このページは2016年12月3日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第33回 「古代・中世と古美術シリーズ -10- 室町時代後期の文化と美術」
(1) 室町時代の概要

室町時代は足利尊氏が征夷大将軍に任命された室町幕府を開いた1338年(建武3年)から、15代足利義昭が織田信長に京都から追放され、室町幕府が滅びた1573年(元亀4年)を指します。この間、幕府では15人の将軍が就任しました。室町時代を大きく分けると天皇家が南北朝に分裂、統合された初期(~1392年、明徳の和約)、幕府の安定期から寛正の大飢饉、応仁の乱で政権が混乱する前期(~1493年、明応の政変)、日本各地が戦国大名によって下剋上が起こり、統治される中期(~16世紀中頃)、南蛮文化が日本に流入した後期(1543年~)、足利義昭が将軍になり織田信長が政治に関わる1568年から1573年までを晩期に分類でき、初期は南北朝時代、中期は戦国時代という別名で呼ばれることもあります。室町時代は、①中央集権制が崩壊し、地方自治が拡大する(下剋上、戦国大名の出現)。②郷(村)が出現、そこに住む村人によって農地が開発(二毛作、水路の設置)される。③商品開発が進み、商業都市(堺、博多)、城下町、宿場町、門前町が形成される。④南蛮文化が流入、日本に大きな影響を与える。⑤中国は明、朝鮮半島は李氏朝鮮が、儒教国家を設立。日本では庶民的な宗教文化が興隆する、を把握すると理解しやすいでしょう。室町幕府は、鎌倉幕府が持つような絶対的な権力は維持できなったので、各地の大名、公家や寺社の力を借りて政権維持をしました。しかし、応仁の乱が起こると天皇家や幕府の権威は一気に失墜、地方は戦国大名によって統治されることになり、各地で下剋上が起こり、分国法が出現します。
室町時代初期の代表人物は、室町幕府を設立した足利尊氏。尊氏は清和源氏の嫡流ですが、優柔不断な人物だったせいか、室町幕府を設立した後も姿勢が定まらず、政権の混乱を招いた張本人となりました。今、分析しても彼が何をやりたかったのかよくわかりません。ただ、尊氏は運が強く、混乱期を乗り切った人物です。
室町幕府は鹿苑寺金閣を作った3代義満の頃、絶頂期を迎えます。当時、東アジアでは漢民族である明が国を建て、半島には李氏朝鮮が成立した時期。東アジアの混乱が収まったことが足利義満に味方しました。両国とも安定を重視した儒教国家だったので、日本の混乱も収まったのでしょう。ちなみに、この時期、李氏に国を奪われた高麗の末裔たちが日本や沖縄に亡命します。私は信長を生んだ織田家などは高麗の人々を受け入れて混血したと考えています。もともと織田家の出身地である織田庄は半島と関係の深い福井にあり、信長が石垣のある城を築城したり、延暦寺を焼き討ちするのを見ると、このような発想は外来文化に馴染んでないとできないと推測できます。明智は足利や細川と仲が良かったので、外来種である信長の発想が理解できなかったのでしょう。
室町幕府の中に織田信長にそっくりな6代将軍・足利義教という将軍がいます。彼はくじ引きで選ばれた、恐怖政治を行った将軍。結局、最後は信長同様、恐怖政治に怯えた家臣の赤松満祐によって暗殺される。この事件は嘉吉の乱(1441年)と呼ばれていますが、事件後、将軍の力は衰え、各地で混乱が起こります。関東では古賀公方と上杉氏が争い、都では応仁の乱が起こり、やがて戦国時代が始まります。
応仁の乱を見ると、遺産、財産、権利をめぐって親子・兄弟が入り乱れて戦っています。このような状態を明や李氏朝鮮の儒学者が見ると、日本は家長を尊重しない、無秩序な野蛮国ということになります。明や李氏朝鮮が安定していた時代、日本だけが混乱しました。しかし、それが時代を動かす原動力になった。
その頃、八代将軍・足利義政は何をしていたかというと、政治に一切、関心を示さず、慈照寺銀閣などの庭園造り、宝物収集に熱中していました。その費用は妻である日野富子が捻出したのですが、造園は費用不足だったたので、庭に大きな池が作れず石庭にするしかなかった。費用があれば慈照寺銀閣は、鹿苑寺金閣のように大きな池のそばに建てられたはずです。玉砂利が敷かれた石庭は風情がある和風の庭ですが、予算不足から発想されたことを覚えておくと庭の見方も変わってきます。ちなみに石庭で有名な竜安寺の石庭は最初から計画されたものではなく、庭の木が枯れて出現した、偶然が作った庭です。枯れた木を植えずに、残った石の配置だけに美を見出すのは日本人独特の感性ですね。

         

