このページは2017年10月7日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第41回 古美術と社会学シリーズ① 「古美術商とは何か 古美術商になるために」
(1) 明治時代以降の古美術商の変遷

骨董講座も5年目に入り、40回を超えました。骨董講座を始めた4年前、私は元気だったのですが、50歳後半になると身体のあちこちが痛くなり、運動能力も落ちました。古美術収集への情熱は健康に比例している気がします。心身が健康でなければ古美術品を収集できません。古美術収集が健康のバロメーターになるので、皆さん、頑張って古美術品収集をしてください。
私が古美術品に初めて触れたのは約30年前、仙遊洞を始めて20年目になります。その間、バブル経済、崩壊、平成大不況、IТバブル、リーマンショック、東北大震災があり、交通網の整備、家電のデジタル化、SNSなどの普及で社会が大きく変化しました。特にSNSの拡大はネットオークション、インスタグラムの出現は古美術業界の流通形態、営業形態の変化を促しました。
今回は「古美術商の歴史」、「1970年代以降の業界の状況や骨董商の活動」、「インターネットの普及後の古美術業界」、「これからの古美術業界」を、私の体験を中心にお話します。骨董の基礎知識を身につけたい人は市販の古美術入門や伊万里の専門書などを読んでください。
「第10回 明治以降の古美術品の発見」でお話ししたのですが、日本人が古美術品に興味を持つようになったのは明治時代です。それまで日本人は古美術品を道具、工芸品、美術品と捉えていました。黒船が来航し、文明開化が起きると、日本に来た外国人が日本の古美術品に目を向けます。当時、外国人が大量に日本の古美術品を購入した。その象徴がボストン美術館にある日本美術コレクションです。同時期、日本人は新しい時代が来たからと言って「廃仏毀釈」運動を起こし、大量の仏教美術品を破壊しています。庶民にとっては仏像、寺院、浮世絵は無用のものだったのでしょう。武家も同様、明治時代になると刀や鎧が無用になり、大名や武士は道具類を売って生活費にしました。それを取り扱ったのが「道具商」です。
1882年(明治15年)、東京国立博物館が開館、一部の文化人が日本の古美術の再評価を始めます。さらに1884年(明治17年)、来日したフェノロサが日本美術行政担当になると、日本の美術界に変化が起こります。それまで、日本の古美術を無視していた日本人が自国の美を再発見するようになった。フェノロサが岡倉天心らと共に、日本の古美術を世界に広めたのは有名な話です。
市井でも古美術品の取引が活発になります。1892年(明治25年)、東京の星ヶ岡茶寮で大きな入札会が行われ、古美術品の取引が始まり、「東京美術倶楽部(明治40年設立)」に発展します。その後、日本は大正時代の「成金景気」で豊かになり、古美術品の取引も一気に拡大しました。益田鈍翁や小林一三などの実業家たちが争うように古美術品を取集、茶会を開催します。東京には静嘉堂文庫(1892年)、大原美術館(1930年)根津美術館(1940年)などの基礎を築いたのが当時の財界人です。
1945年、日本が太平洋戦争で敗れると戦後の混乱が起こり、一時、古美術品取引も下火になりますが、1960年の「高度経済成長期」になると、日本も再び豊かさを取り戻し、人々が古美術品収集を再開します。この時期、五島美術館(1960年)、サントリー美術館(1961年)畠山記念館(1964年)などが相次いで開館しました。
戦前は古美術品は裕福な人の趣味、道楽と考えられていましたが、「高度経済成長期」になると、庶民も古美術品に目を向けるようになった。当時、有名な古美術品は企業が独占していたので、市場に出回る古美術品は品薄でした。そこで古美術商たちが目につけたのが六古窯や伊万里焼などそれまで古美術品とは考えられていなかったジャンルの品物でした。

         

