このページは2018年1月6日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第44回 古美術と社会学シリーズ④ 「伊万里焼の図像学」
(1) 日本人の平面的感性はどのように変化したか

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。昨年は3回にわたって古美術界についてお話をしましたが、これから3回は図像学、平面的感性、食生活を通して日本人の平面的な感性を探っていきたいと思います。昨年よりも古美術品についての話が多くなるので、少しは骨董講座らしくなるでしょう。
伊万里焼の図像学については、骨董講座を始めた年、超能力者の秋山眞人さんと一緒に講義をしたことがあります。興味のある方は仙遊洞ホームページ「骨董講座」の第4回の文章を参照にしてください。今回はそれを参照にしながら、日本人が陶磁器にどのように絵付けをしていたか、絵付けがされるようになった伊万里焼の誕生から幕末、現代の日本人の絵画的感性について全般的な話をします。
前々回の講座で「スマホやタブレット端末の過度の使用は五感の発達を阻害する」ことを話しました。両方とも平面的な情報機器です。平面的な絵画の最初は旧石器時代のクロマニオン人の壁画まで遡ることができます。その後、農耕時代が始まると権力者たちは宮殿内に壁画を描き、自分たちの権力の正当性を示すようになります。やがて、紀元前3500年頃、粘土に書かれた文字が発明されると、人類の情報伝達手段に革命が起きました。その後、紙が唐からイスラム圏に伝わり、15世紀にグーテンベルクが活版印刷機を発明すると、平面に印刷された絵画や文字は大量生産できる本として社会に拡散していきます。
日本人が平面の情報伝達手段を使用するようになったのは6世紀、仏教が伝来した頃です。それまで一般の日本人は文字を使用せず、音声言語だけでコミニケーションを取っていました。日本の陶磁器の歴史を見ると、紀元前1万年から弥生時代になるまで、縄文人は陶器に凹凸をつけているので、造形的感性が立体的だったことが分かります。弥生時代に入ると土器も簡素化され、表面に線彫りの絵画などが描かれるようになります。奈良県唐子・鍵遺跡から出土した先刻土器は弥生時代を代表する土器です。この時代くらいから、日本人の絵画的感性に変化が生まれたのでしょう。その後、平安・鎌倉時代になると絵巻物や宗教絵画が盛んに描かれるようになります。しかし、それは一般的に貴族の物で、多くの日本人、農民は絵画などには無縁でした。
戦乱が終息した江戸時代前期、伊万里焼や浮世絵が出現し、日本人も自然や風俗を題材にした平面美術を身近に感じることができるようになります。それが全国的に広まったのは鈴木晴信が登場し、平賀源内などが活躍した18世紀後半。この時期、浮世絵の大量生産が始まり、出版される本(黄表紙など)の数も増大します。出版物が社会に浸透した理由は日本人の識字率の高さになります。特に江戸や大阪、京都などの大都市では識字率が高く、一般庶民でも本を読むことができました。江戸や大阪は世界的に見ても巨大な都市で、日本人は世界に先駆けて市民社会を形成したいたことが判明しています。江戸時代から明治時代にかけて近代化がスムーズに移行できたのは、江戸時代後期には市民社会が確立されていたからです。
識字率の高い日本人は各階層の間で出版物を通して知識を蓄え、情報を共有していました。江戸時代後期、日本人が使用していた浮世絵や伊万里焼の絵付けなどを見ると絵柄がバラエティに富み、それが庶民階層に情報の伝達手段の役目を果たしていたことが理解できます。浦賀にペリーが来航した時、江戸の絵師たちは早速、瓦版を作って庶民に情報を伝達しています。それよりも20年前には有田で日本地図が絵付けされている伊万里焼が製作されています。これらは日本人の情報伝達能力の高さを示す例です。しかし、日本人の中で平面的な感性、情報取得能力を持つことができたのは都市生活者と裕福な農民だけでした。江戸時代の農民の比率(明治3年調査)は全人口の85%を占めているので、農民の多くは平面的な感性よりも立体的な感性を持っていたことが分かります。ですから、平面的(紙面や染付、色絵)な情報取得ができたのは都市生活者と裕福な農民だけでした。

             

