このページは2017年1月14日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第34回 「近世シリーズ -1- 安土桃山時代の文化と古美術」
(1) 安土桃山時代とは

あけまして、おめでとうございます。今年も独断と偏見の骨董講座が始まりました(笑)。滅茶苦茶な話をしますが、皆さん、心穏やかに聞いてくださいね。よろしくお願いいたします。
安土桃山時代は、織田信長が室町幕府を滅ぼして権力を握った1573年から、豊臣秀吉の時代を経て、関ヶ原の戦いがおこった1600年までの時代をさします。
安土桃山時代の名称は、信長が創建した安土城、秀吉が創建した桃山(秀吉の隠居場、伏見)から採られています。美術史では安土桃山時代の終わりを1616年(慶長20年)とします。この間、戦国時代が晩期を迎え、秀吉の「天下統一」によって、日本に中央集権的な秩序がもたらされ、京都、大阪を中心に日本の政治、文化が大きく転換します。戦乱は1615年まで続くのですが、一応、日本全体の混乱は終息したといえるでしょう。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など名だたる武将、千利休や狩野永徳などの芸術家が活躍する時代なので華々しさがあり、日本史の中でも人気のある時代です。しかし、英雄物語やテレビドラマの陰に隠れて、庶民への関心が薄らぎ、実態が伝わっていない傾向があります。英雄物語とは違う安土桃山時代の話を今回、します。最初に16世紀末のおさらいをしておきましょう。

1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて入京します。その後、2人は仲たがいし、1573年(元亀4年)、足利幕府は滅亡します。1576年(天正4年)、安土城の造営が始まり、信長は天下統一に大きく近づきます。しかし、1582年(天正10年)、信長は家臣の明智光秀の謀反によって滅びます(本能寺の変)。
その後、山崎の戦い、賎ヶ岳の戦いを制した豊臣秀吉が政権を引き継ぎ、1590年(天正18年)、天下を統一、全国で検地、刀狩を実施、日本に安定をもたらしました。1592年(文禄元年)、豊臣政権は朝鮮半島に出兵、文禄・慶長の役を起こし弱体化、秀吉の死去後、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が権力を握ります。文化的には、安土桃山時代に南蛮文化が流行、茶の湯(侘び茶)、城郭建築、障壁画の流行、朝鮮陶法の伝来など、混合文化形成期でした。時代文化を一言で表せば、「絢爛豪華な文化の時代」ということができるでしょう。
安土桃山時代は戦国時代、室町時代と重なっているので、時代区分の難しいのですが、そのきっかけとなったのは1543年(天文12年)、種子島にポルトガル船が鉄砲を持って来航で間違いないでしょう。この時期、世界は大航海時代で、日本もその渦に巻き込まれました。東西の出会いによって、世界的に近世の扉が開かれたのですね。

           

(2) 西洋文明との出会い -初期市民社会の出現-

「鉄砲記」によれば、1543年、種子島に漂着した中国船に乗っていた南蛮人の2人の船員、牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタダモッタ)が鉄砲の実演を行い、種子島時堯がそのうち2挺を購入したとされます。種子島時堯は、刀鍛冶の八板金兵衛らに命じて鉄砲の構造を研究させ、1年後には数十挺の鉄砲を製造しました。その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲製造を習得、帰国後、近畿を中心に鉄砲製造は始まります。当時、日本は戦国時代だったので、各大名は鉄砲に目を付け、鍛冶に大量の鉄砲製作を依頼しました。伝来当初、猟銃だった鉄砲は年々、実戦用に改良され、1975年(天正3年)に、織田信長は「長篠の戦い」で数千挺の鉄砲を実戦で使用したといわれています。実際に鉄砲が戦場で使用されたかは不明ですが、当時の状況を考えると、現在の核兵器のように戦力差を見せつけるうえで鉄砲は重要な武器だったと考えられます。
近代に入ると「日本人はコピーが上手で猿真似だ。オリジナリティがない」と非難されましたが、日本にもオリジナリティのある物(刺身、扇子など)はたくさんあります。日本人が外国から伝来した鉄砲を模倣、製造したのは需要があったからで、
50年後、日本は世界で有数の鉄砲保有国でした(数10万丁、当時のイギリスの鉄砲保有数は5千丁)。アメリカ人歴史学者のノエル・ベリンは「鉄砲を捨てた日本人」の中で、「日本人は鉄砲の大量生産に成功した。16世紀末、日本は間違いなく世界のどの国よりも鉄砲を大量に持っていた。この時期、イギリス軍全体が支持している鉄砲数は、日本の有力大名の所持数よりも少ない」と分析しています。「猿真似」も、ここまで徹底すれば凄い。それを、ただの模倣とするのは、歴史を知らない人の大きな勘違いです。
当時の日本の文化レベルが高かったことは、イエズス会のルイス・フロイスの「日本記」を読めば把握できます。宣教師オルガンティーノ・グネッチは、「宗教を除けば、日本の文化水準はイタリアよりも高い」と記しています。日本が近世や近代において、列強国の植民地にならなかったのは、日本の文化・技術水準が高かったことが要因です。日本史の教科書を読むと、戦国時代は無益な戦争ばかりしていたように記されていますが、それは武士に関する記述で、庶民は戦争よりも製造業に携わっていました。現在でも、それは変わりません。手先の器用な日本人が生まれたのは、安土桃山時代といってもよいでしょう。江戸時代初期、日本のGDPは、世界のトップレベルだったことからも証明できます。