(2) 1970年代に登場した新しい古美術商

1970年、大阪で「日本万国博覧会」が開催された後、「日本列島改造」ブームが起こり、全国各地で高層ビルが建設され、道路網の整備などの大規模開発が始まります。各地で古い家屋が取り壊され、地方の蔵にあった民芸品や伊万里焼などが都会に運ばれて、新しい商品市場を形成されました。この時期、古美術商の岡田宗叡や森田直、文芸春秋社に勤めていた小松正衛などがサラリーマン向きの骨董品の著作を著し、一般にも「骨董ブーム」が浸透します。彼らは茶道具や高価な工芸品だけではなく、民芸品や伊万里焼などの生活雑器、考古学品にも目を向け、古美術の概念を拡大させました。
「平和島 全国古民具骨董まつり」が始まったのが1978年、これを主導したのは全国を駆け巡って骨董品を集めていた骨董屋さんたちです。
さて、懇意にしていた3人の骨董屋さん、Kさん、Sさん、Тさんの話をしましょう。3人のうち1人は亡くなられ、1人は引退しました。1人は現役で活躍していますが、3人ともユニークな経歴の持ち主で、代々の古美術商とは違い、1代で古美術商になった人たちです。私はこの先輩方に大変、お世話になりました。私が若かった頃、先輩方も若く、骨董業界にも活気がありました。
Kさんは家がもともと呉服商でした。呉服の行商をして歩くうちに地方の道具屋に入り、その頃、一般から見向きもされなかった伊万里焼、そば猪口などを買い集めます。Kさんは1970年代に入ると趣味がこうじて骨董屋さんになり、伊万里ブームに乗って営業を拡大しました。「何でも鑑定団」の中島さんや森田さんなども近畿地方に行き、安価な伊万里焼や古民芸を大量に買って、東京に運んでいたのもこの時期です。それを面白がって買っていたのは都内に住むデザイナーやアーティストなどの美術関係者。都会人の方が田舎の骨董品を面白がったのです。高度経済成長期は一時、停滞しますがKさんの商売は順調でした。Kさんはバブル時代の2年間、月1回、近畿地方と東京を往復するだけで月200万円の純利益があったと言っていました。凄いですね。
SさんはKさんよりも一世代若い「団塊の世代」の骨董屋さんです。Sさんは徳島出身で油絵画家になりたくて上京、アルバイトをしながら美術予備校に通い、東京芸術大学を目指していました。予備校が新宿にあったのですが、ある日、新宿の夜店で骨董屋さんが高値で伊万里焼を売っているのを見た。Sさんは夜店で売られていた商品が田舎で安価で入手できることを知っていた。彼は徳島に帰り、伊万里焼や民芸品を仕入れて新宿の一坪の土地で売ってみると、商品は飛ぶように売れたそうです。Sさんは武蔵野美術大学に合格したのですが、東京芸術大学に行きたかったので、武蔵美にはいかなかった。Sさんは4浪になった時、芸大に行くのをあきらめ、古美術商になりました。面白いのはSさんが商売に選んだ土地です。Sさんはアメリカ人相手に商売をしようと考え、福生に店を構えました。団塊の世代らしいですね。
3人目はТさん。当時、Тさんは福岡でバンドをやっていました。福岡の有名なライブハウス「照和」にも出演していたそうです。メジャーデビューが決まり、東京に出てきたのですがバンドが空中分解、結局、メジャーデビューはできなかったそうです。他のメンバーは福岡に帰ったのですが、Тさんはそのまま東京に残り、ライブ喫茶を始めます。音楽が好きなのですね。Тさんの経営するライブ喫茶にはユニークな人たちが集まっていたのですが、その中に骨董さんがいた。Тさんはその友人から話を聞くうちに骨董に興味を持ち、自分でも商売を始めた。Тさんは現在でも音楽感覚、ライブ喫茶感覚で骨董屋さんを経営しています。団塊の世代前後には、音楽関係から骨董屋に転向した人もたくさんいます。現代写真家で有名な杉本博さんなどは古美術商から写真家になった経歴の持ち主です。
3人の経歴を見ると、それぞれ最初の職業は骨董業と関係ありません。彼らは代々、続いている骨董屋さんとは違い、独力で骨董屋さんになった人たち、1970年代に起こった「列島改造」ブームに乗り、流通業的に成功した人たちです。3人に限らず、骨董業界の人はユニークな人が多い。サラリーマンが嫌で骨董さんになった人もたくさんいます。
私の場合、初めて骨董屋に入ったのが28歳の時です。それまで現代美術狂いで骨董にも興味がなく、世の中に骨董屋があることさえ知りませんでした。しかし、フランスに行って古代、中世に興味がわき、歴史の勉強をするうちに古美術商になった。若い頃、自分が骨董屋になるとは思っていませんでした。1代で骨董屋を始めた人は、私と似たり寄ったりですね。
転職組が多いのは、大学の中に骨董学科、アンテーク学科がないことに原因があります。芸術学、美学の先生たちが縄張り争いで骨董学科、アンテーク学科を作らせない。政治の問題です。世界を見るとクリスティーズやサザビーズなど、アンテーク学校を経営している企業がたくさんありますが、日本には骨董学科、アンテーク学科が無いので、世界の潮流から取り残されています。これは骨董収集家が真贋も利かずに血迷ってしまう一因にもなっています。経済、実業に強い慶應大学などが主導して骨董学科、アンテーク学科をつくれば面白くなりそうなのですが、それは実現しないでしょう。