(2) 桃山時代から始まった陶磁器の絵付け

日本人が陶磁器に線刻画を描くようになったのは弥生時代からです。それは中世の六古窯にも受け継がれています。奈良時代に墨書きで落書きをした土師器もありますが、絵付けというよりも手悪さの部類に入ります。
日本人が本格的に陶磁器に絵付けをするようになったのは桃山時代に美濃焼(志野焼、織部焼)や唐津焼が製作されるようになってから。2つの陶器が現在、骨董業界で人気があるのは、日本で初めて絵付けされた陶器だったからです。それまで日本には陶磁器に絵付けをするという概念がありませんでした。美濃焼や唐津焼の絵付けは日本陶磁器史上、革命的な出来事だったのです。一生、古美術に関わって生活しようと考えているのであれば、美濃焼か唐津焼の絵付けがある陶片くらいは所持してください。それを持っていると日本陶磁史上の革命期のことがよく理解できるはずです。
美濃焼や唐津焼に描かれた絵はほとんどが自然に関する絵付けで観念的なものはほとんどありません。たまに珍奇な物もありますが、それは絵付け師が気まぐれに描いた手慰みです。
江戸時代初期になると、朝鮮半島や明から九州に陶工が渡来します。幸い九州には豊富な磁器材料があったので、日本人の投稿は彼らの指導の下、染付の磁器生産を始めました。日本人は手先が器用なので、本国の作品以上に精巧な作品を短期間で製作できるようになります。
毎回、伊万里焼の誕生について話をする時にしているのが、呉須の輸入の話です。安土桃山時代、日本は世界でも有数な経済力を持つ国家だったので東南アジアに金銀、鉱物を輸出、得た資金でイスラム圏から呉須(コバルト)を輸入しました。それまで日本人は現在の緑色(織部焼の緑)を青と考えていました。呉須が日本に輸入されると日本社会に一気にコバルト青が伊万里焼きや木綿の着色など、生活用具に浸透していきます。呉須の輸入を始めてから約60年で日本人は染付磁器を完成させました。初期の伊万里焼は明の染付を模倣していたので中国柄が主流でしたが、1660年代になると、富士山や扇をデザインした「藍九谷」と呼ばれる和風柄の染付が登場します。17世紀の伊万里焼は高級品だったので、ヨーロッパへの輸出用、国内の贈答用として製作され、一般庶民が使用するようなものではありません。18世紀初頭、ヨーロッパでマイセン磁器が発明された頃から日本からヨーロッパへの時期輸出は減り、伊万里焼の製品は国内向けに製作されるようになります。それが庶民に浸透したのは17世紀後半、平賀源内が活躍した田沼時代です。
同時期、中国の清王朝は豊かで安定していた乾隆帝の時代だったので、日本人も中国に憧れを持っていました。そのため武士の間では文人趣味が、庶民の間では吉祥文柄が流行します。
江戸時代後期の浮世絵や伊万里焼の絵付けを見ると、吉祥文を描いたものと情報伝達のための図柄があります。浮世絵はどちらかというと風俗、役者絵、観光に関する物が多く、ハレの日に使用する伊万里焼は吉祥文を採用しています。これを見ると都市型の情報伝達は流行を追う傾向が、土着的な生活の中には永続的な繁栄を願う気持ちがあることがわかります。「江戸の焼け太り」と言われるように、江戸時代は都会では頻繁に火事がありました。当時、50年続く町は珍しく観光地になったという話もあります。このように都会の風景の移り変わりが激しいので、江戸っ子は「宵越しの金は持たない」生活をしていました。財産を持っていても、いつ火事や地震に襲われるかわからないので、江戸っ子は土着性よりも表面的な流行を追う傾向があったようです。江戸で発行された各種の「番付表」を見ると人気の推移を知ることができます。一方、土着的な農民は豊穣や子孫繁栄のために食器に願い込めて吉祥文入りの食器を使用したようです。これは代々続いた商家でも同様でした。江戸時代後期の伊万里焼の分布を見ると北前船が寄港する港町に伊万里焼の作品が多く残っていることが分かります。これは農家よりも商家が伊万里焼の使用品ぢが高かったことを表しています。江戸や大阪などの町人は、くらわんかのような雑器や漆器を、地方の裕福な商人は中級クラスの伊万里焼や蒔絵を使用していたと考えられます。この時代、鍋島焼や源内焼などは御用窯なので贈答が目的として作品が生産されました。当時の上層階級は豪華な伊万里焼の他、各藩の御用窯、見城された漆器を使っていたようです。

           