1549年(天文18年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが布教のために来日(鹿児島に上陸)しました。ザビエルは日本人を「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡 3』P96より)と記している。遠くから異文化を運んできたザビエルは各地の大名に手厚く持て成されました。後世、ザビエルはキリスト教界で聖パウロを超える信者を獲得したとされ、偉大な聖人とみなされるようになります。
1563年(永禄6年)、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが横瀬裏(長崎県西海市)に上陸しました。フロイスは語学と文筆の才能に優れた宣教師で、日本の様子を「日本史」に記しています。彼が著した「日本史」は現在、戦国時代末期の日本の状況を知る上で第1級の史料です。1569年(永禄12年)、京都の二条城の建築現場で織田信長と初めて会見、信長の信任を得て、畿内での布教を許可されます。信長はフロイスたちに好意を寄せており、フロイスも異教徒の信長を終始好意的に描いています。
「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初、法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」
ここに現実的な信長の考え方が端的に表わされています。信長は、イエズス会が献上した地球儀、時計、地図などを見て、「理にかなっている」と語っています。
フロイスの目には、天下統一を目指した信長が「彼がきわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない」として映ったのでしょう。
ところで信長は日本で初めて町に新しい地名を付けた人物です。その代表が岐阜と安土。岐阜の由来は信長のブレーンだった沢彦が「岐山(周の文王が天下泰平の基礎を築いた山)と「曲阜(儒学発祥の地)」を合わせて岐阜とした説があります。
しかし、私は岐阜にも安土にも「十」の字がついていることろから信長がキリスト教の町を作ろうとしたことを想像しています。特に「阜」の字に、ゴルゴダの丘という字が見え隠れします。

           

