このページは2017年2月4日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第35回 「近世シリーズ -2- 江戸時代前期の文化と美術」
(1) 江戸時代前期の概要

江戸時代とは、1603年(慶長8年)、徳川家康が江戸に幕府を開いた時から、徳川慶喜が大政奉還を行う1868年(慶応4年)までの265年間をさします。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、江戸を本拠地として、江戸幕府を開きました。1615年、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、幕府は武家諸法度、禁中並公家諸法度などの政策を打ち出し、法治体制を確立、「天下泰平」の世を出現させました。
平和で安定的な政権が確立されたことにより、軍事行動は消滅、武士たちは新田開発などの生産業に携わるようになり、日本のGDPは大きく発展します。江戸時代初期、1500万人だった人口は幕末には4000万人に膨れ上がっていることを見ても、江戸時代の経済成長の様子がうかがえます。
江戸時代を大きく分けると1603年の開府から、鎖国が完成して幕藩体制が確立した1639年(寛永16年)までを初期、享保の改革までを前期、寛政の改革までを中期、黒船来航までを後期、幕末を晩期と分けることができます。これは伊万里焼の時代様式とぴったり一致するので、伊万里焼の生産者が時代に敏感だったことを表しています。逆に言うと、幕府の政策によって伊万里焼の生産様式が変更されたといってもよいでしょう。今回は、江戸初期から享保の改革まで、前期の話をするのですが、その間の将軍は家康、秀忠、家光、家綱、綱吉、家宣、家継、吉宗です。家康、秀忠、家光、綱吉、吉宗は個性的な将軍なので認知されていますが、家綱、家宣、家継になると何をした将軍かをはっきりと答える人はいません。しかし、これらの将軍の時代、有能な老中や側近がおり、政治は安定していました。ここで各将軍の時代の概要を確認しておきます。

1代 徳川家康(在職1603年~1605年)
   江戸幕府開府。大坂の陣で豊臣家を滅亡させる。
2代 徳川秀忠(1605年~1623年)
   1615年、武家諸法度、禁中並公家諸法度などを制定、幕府の法治体制を確立する。
3代 徳川家光(1623年~1651年)
   1939年、鎖国体制を確立。慶安のお触書を施行。
4代 徳川家綱(1651年~1680年)
   由比正雪の乱。領知の判藻の交付。河村瑞賢、東西航路開発。
5代 徳川綱吉(1680年~1709年)
   天和の治。元禄文化が花開く。赤穂浪士討ち入り事件。
6代 徳川家宣(1709年~1712年)
7代 徳川家継(1713年~1716年)
   5歳で就任。新井白石、正徳の治。
8代 徳川吉宗(1716年~1745年)
   享保の改革。

初期から前期の時代を展望すると、反体制派(乱の処理、鎖国の実施)の一掃、幕藩体制の確立、航路開発(北前船)、水路開発(箱根、玉川上水の設置)による産業の育成、上方文化の興隆と江戸への事業導入(享保の改革)が行われました。文化に目を向けると、浮世草子、浮世絵による庶民文化の発展、明暦の大火後の江戸の拡充、徳川綱吉による「生類憐みの令」の実施による殺傷の禁止(世界初の動物愛護条例)があげられます。
元禄時代、北前船、街道の整備によって、経済は急成長します。四木(桑、漆、檜、楮)、三草(紅花、藍、麻、木綿)などの商品作物の栽培が進み、農業の他、漁業、繊維業、窯業なども独自の発展をして、日本に貨幣文化が根づきます。それはやがて問屋制家内工業に移行、日本の殖産業の発展に大きく貢献し、内需拡大型の経済が生まれます。18世紀初頭、京都と大阪は約40万人、江戸は約70万人の人口を抱える世界でも有数の大都市でした(当時北京65万、ロンドン55万、パリ53万)。当時の主な街道である東海道は世界一、往来の激しい街道でした。

           