(2) 地方自治と宗教改革

室町幕府、将軍の権威が失墜すると、下克上の時代の始まり、各地に自治国が誕生します。有名な戦国大名は北条早雲、斉藤道三など。加賀は一向一揆、山城などは国人が、堺や博多は商人が支配した国や町です。学術的に戦国時代は1493年(明応の政変、足利義材を追放、義澄を擁立した事件、管領細川政元が権力掌握)から始まると考えられています。伊豆で北条早雲が活動を始めたのも、この時期です。明応時代に関東で大地震が起こっており、それが北条氏出現の引き金になったのかもしれません。甲斐と言えば,武田信玄が有名ですが、彼の祖先をたどると安芸国が根拠地。それが南北朝の動乱で甲斐に移り住むようになり、土着して戦国大名になります。戦国大名は惣村を支配下に置き、自治領で新地開発、灌漑工事を行います。この時期、中国からベトナム占城米(旱魃、害虫に強い。当時の大唐米)が日本に伝播、稲種の革命が起きました。結果、農作物の生産は向上、商品の多様化も進み、貨幣の流通とともに市場経済(問屋、見世棚の発展)が拡大、地方に町や農村を中心とした独自の文化が芽生えます。この文化は土着的なもので、都会的な北山・東山文化とは一線を画しています。簡単にいうと各地の神社を中心に、猿楽、田楽など、地方独自の祭事が行われるようになったということ。地方の神社には独特の催事がありますが、それが設立したのが室町時代で、催事は一様ではなく、多様性に富んでいます。しかし、各地に座や関所ができ、流通が滞ったことで弊害も起こりました。
仏教界でも下剋上が起こりました。宗教的なエリート意識を持つ伝統八宗(顕密仏教)や五山派は権威を重んじ、庶民に現実的に即した布教を怠ったために凋落します。多数の関所の設置が原因(物流が都に入らなくなってしまった)となった寛正の大飢饉などが起きても、延暦寺は庶民の救済を行いませんでした。逆に庶民の救済を行った蓮如などは比叡山から糾弾され、京都・東山の本願寺は延暦寺の僧侶によって襲撃、破壊されました。延暦寺の僧侶が行っていることは到底、許されることではありません。そのような封建的な僧侶たちを庶民は見捨て、曹洞宗系、臨済宗では大徳寺、妙心寺などの五山派以外の寺、法華宗、一向宗など「異端派」の教えが爆発的に広まります。「異端派」は「教義の簡略化」、「宗教的平等の実現」、「封建的宗教からの離脱」を行い、庶民の実生活に即した教えを展開しました。「宗教的平等の実現」、「封建的宗教からの離脱」は、封建制の抑圧から解放する運動で、16世紀初頭、西洋で「宗教革命」が起こりましたが、それより半世紀早く、日本では「宗教改革」が始まっています。
武家や裕福な商人は禅宗(大徳寺、妙心寺など)、庶民は浄土真宗、法華宗、一向宗などを信仰、前者からは石庭、茶の湯、書院作りなどの芸術作品、後者は宗派の教義に基づいた「御伽草子」や「絵巻物」などが創造されました。
「御伽草子」には、公家・僧侶・宗教・武家・庶民を描いた物語と、異国・異類を絵が描いた想像物があり、前者の代表は「酒呑童子」、「一寸法師」、「ものぐさ太郎」、後者には「百鬼夜行絵巻」があります。これらは後に子供の絵本となって語り継がれるのですが、主人公が自らの才覚一つで立身出世を遂げる物語は「下剋上」の世相を反映した物語となっています。
庶民が簡素な宗教を求め、生活を重んじたのは、自治権を確保するため目的もありました。商人の町である堺や博多は独立し、浄土真宗などの仏教寺院は寺内町を形成して経済活動を行いました。1530年、石山本願寺は管領・細川晴元から「諸公事免除(経済的、人的負担の免除)」「徳政不可」などの権限を得ています。それを見ると、経済的活動が旧勢力から新勢力に移行したことがわかります。法華宗、一向宗、石山本願寺などは、観念的な宗教よりも現実的な生活を優先、旧勢力の既得権益を駆逐しました。この時期、地方の国人衆や土豪は所領経営のためには読み・書き・計算が必要となりました。農民が書いた土地証文などの数もしだいに増加、文字が庶民層まで広く普及します。村や国などでは、自治領の範囲を主張するために用水や境界を描いた「絵図」を自ら描かせます。そこには寺社、水田、家屋、水路なども描かれ、当時の様子をしのぶことができます。我々が現在、目にすることのできる農村風景が確立したのは室町時代でした。

         