           

(3) 第3世代の古美術商

2000年代に入るとインターネットを使う、第3世代の古美術商が出現しました。彼らの営業形態は従来の古美術商と大きく異なっています。対面販売ではない、写真を駆使する。最近はネットオークションに出品しています。
ネットオークションが登場して、収集家は骨董屋に足を運ばなりました。直接取引ができるので中間マージンが安くなったのですが、商取引が素人の合意の上で成立するので真贋の間違いが多くなった問題なども起きています。
日本人は時代によって階層を形成し、その中で階層文化を創造する傾向が強いのですが、現在は店舗販売、骨董市、露店市の販売、インターネットオークション、インスタグラムを使った通信販売に区分され、収集家の間に住み分けが起っています。また、その3つを活用する古美術商もいます。
数年前まで、私もネットオークションで商品を仕入れていました。安価な商品を購入できた反面、毎月3万円分の偽物を買っていました。古美術商の私が騙されるくらいですから、素人は相当、だまされていると思います。ネットオークションをやらない年配の業者さんほど、新しい精巧な偽物を本物と思って扱っています。最近、私は骨董業界から遠ざかりました。原因の一つに、業界内に流通する偽物が増えたことがあります。業者市場では返品が聞かないので、以前よりも慎重に商品を購入するようになりました。
仙遊洞では店舗販売と通信販売を行っています。インターネットオークションをやらないのは手間がかかる割に利益が薄いからです。数年前までは景気が好かったので、ネットオークションも面白かったのですが、最近はの自作自演のテコ(自分の商品価格を自分で釣り上げる)が目立つようになり、収集家からもそっぽを向かれています。自作自演をするくらいなら最初から定価販売をすればよいのですが、ネットオークション以外に販売方法を試さない人が多い。
若い世代がどのように商品を売っているか、一つの例を挙げてみましょう。
これは岡山の業者Fさんの例です。Fさんは私と懇意な30代女性の雑貨屋さんで、古美術専門というよりは、新旧に関係なく、彼女の感性に合う商品を扱う古美術商です。最近、私の店に仕入れに来なくなりましたが、数年前までは頻繁に仙遊洞に来ていました。うちで仕入れて岡山に持って帰り、それを販売するのですが、その方法が今どきなのです。
彼女は生活全般にセンスが良いので、衣食住に関してインスタグラムをこまめに活用し、生活全般に関する提案します。私が見ていてもセンスが良く、カッコ良いなと思えるものです。彼女が写真を撮り、ホームページやインスタグラムにアップすると、仙遊洞に並んでいた商品が魔法にでもかかったように輝き出す。それらの商品を買うのは東京に人たちだそうです。うちでは売れないのに、彼女の手にかかると売れる。同じ商品でも売れるか売れないかは、センスと営業努力の問題ですね。不幸なことに仙遊洞には、商品を今風に見せる若い世代がおらず、現代風なセンスについていません。セレクトもしないで、店中、露店市のようぐちゃぐちゃです。ですから、骨董病の人は寄ってきますが若い子が寄りつきません(笑)。
以前は、このような状態から脱する努力をしたのですが、気が付くと元の状態に戻っています。店を始めた1998年頃の美しく商品が並んでいた頃が懐かしい……。
時代には時代の売り方があります。敷居の高かった古美術店の時代、屋内骨董市や神社での露店市が盛んだった時代、ネットオークション、インスタグラムの時代、販売方法は時代によって変わります。また流行も変化が速く、以前、人気があった商品が見向きもされなくなる場合もあります。1980年代、瀬戸の絵皿は大人気だったのですが収集家が減ったと、ネットオークションに大量に出品されるので人気が衰えた。切子コップも同様です。このような現象を分析すると、人気商品を古美術商が作っていることが分かります。しかし、現在はその流行を作りだす力がない。
1970年代から2010年頃まで活気があった古美術業界もSNSの拡散や流通形態の変化のせいで曲がり角に来ているよです。