(2) 江戸の発展

江戸時代の社会が安定した要因は「鉄砲規制」以外に、各階級の監視システムを充実させたことにあります。監視は権力者である将軍の性行為にまで及びます。幕府は城郭の改築、管理などを許可制にして、大名の行動を監視しました。幕府に無断で武器を蓄え、城を改築すれば、藩はお取りつぶしです。結果、多くの大名家がとりつぶされ、由比正雪の乱も起きましたが、この後、200年間、日本では大きな騒乱は起きていません。
城郭の可視化は庶民に権力の所在を認識させ、城下町に住む人々に地元意識を植え付けました。1637年(寛永14年)、江戸幕府は百姓の「五人組制度」を強化、さらに寺請制度や本末制度を制定、宗人門別帳などを作成、庶民の監視を強化します。そのような寺院の在り方は幕府の統治体制を法的に担うことになり、本来の宗教活動から大きく離れて行きました。1658年(明暦4年)、幕府は都市での火付けや盗賊を取り締まるために、木戸番を設置、夜(四つ時、午後10時以降)の監視に当たります。盗賊や狼藉者が現れた場合、木戸は閉ざされ、人々の往来は制限されました。木戸の傍には物見櫓があり、出火を監視しました。
このように記述すると、日本は窮屈な社会だったように思えるのですが、意外と「目こぼし」が多かったことも判明しています。決められた年貢さえ納めておけば、比較的、その他の農作の作付けは自由だったようです。神との契約を重んじる一神教世界では考えらないことですが、江戸時代は幕府の制定法より、慣習法が優先されました。そのような状況を作り出した背景には、日本人の教育水準の高さがあります。日本人は強制的な法律よりも、日常の経済活動を向上させることにエネルギーを注ぎました。
江戸幕府の運営が安定した17世紀末、5代将軍・徳川綱吉は「生類憐みの令」を施行します。これは人と動物を平等に扱う政策として注目されます。元禄時代以前、人や動物の辻斬りなどの暴力行為は日常茶飯事でした。幕府は感情に任せて暴力を抑制するために、「生類憐みの令」を制定したのです「生類憐みの令」は動物保護を目的に制定されたように考えられていますが、これは社会的弱者保護のための法令でした。この法律が施行されたことによって、日本人の生き物、弱者にする視線が変わります。この時期、労働力は生産性に直結したので、捨て子対策なども万全でした。木戸内に捨てられた赤ん坊は、その木戸に住む町人たちの手によって育てられました。子育てのできない母親は、裕福な町の木戸内に捨て子をしていたようです。
同時期、大都市では「経世論」や「本草学」の本が盛んに出版され、それが日本人の関心を引くようになります。「経世論」は、現在の経済学。江戸時代前期の経世論は、「封建的な小農体制の維持」、「勤倹節約による領主財政の安定化」が目的でしたが、太宰春台は実際の状況に対応できないので「貴穀賎金論」や「尚農抑商策」を著し、幕府側から積極的に市場経済に対応すべだと説いています。
理系の学問である本草学(薬学、農学など)は、江戸時代初期、李時珍が1596年に著した「本草綱目」が輸入された時から始まります。
1709年(宝永6年)、貝原益軒が「大和本草(刊)」を刊行、この本は明治時代に洋書が輸入されるまで、日本で最高峰の生物書、農学書で、本草学の領域を農学、生物学、博物学まで広げた名著でした。益軒は一般人でも理解しやすいように図版を挿入、仮名を使用して実用性を重視しています。「大和本草」は1697年(元禄10年)に刊行された宮崎安貞の「農業全書」と共に、日本の農業に大きな影響を与えました。2書の刊行によって各地の大名たちは刺激を受け、地域性のある農作物の生産を奨励します。
1720年(享保5年)、幕府は「享保の改革」に伴う殖産興業の育成のために、キリスト教関係以外の洋書の緩和令を施行、これにより、学者たちは学問の領域を広げることができるようになります。。洋書に影響を受けた益軒の後継者たちは、師の意思を継いでモノグラフィックな図譜を多数、洋風な本草学書を刊行しています。これらを考察すると、江戸時代中期には日本人が現実的な政策に目を向けていたことが把握できます。
・江戸時代初期の芸術は小堀遠州、本阿弥光悦などによって展開された。
・元禄時代、文芸では井原西鶴の浮世草子、近松門左衛門の浄瑠璃、歌舞伎などがヒット、絵画では尾形光琳、菱川師宣、陶芸では野々村仁清、尾形乾山が登場、華やかな感じの絵を描いて一世を風靡した。