(3) 織田信長の時代

織田信長(1534年~1582年)は戦国時代後期、尾張で生まれました。信長の家計は尾張守護・織田氏の中でも庶流でしたが、父・信秀の代に力をつけ、尾張を統一します。信長は下剋上の社会の中で、実力で領地を広げていく父の姿を見て育ちました。家督を継いだ後、「桶狭間の戦い」で今川義元を打ち取ると、婚姻により同盟、天皇や将軍の権威の利用し、商業政策の充実などを図って、室町幕府を滅ぼし、畿内で中央集権的な政権を樹立しますが、1582年(天正10年)、家臣・明智光秀の謀反によって暗殺されます。
本能寺の変が起こった理由については、さまざまな説がありますが、私は、明智光秀は自ら、室町幕府に代わる新しい幕府を創設、将軍の地位に就くために信長を暗殺したと考えています。信長は天皇家から将軍職就任の打診を受けますが、それ無視した。信長が将軍職を受け入れ、幕府を作っていれば、皇室を重んじる光秀に暗殺されることもなかったでしょう。では、なぜ、信長は将軍職に就任しなかったのか。それは彼の眼が大陸に向けられていたからです。信長は日本を統一した後、李氏を倒して、高麗王朝を再興しようと考えていた。歴史見ると、南宋の僧たちが来日して南宋復興を、17世紀には鄭成功が明を復興するために徳川幕府に援助を求めています。私見では織田信長のブレーンの中には高麗王朝の末裔がいたと考え提案す。そうでなければ、キリシタンのブレーンがいた。岐阜にも、安土にも「十」の字が入っていますね。これは何を意味するのでしょうか。これはいつものように私の自説ですから、無視してください(笑)。
信長が推し進めた政策は、中世的な既得権益から脱却を目指したもので、日本を近世に導く道筋をつけました。その政策は中世的な権威を持った人々(室町幕府の守護大名、宗教勢力など、)から反発を受けます。信長の思想は清潔や勤勉をモットーとするプロテスタントに近いので、ルターの「宗教改革」になぞらえると、信長は「社会改革」を行った人物といえるでしょう。信長が暗殺されなければ、世界で初の「絶対王政」が日本で実現していた可能性も高いのですが……。
信長の政策で目を引くものをあげると、「街道などのインフラ整備」、「京都枡の採用」、「政教分離」などがあります。街道整備が推進された結果、関所は撤廃され、街道筋の治安が安定、人々の往来が盛んとなって商業活動が活発化しました。また、「京都枡の採用」は年貢や物流の基準となり、「地方升」の許認可権を持っていた「座(大商人や寺社勢力)」から権益を奪い、経済の統一性が保たれるようになります。さらに信長は延暦寺など、政治に介入する宗教勢力の解体を行い、政治と宗教の分離を図ります。そのような信長の政策が実現するのは、江戸時代前期です。
文化面に目を向けると、信長が活躍した時代、芸術は男性的で、安土桃山時代の文化・美術を表せば「雄大・壮麗にして豪華・絢爛」。中世までは宗教思想が文化を形成していましたが、この時代、世俗的・現実的な作品が数多く生み出されます。それを担ったのが、戦乱の世において権力や富を一極集中させた天下人の周辺に集まった人々です。彼らは戦争や貿易によって巨大な富を蓄え、それを社会に還流させることによって好景気を生み出しました。積極的な自由経済が生んだ文化で、次回のアメリカ大統領に就任するトランプ氏の政策と真反対。と、すれば、トランプ氏は、どちらかといえば中世的、封建的な人物ということになります。この時代、庶民も外交的で、都市の住民は町を歩く南蛮商人や宣教師の服装や商品を見て、異国や世界を感じ、それをファッションや意匠に取り入れます。その様子は詳しく「南蛮人屏風図」に描かれています。西洋風の襟をつけた日本人がたくさんいる。このような混合文化の状況は、信長が創建した安土城に見ることができます。信長は庶民が見あげる場所に豪華な城を建設、それを権威の象徴としました。信長は入場料を払わせて、安土城を庶民に開放しています。また、信長は豪華な馬揃えを京都で行い、人々の関心を集めました。現在でいうところのファッションショー。庶民はそれを見て、権威の変質を実感したでしょう。

織田信長が明智光秀に襲われた理由は、信長が日本人の持つ女性性を無視したことに原因があります。古代から京都は日本の祭祀を司る天皇の座でした。日本人には、天皇家にまつわる祭祀には男性が口出ししないという不文律がありました。それは、日本人の無意識層に、女性の領域を起こしてはならないという慣習があるからです。日本の最高神はアマテラス、女性ですから。しかし、信長はそこに男性原理を持ち込もうとして、光秀の反発を買った。朝廷が信長に男性的な征夷大将軍の地位を授けようとした時、それを受けていれば、光秀は謀反を起こさなかったはず。征夷大将軍を信長が拒絶した時、光秀のジェンダーに異変が起こります。そして、信長と光秀のジャンダーが逆転、光秀の男性性が目覚め、信長を見下すようになります。信長が京都の外での統一行動に邁進していれば、光秀も大人しくしていたのですが、信長は都で女性化した。光秀には、それが天皇家に代わる存在に映り、暗殺を決行したのです。
宣教師のザビエルは日本に来て、キリスト教においては重罪とされた衆道(同性愛、男色)が公然と行われていることに驚愕しています。キリスト教の教義は「父と子と聖霊」で表わされますが、当時、日本人は「父と子と愛人」の考え方が流通していました。信長自身も相当な男色家で、男女の性差を認識している常識人の明智光秀には、超人的な信長の精神構造が理解できなかったと考えられます。衆道にスポットを当てた歴史など大学で講義できないので、仕方なく、骨董屋で話している次第です(笑)。もう少し、歴史に人の心理学的要因を導入して考察すれば面白いのですが……。
歴史にもしはありませんが、もし織田信長が生きていたら、明と交渉をして、朝鮮半島に高麗王朝を復興させていたかもしれません。これは、あくまで仮説ですが……。

           

