わりますが、私は昔、ピサの斜塔を見た時、感動したことがあります。ルネッサンスは観念的で直線的な世界ですが、その中で斜めの塔は存在感を放っていた。西洋人は歪み、バロック様式を取り入れますが、それ自体が観念的です。しかし、李朝の庶民文化はプリミティブを含んでいても、近代社会と共存できる部分がある。それが現代人の我々には心地良いのでしょう。
ここまで私の朝鮮文化論を勝手気ままに話しましたが、これからゲストの呉在一さんを交えて、生の朝鮮文化について聞きたいと思います。……。

この後、『韓国人は自然を重んじるので、歪んだ松材をそのまま使って家を建てていた』、『韓国人はリラックスするため、笑いをとるために変わった陶磁器を作る』、『大韓民国の酒量は世界一になった』、『ビビンパは祭祀の食事なので、赤いトウガラシを入れない』、『チジミにはマッコリが合う』、『日本のラーメンは塩辛すぎる』など、文化、食について話を聞きました。我々の韓国観は呉さんの話を聞いて驚き、知的好奇心を満たされたと思います。最後になりましたが、呉さん、骨董講座の先生を引き受けていただき、ありがとうございました。いつか、スペシャル対談にお招きしますので、その時はよろしくお願いいたします。
(終わり)

         

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