         

(3) 伊万里焼の展開

この時代、茶道具、軸、漆器、奈良絵など様々な美術品が作られますが、江戸前期から中期にかけて、庶民に広がったのが伊万里焼です。それまで磁器を使ったことのなかった日本人は、伊万里焼の流通によって、吸水性のない磁器の素晴らしさを堪能します。伊万里焼は生産量も限られており、高級品だったので、簡単に使用できる物ではありません。しかし、時代を経るにつれ、北前船の発達と共に日本全国に販路を拡大していきます。講座の最初にお話ししましたが、江戸時代の治世は伊万里焼の様式とマッチしています。簡単にそれを比較してみましょう。

徳川家康と徳川秀忠の時代(1603年~1623年)
有田で磁器の生産が始まるが、生産量は少量。
徳川家光(1623年~1651年)の時代
初期染付伊万里の生産が軌道に乗り、色絵(1643年、柿右衛門が色絵付を始める)、九谷も登場する。
徳川家綱(1651年~1680年)の時代
伊万里焼に藍九谷、藍柿右衛門様式が導入され、生産量が飛躍する。
徳川綱吉(1680年~1709年)、徳川家宣(1709年~1712年)、徳川家継(1713年~1716年)の時代
オランダ東インド会社によって、元禄伊万里焼がヨーロッパに輸出される。
徳川吉宗(1716年~1745年)の時代
伊万里焼の輸出が滞り、販路が国内に向けられる。

もちろん、この時代は伊万里焼だけが作られたわけではありません。陶磁器の主流は茶道器で古田織部の時代は織部焼が、小堀遠州の時代は遠州七窯と呼ばれる窯が活動しています。それに瀬戸焼、丹波焼、常滑焼などが雑器を製作しています。これらの陶器と伊万里焼の違いは地方だけの作品と全国的な作品との違いです。茶道具などは主に藩内で使用されるのですが、伊万里焼は全国的に流通しました。それに伊万里焼の様式をみると、時代判別の基準が可能となる。備前焼や唐津焼などは時代を判別するのは素人には難しい焼物です。とはいえ、最近は伊万里焼の模造品も多いので購入時には気を付けてください。
一般的に日本での磁器生産は李三平などの朝鮮人陶工が作り始めたと言われています。これに関しては問題ありませんが、本当の意味での初期の磁器生産は少量で、現在、我々が初期伊万里と呼ぶ物は景徳鎮から来た陶工の指導の下、日本人職人が作ったものだと考えられます。その理由は朝鮮人陶工が絵付けに慣れていないことから推測できます。当時、朝鮮では藍は貴重品で、めったに使用していません。李朝は白磁自体を重んじたので染付が発達しなかったのです。これは李朝が鎖国政策をとっていたことに原因があります。一方、日本は鎖国をしたといってもオランダ船などが頻繁に長崎にやって来た。それの各藩も幕府に内緒で密貿易をしていました。だから、比較的、自由に外国の物産や情報を入手することができた。享保時代、オランダから長崎経由で輸入した南蛮本は翌年には、そのコピーが江戸で出回っていたといわれています。
骨董講座「伊万里焼」の時にも話ましたが、青手九谷などは鄭成功などの明の遺臣が清との戦費調達のために有田で作らせた焼物だと考えられます。青手九谷を作った時代、同時に有田では染付伊万里も作られました。
16世紀後半、南蛮商人が扱う日本からの輸出品は螺鈿細工の漆器でしたが、17世紀後半になると、元禄様式の色絵の伊万里焼が輸出商品の主流となります。当時、ヨーロッパでは磁器生産が行われていなかったので、伊万里焼色絵はヨーロッパでは高級品でした。1709年頃、ドイツのマイセンで磁器生産が行われるようになるまで、このような状況が持続します。しかし、マイセンで磁器生産が始まったのと、中国景徳鎮製の低価格の作品がヨーロッパに輸出されるようになると、伊万里焼のヨーロッパへの輸出は滞ります。結果、伊万里焼の販路は国内に向けられることになり、国内用の伊万里焼が生産されるようになります。
元禄時代まで輸出用、貴人用(藍柿右衛門、色絵柿右衛門)だった伊万里焼は、金持ちなら購入できる商品となります。これも享保の改革の成果です。
陶磁器以外に江戸前期を代表する古美術品には甲冑、刀剣類、仏像、絵画などがあります。この時代の古美術品は比較的、入手しやすいので、この時代に興味あるのであれば、店主にお勧めの品物を聞いてみましょう。古美術品に時代の特色が出ていれば、日本の近世を楽しむことができるでしょう。