(3) 吉祥文の種類

吉祥文は「縁起がいいとされる動植物や珍獣、物品などを描いた図柄で、特に中国を中心にしたアジア文化圏で愛好された。 その多くは晴れ着や慶事の宴会などの調度品に施され日常雑器にも使用された。凶事には使用されないのが一般的」です。
国や地域によって吉祥文の解釈が異なっています。例えば龍や蝙蝠は中国では瑞獣ですが、ドラゴンやコウモリはヨーロッパでは悪の象徴です。 また、日本では松竹梅は吉祥文ですが、中国では歳寒三友、文人画の主題です。吉祥文には自然界に存在する動植物の他、麒麟や龍などの空想の獣が登場します。
ここで吉祥文と縁起についての関係を見ましょう。

富貴

伊万里焼の高台裏に「富貴長春」というマークがしるされています。これは「繁栄が長く続いて欲しい」という意味になります。「富貴」象徴する植物は牡丹です。
仏教では「七宝」が富貴を表し、中国や日本の染付などに描かれています。江戸時代後期、七福人の信仰が盛んになると、七宝と七福神が結びつけら縁起が良いとされました。七福神の中で恵比寿、大黒、寿老人などは単独で染付される神様です。大黒はネズミやダイコン、恵比寿はタイ、寿老人は鹿と共に描かれます。
江戸時代後期、伊万里焼に南蛮人の図柄が登場しますが、南蛮人も富をもたらしてくれる神様の一種、七福神のような存在だと考えられていました。

豊穣・多産

上記したネズミや大黒と一緒に描かれた大黒天、波乗りウサギなどが「富貴」や「多産」の象徴とされます。植物では桃、ザクロ、ブドウが多産を表しています。桃はふくよかな形が吉祥とされました。中国ではブドウとリス、ザクロと蜂がセットですが、それが日本に伝来すると大根とネズミに変わります。ザクロは神道では菅原道真と結びつけられ、知恵を象徴する吉祥文です。国によって解釈が違うのは面白いですね。
また、江戸時代後期に流行したみじん唐草は「多産」「豊穣」を目的に描かれた図柄です。また、夏の盛り、南を司る鳳凰なども多産の象徴とされます。直接、唐子を描いた図柄もありますが、これは多産を象徴します。

夫婦円満

日本における夫婦円満の吉祥文の代表は「高砂」です。伊万里焼に描かれるオシドリなどの絵も夫婦円満を象徴しています。「鶴亀文」も夫婦円満を表す吉祥で、鶴が男性、亀が女性を表します。江戸時代後期、線描きのデザインが流行すると、鶴や亀は稲穂などの植物と癒合した抽象的なデザインとして描かれるようになります。中国には唐人と唐子の組み合わせの図柄がありますが、これも子孫繁栄を表した図柄です。

発展・栄光

扇や富士山は末広がりの道具として吉祥文とされた、日本独自の吉祥文です。中国の「発展」の吉祥文の代表は何といっても、鯉が滝を登って龍に変身する「鯉の滝登り」です。日本では空に向かってまっすぐ伸びた竹も「発展」の象徴とされます。
「栄光」の象徴は中国では龍です。特に五爪の龍は皇帝の象徴とされ、珍重されました。ヨーロッパでは音楽やスポーツに秀でる人に月桂樹を捧げる習慣はあります。

魔よけ・健康維持

日本では菖蒲やアヤメが魔よけの象徴として伊万里焼に描かれています。また、麻の葉などは生命力が強い、日本人に馴染みの植物なのでデザイン化され、模様として伊万里焼に描かれました。
意外なことですが、台風の目である渦巻模様も災厄をはらう象徴として絵付けされています。皇室を象徴する菊は、16本の剣をデザイン化した図柄です。
中国では「唐獅子牡丹」なども邪気を払う吉祥文、瑞兆文だと考えられています。



中国には「歳寒三友」の松、竹、梅の他、「四君子」と呼ばれる梅、菊、蘭、竹が
徳の高い植物と考えられました。

吉祥文の多くは中国から渡来したものですが、富士山、橘、御簾、几帳、短冊、御所車、貝桶、熨斗、鼓などは日本独自の吉祥文です。日本人は中国人に比べると自然現象を図柄に取り入れています。これは日本人が自然と共存する思考を持っていることを表しています。また、海や川、水辺の題材が多いのは日本が海に囲まれた島国だからです。
伊万里焼の絵付けは圧倒的に中国の道教から採用した絵付けが多く、仏教柄は瓔珞文を除けばほとんどありません。このことから日本の農村の文化は道教が基本だったことが分かります。明治時代初期、日本人が「廃仏毀釈」運動を起こしたのは、一般庶民にとって仏教を、抑圧的な支配者層の宗教だととらえていたからだともいます。江戸時代まで日本の農民は圧倒的に道教文化の中で生活していたのです。