(4) 豊臣秀吉の時代

信長に比べると、豊臣秀吉は女性的な文化の創造者です。秀吉は子宮とも言える密室空間「茶室」を中心に、会話の文化を千利休と共に創造します。秀吉は信長と違って男色を好みませんでした。それは信長を暗殺した光秀に通じる感性です。秀吉の感性は社会的に女性の地位を向上させました。17世紀末、秀吉の妻である北政所や側室の淀君が歴史に登場することからも把握できます。男性的な信長の時代、女性の活躍は見られません。そのように考えると安土文化は信長の男性性、桃山文化は秀吉の女性性が発露された文化であることが理解できます。
この時代の美術を代表する絵画に「洛中洛外図屏風」があり、絵の中に生き生きとした庶民の姿や生活が描かれています。庶民の生活を主題にするのは、プロテスタント系絵画の特徴です。西洋では庶民の生活を描いたブリューゲルやレンブラントがいますが、両者ともプロテスタント色の強いフランドルの画家です。江戸時代に入って、鎖国の日本がオランダと国交できたのは、両国が宗教を規制し、市民社会を形成していたからだといえるでしょう。我々は安土桃山時代を考察する時、偉人たちの歴史よりも、もっと市民社会に目を向けて歴史を考察する必要があります。それが、これからの日本人を形成する教科書の主流となるはずです。

         

(5) 安土桃山時代の古美術品

古美術商が扱う安土桃山時代の古美術品の代表は、何といっても陶器です。備前や常滑は量があるので、比較的、入手可能ですが、大人気の唐津焼となると伝世品の入手は不可能。目の効かない古美術商たちが、桃山時代の唐津焼などと言って売っている物の半分は偽物です。キズ物や発掘品であれば本物もありますが、完品となると、夢のまた夢。唐津焼のぐい飲みが欲しいなどとは思っていても、口に出さない方がよいでしょう。信用のおける古美術商からの購入であれば問題はないのですが、あくどい古美術商にひっかかることになります。昔、桃山時代の唐津焼や黄瀬戸を収集している方がいましたが、それはとても恐ろしいコレクションでした。金があるからといって、目が利くわけではありません。目の利く信長は茶器の名物狩りを行っていますが鑑識眼も一流だったのです。彼の抹茶に対する味覚は、現在のワイン・ソムリエのようなものだと考えれば把握できるでしょう。
いつも言うことですが、良い物がほしければ信頼のおける古美術商から商品を購入するようにしてください。
安土時代の窯の中で、格が高いのは信楽、備前、楽など。その後、文禄・慶長の役で朝鮮の陶工が渡来すると唐津焼、萩焼などは開窯されます。唐津焼、萩焼などは、安土というより桃山時代の焼物。丹波焼、常滑焼などは茶陶を制作していないので、以前は備前などより、一段、低く見られていました。戦前、備前焼を持つことが流行したのは、桃山時代のステイタスを後年まで受け継いだものです。
鎌倉時代や室町時代と比べると、入手できる仏像や陶器など、古美術品の数は多数あります。ただ、模倣品が多いのでうんざりします。唐津焼は形さえあれば、なんでも高い。狂っています。茶道の道具、陶器の中には名品もありますが、市場では模倣品が本物よりも大手を振って歩いていることもあります。本物は地味ですからね。
中国物では古染付が入手できます。厚手は高価ですが食器や南京手は入手可能なので、一度、使ってみると良いでしょう。伊万里焼とは違った磁器の味わいがあります。この時代の文化に接したければ、古美術品の収集よりも姫路城、竹生島、醍醐寺などがある近畿地方を旅行して、安土桃山時代の建築に接することをお勧めします。京都には長谷川等伯の作品がある智積院、北の政所ゆかりの高台寺、大徳寺の山門など、たくさんの時代の作品が残っています。
ところで、安土桃山時代の茶道と現在の茶道は遠くかけ離れたものになっていると考えてください。安土桃山時代の茶道は、戦いの途中で抹茶を飲む行為、人の生死がかかった茶道です。現在の茶道は小堀遠州が指導した、儀式化された江戸時代以降の茶道で作法が煩雑です。戦乱の中での多忙な茶道と、暇つぶしのおもてなしではまったく違う。ちなみに堺が発展した理由は鉄砲の生産ができたことと焔硝貿易を独占できたことにあります。彼らは真の意味で、戦国商人。緊張の中で、彼らも茶の湯をたしなんでリラックスしたのでしょう。寒い時期、暖かい抹茶を飲むとほっとします。皆様もうるさい作法は無視して、抹茶を楽しんでください。
2017年、最初の骨董講座はいかがだったでしょう。次は江戸時代前期の文化と美術、次回もよろしくお願いいたします。

           

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