             

(4) 享保の改革

1713年、徳川家継が5歳で将軍に就任しますが、その3年後に死去します。それによって徳川家康から続いてきた徳川宗家の血筋は絶えることになります。幕府は家の血筋が絶えた時は、尾張藩か紀伊藩から後継ぎを選ぶように準備をしていたので、1716年、紀伊藩の藩主だった徳川吉宗が将軍に就任します。その後、将軍家は吉宗の子孫で占められることになります。
1716年、徳川宗家以外の出身者である徳川吉宗が将軍に就任すると、彼は譜代大名に遠慮することなく、農本主義を中心とした享保の改革に取り組みます。
有名な改革に「目安箱」の設置があります。目安箱の投書から小石川療養所、町火消の整備、新田開発などが実現しました。
吉宗が改革の中心に置いたのは米価の安定です。当時、日本では米が経済流通の中心でしたが、貨幣経済の拡大や上方商人の思惑によって、米価は不安定でした。俸禄を米で支給(毎年、価格は下落した)される旗本・御家人の困窮が顕著で貧困に陥っていたのです。享保の改革は新田開発により米の増産、定免法(5年、10年の平均で納税額を決める)、上米令を採用、各大名の自治権を拡大しました。結果、幕府の権威は弱まりますが、各藩で商品作物の開発が拡大、実質的な日本人のGDPは拡大します。このような状況に各藩が「農業全書」や「大和本草」が役立ったことはいうまでもありません。しかし、吉宗が採用した倹約令は、一方で経済的な停滞を招き、飢饉と相まって、武家経済の不安定化、不況の慢性化を招くことになります。
1726年(享保11年)、朱子学批判を行った荻生徂徠が吉宗に「政談」を提出、この本の影響によって、吉宗は政治と宗教道徳を分離、日本に経世学(経済学)の思想が根付きました。さらに、吉宗はキリスト教以外のヨーロッパの本の輸入を解禁したので、自然科学が日本人になじみの深い学問になっていきます。
享保の改革は既成の権威を重んじる藩にとっては無用な改革でしたが、経世学の重要性を認識した藩の財政は拡大、従来の石高だけでは藩の実力が測れない状況が生まれました。この改革の結果、藩にも勝ち組と負け組が出現しました。
ところで、東京には「江戸前」という言葉があります。本来は江戸の前の海を示す言葉でしたが、享保の改革によって上方と対比される文化の言葉をして使用されるようになります。当時、商業の中心は上方にあり、特に日本酒、菜種油は上方が流通の中心を担っていました。享保の改革を実行したきっかけは、上方の火事で江戸に紀州産の灯明用菜種油が入ってこなくなり、江戸の夜が真っ暗になったことでした。夜が暗くては物騒なので、吉宗は房総半島で菜種を栽培させました。それによって江戸の燈明用菜種不足は解消されたようです。享保の改革によって関東では菜種栽培、濃口醤油の生産が拡大、江戸では濃口醤油を使った寿司、ウナギの蒲焼(1700年)が誕生します。ちなみに濃口醤油(小麦を使用、1640年代)と薄口醤油(高濃度の塩を使用、1666年)の違いは、その醸造法にあります。