           

(4) 江戸時代の寺院は現在の市役所

江戸時代(明治3年調査)の人口比率を見ると神官が0,4%、僧侶が0,7%です。この人口調査を行った1870年2月、明治新政府が「太政官布告」で神仏分離政策を行うと、全国的に廃仏毀釈運動が起こり、多くの寺院や仏像が破壊されました。新政府は破壊などの布告をしなかったのに、なぜ庶民は人や仏像を破壊したのか。それにはいくつかの原因が考えられます。

[1] 江戸時代、寺院は寺受け制度の下請け機関で、幕府の命を受けて庶民層を支配していた。証明書の発行などは寺院に申請しなければならなったので、庶民は付け届けなど余分な費用を強いられた。
[2] 仏教は観念的な宗教で庶民生活とかい離していた。寺院は生活に即していない外来の宗教機関だったので農民や庶民から支持を得られなかった。また、仏教に従事する僧侶などが贅沢をしていたので怨嗟の的になった。
[3] 江戸時代を通してみると、室町時代以前のような優秀な僧侶が出現していない。本居宣長や平田篤胤など武士や上層町人に学問を修めた篤志家が多い。知的レベルでも仏教は庶民に受け入れられかった。
[4] 仏教は武士や上層階級の宗教で、江戸幕府が庶民から徴収した年貢を使って、過度な寺院援助を行った。飢饉が起きても寺院は慈善活動をしなかったので農民たちの恨みがたまった。
[5] 江戸時代は寺院と神社が同じ敷地内にあったが、神官の格は僧侶より一段下に見られていた。神官は庶民の感覚に近く、明治維新が起こった時、率先して仏教期間を破壊した。庶民の明治維新時の宗教革命が廃仏毀釈だった。

江戸時代を通じて、大名や儒学者たちは政治に関わろうとする仏教寺院を強く批判しています。特に大奥(桂昌院など)と結びついた寺院は大名たちの批判の対象となりました。「生類憐みの令」などは慈悲の心を日本人に浸透させた政策ですが、それが抑圧的な法令だったので、庶民は寺院を嫌がります。
明治初期に破壊された寺院や仏像は、現在、残っている物の3倍あったと言われています。庶民にとって豪華な寺院や仏像は、自分たちの資材を吸収して作った怨嗟の的だったのでしょう。しかし、すべての寺院が怨嗟の対象になったわけではありません。大名家の寺院は廃物稀釈でも保護され、一部の寺院は寺子屋など経営して故事などを教える教育機関として機能しています。
江戸時代の生活は儒教的な神道が思想を主流にして営まれていました。伊万里焼などの図柄を見ると仏教柄は使用されていません。これは寺院が忌諱、ケの行事に関わる宗教であることが要因でしょう。愛欲を排除する仏教思想は、江戸時代の日本人の生活に適合していません。「慶安のお触書」で幕府は農民に質素な生活を要求いているにも関わらず、将軍や寺院は派手な生活を送っている。これでは寺院が怨嗟の的になっても仕方ありませんね。
日本人は宗教よりも現実的な生活を重んじる傾向があります。江戸時代において神社は市場などは庶民の交流の場だったので、寺院よりも神社に親しみを感じていたようです。現在でも神社では露店市、お祭りなどが行われているのを見れば、そのことが理解できます。寺院の中でも浅草寺や清水寺などは中世的な寺院構造から離脱して近代的な単立宗となったので庶民に人気が出ました。また、真言宗は霊場巡りで、禅宗は茶道が庶民化して人気が出ました。このように考えると、日本人は宗教を生活の場で使い分ける国民であることが分かります。
伊万里焼の吉祥文は道教柄、日本の神道柄がデザインの多くを占めていますが、これを考察すると、様々なことが理解できます。図柄から時代を考察するのも古美術と接する楽しみの一つです。これらのことを踏まえて伊万里焼を楽しんでください。古美術品は消費財ではなく文化財、生活を豊かにしてくれるアイテムです。

             

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