         

(4) これからの古美術商

古美術業界だけではなく、日本の社会全体にも変化が起きています。数年前まで一流企業と考えられていた東芝やシャープの没落は時代を象徴する現象です。かつては世界第2位だった一人当たりのGDPも22位まで落ちた。これはフランスやドイツと変わらないのですが、労働時間を比較すると生産性が低い。給料を維持させるためにブラック企業が横行している状態です。
先日、日本に住んでいる人の72%が幸せだと感じているというアンケート結果が発表されました。これは価値観が多様化したことを意味しています。日本では生きて行くための最低の保証制度が充実しています。同じ階級の人の生活に影響を受けながら生活するので、自分の環境に満足しているというわけです。しかし、これを裏返せば貧富や社会階層が固定化され、流動性が無くなったということを意味しています。1人あたりのGDPは22位ですが、貧困率は世界の中で4位。これは日本の社会格差が広がっていることを意味しています。世代の賃金格差も大きく、年金制度自体も崩壊しています。このままではますます少子化が進み、内需の力、購買力の低下するでしょう。
問題を解決する方法は「生産性をアップさせる」、「外国人観光客を誘致する」、「税制などを見直して社会保障に充てる」などですが、各階級に甘んじている日本人が社会の改革に取り組むとは思えません。そうであれば個人的に価値観を変更するしかないでしょう。
2000年代、インターネットが普及した時期、日本の社会で「人それぞれ」という言葉が流行しました。これは日本人が多様な価値観を認める発言です。しかし、このような言葉を発すること自体、それまで日本に個人の価値観を認める文化が無かったことを表しています。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の、なあなあ主義。日本人は他人の顔色を窺い、周りの空気を読みながら生きています。これは自然災害などに対処する集団の知恵でした。それがグローバル化とインターネットの普及によって、一気に崩れ去った。最近では人の顔を見るより、スマホの画面を見ています。それと同時に、人に関心が無くなり「人それぞれ」さえ、使わなくなりました。現在は「アプリそれぞれ」です。
日本人の価値観が多様化した現在、古美術商の営業も多様化、住み分けを行っています。その形態は店舗販売、屋内骨董市、露店市、ネットオークション、ネット販売イベント企画など。これらの様式を組み合わせて骨董屋さんは活動します。
商売には全国一律の企画商品を売る商売と、個別の商品を売る商売があります。骨董業は後者で、再生産のできない商品を売っています。「この商品をのがすと2度と出会えませんよ」というのが骨董屋の口癖です。実際に私もまた出会えるだろうと思って売った商品には2度と出会うことができなかった経験が何度もあります。
1990年代、中国から大量の新発掘品が日本に流入しました。当時は次々に商品が輸入されるので、右から左に商品を売っていたのですが、売った商品は2度と私の目の前には現れなかった。と、いうよりも現われても価格が10倍のなったので購入できません。あの時の在庫を持っていれば一財産築けたのに……。しかし、商品を買ってお客様が喜ぶのを見るのが古美術商の商売なのですから後悔はしていません。私が売った商品は現在でもお客様の家で、お客様と一緒に楽しく生活していることは間違いありません。
1970年代から数十年間、古美術商は流通業の一環を成していましたが、ネットや流通業の発達によって古美術界は流通業的な要素だけでは通用しなくなりました。これからの古美術商は、写真や文章を使ったコミニケーションを取ることができなければ一家を成せないと思います。流行する商品もなくなった現在、個別対応する努力も必要でしょう。お客様とコミニケーションを取るためには、双方の知識や情報の交換が必要です。以前のように「自分は目利き」と高飛車に構えていたのではコミニケーションは取れません。ネットオークションで虚しい自作自演、テコをしているような人たちになっては古美術取集の楽しみも不健全になります。自己の価値観でがなく、古美術商とお客様の双方が古美術品の価値を創造する時代になっている。私自身、現在も骨董屋として商売をしていますが、関心は新しい古美術観を創作する方に向かっています。骨董品を考察、研究し、販売するのが古美術商の仕事です。果たして、仙遊洞はこれからどこに向かうのでしょう。

       

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