濃口醤油の発明は、料理に革命を起こしたのですが、改革を行っても自前で生産できないものがありました。それが日本酒、清酒です。当時、江戸の人たちが稼いだ金は、上方の日本酒(寒造りを行う)に費やされ、多くの金が上方に流れたといわれています。それで吉宗は日本酒を関東でも生産できるように命令を出します。しかし、関東での日本酒の生産は一部を除いて、ことごとく失敗。清酒だけは、上方からの輸入に頼るしかありませんでした。失敗した原因は、関東ローム層を流れる水の質(硬水)と杜氏不足。山間部に行くと清酒作りは可能でしたが、江戸の人々に供給できる生産量は確保できなかったようです。ちなみに上方から江戸に送られた酒を「下り酒」と呼び、下らないの語源となっています。
普通、日本人は和食といえば京料理と思いがちですが、、当時の本を読むと、上方の人が江戸前の寿司やうなぎの蒲焼、てんぷら(江戸の三味)に憧れを抱いていたと記されています。また、幕末の書物に、上方は鯛ばかりを食べて、刺身文化がないと書かれています。上方の人たちは江戸の料理の方を食べたがっていたのですね。江戸は海が近く流通網も発達していたので、新鮮な魚を確保することができ、濃口醤油の発明と相まって、庶民が安価でも美味しい料理を口にできた、それが江戸前の魅力。京都は海から遠いので、野菜中心の料理が中心。日本人は京料理が和食の代表だと考えがちですが、外人にとって和食といえば、すしが代表的な食べ物です。
享保の改革の後半、伊万里焼は庶民に手の届くものになります。特に北前船のルート上の町、新鮮な魚介類を食する町では、伊万里焼の需要が拡大します。京都で伊万里焼の需要がなかったのは、京都では新鮮な魚介類が入手できなかったとこが理由に挙げられます。北前船が立ち寄る町では現在でも、他の土地に比べて伊万里焼の在庫が豊富。ですから、伊万里焼は海沿いの町で消費されたと考えればよいでしょう。

             

(5) まとめ

これまでざっと江戸時代前期のお話をしましたが、この時代を把握するコツは、

①徳川幕府の法治主義によって、全国的に統一感が生まれた。
②北前船などの航路、街道の開発によって、全国に流通網が張り巡らされ、消費の流通が加速した。
③貨幣経済の拡大によって、商人の力が拡大、その結果、町人文化が栄えるようになった。
④徳川綱吉の「生類憐みの令」の思想が流布され、日本人に動植物に対する愛護の気持ちが生まれた。
⑤元禄時代に編纂された「農業全書」や「大和本草」の流布によって、日本人の経世学の概念が生まれた。
⑥享保の改革によって、江戸前の概念ができた。

この時代を簡単な言葉で表せば「中世から近世への移行期」、「農本制から商業主義への転換期」、「自治領の認識の転換期」だということが挙げられます。政権が安定しても、経済的に無能な領主へ庶民は激しさを増します。それが日本人に近代商業主義が何かを認識させるきっかけになったのは間違いありません。 最後になりますが、ここは東京です。都内に江戸の名残の場所、江戸東京博物館がたくさんあるので、是非、足を運んでください。


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