(3) 室町時代の文化

室町文化は応仁の乱で分割することができます。「北山文化」は貴族趣味で王道文化ですが、応仁の乱後、異端の「東山文化」に移ります。それまでストイックだった禅宗は一休禅師の出現によってユーモラス、庶民的に変化します。それが完成するのは、江戸時代、白隠の時代。現在は、それがゆるキャラとして流行しています。
我々がストイックで厳しい修行を行うと考える禅宗は鎌倉時代から室町時代前期のもの、乱世ではストイックで厳しい修行に庶民は興味を示しませんでした。
応仁の乱後、書院建築が登場、障壁画が現れます。絵画様式に異端、異質の要素が入り込み、思想・芸術も庶民派である「異端」が注目を浴びます。奇抜さや面白さが文化の主流に躍り出る。ですから、北山・東山文化だけを室町文化ととらえることには問題があります。茶の湯などが流行したのも、禅が武家や町人に開かれたからで、それは庶民的な芸術です。
室町時代の仏像は、鎌倉時代の仏像と違って人間的なリアリティがありません。どちらかというと御伽草子などの影響を受け、抽象化、バーチャル化、フィギィア化されています。何だ、これはというような仏像が登場するのが、室町時代。
ちなみに、この時代の信仰の代表的存在は「お稲荷さん」。稲荷は京都の伏見稲荷が総社ですが、室町時代から地方に拡大、土着化していきます。ベトナム占城米が各地に広がったことが、稲荷信仰の拡大と関係しているのかもしれません。鎌倉時代が八幡社なら、室町時代は稲荷社。時代は兵農分離の一歩手前の時代。
1533年(天文2年)、延暦寺の反対にも関わらず、京都は町衆の力で山鉾行事を復活させました。地方では能や狂言が演じられるようになり、農耕に関する祭りも行われます。将軍は東山文化(能楽、連歌、茶の湯)、寺は禅宗の文化(水墨画、石庭、茶の湯など)、町衆は祭などを通して、階級別に文化形成を行いました。室町時代は庶民層に文化が拡大した時代だったといえるでしょう。
1543年(天文12年)、ポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝来します。その6年後の1549年(天文18年)、フランシスコ・ザビエルが来日、日本でキリスト教の布教を開始します。好奇心の強い日本人は急速に南蛮文化を吸収、独自の和風文化を創造しました。ここにも従来、日本にはなかった異端の和風文化を垣間見ることができます。その影響を受け、室町時代後期、城郭建築、障壁画、茶道などが出現します。それまで戦国時代の城は堀や壕を巡らせた平城や山城でしたが、南蛮文化の流入とともに建築技術が発達、城郭建築が可能になりました。現在、城下町にそびえる天守閣は南蛮建築を採用、キャッスルを模倣したものです。城郭建築は時代と共に発達し、江戸時代前期、漆喰、銅板葺きの天守閣ができて完成しました。その内部に描かれた障壁画に使う群青色は、南蛮人たちが中東から南アジア、中国を経由して日本に輸入した顔料です。それまで、日本人の認識する青は現在の緑ですが、中東から藍が輸入されると、日本人の青の認識が現在の青に変わります。室町時代、農村では木綿の栽培が始まり、後に染料の青を染みさせ、藍染が出来上がります。また、日本の伝統文化である茶道も袱紗さばき、にじり口などの造形に南蛮思想の影響を受けて成立した仕草。千利休は斗々屋の屋号を持っていますが、これは明らかにキリスト教の屋号(二匹の魚がキリストを象徴する)です。
当時、日本人の人口は1500万人ですが、その5分の1が南蛮文化の影響を受けて生活したと考えられています。テンプラ、カステラ、コンペイトウ、ボタン、ラシャなどのオランダ語が日本語になっているのを見ても、日本人が南蛮文化を受け入れた状況が把握できます。唯一、受け入れなかったものはキリスト教カトリックの一神教の思想。日本人は文物を取り入れても、根本的な思想は拒絶する特徴がある。これは昔から日本人が多神教を信奉してきた傾向があるからでしょう。

         

(4) 織田信長のルーツ

16世紀半ば、南蛮人が外国商品を持って渡来すると、堺や博多などの港町が商業都市として発展、堺は土佐、鹿児島、琉球ルート、博多は東シナ海と朝鮮半島、中国ルートの中心都市となります。堺が大きく発展した理由に鉄砲の売買があります。鉄砲が伝来すると、堺は日本国内の鉄砲生産地として発展します。また、堺が発展した理由に南ルートを確保していたことがあげらるでしょう。鉄砲には火薬が必要ですが、堺の商人たちは東南アジアから焔硝(硝石、のちに国産化)などを入手できました。織田信長が堺に目を付けたのも、鉄砲が武器として主流になることを見抜いていたからです。ちなみに戦国時代末期、日本50万丁以上の鉄砲があり、世界最大の銃保有国でした。現在は銃規制が行われているので、銃を保有できるアメリカの文化を日本人は理解できないようですが、かつて日本人が大量の銃を保持していた。現在、核保有をめぐって日本人は紛糾していますが、50万丁の銃があっても日本は平和を獲得できたのですから、核を保有しても平和は維持できると思います。
この講座は奇想天外な講座なので、織田信長が高麗王朝の末裔だった話を展開しましょう。王氏が支配する高麗が李氏朝鮮に滅ぼされたのは1392年。李氏は隣国・明の力を借りて、国を興します。それでは、滅ぼされた高麗王朝の人々や貴族たちはどこに亡命したのか。私は日本や琉球に亡命したと考えています。琉球王国が建国されるのは1429年、高麗が滅びて30年後のことです。それまで瓦は琉球にはなかった。この頃から瓦が焼成されるようになるのですが、多分、朝鮮半島の陶工が瓦を焼いたのでしょう。沖縄には鬼の腕という磁州窯や高麗の焼き物とそっくりな長細い焼き締めの徳利があります。物から民族の流れが把握できるのです。さらに、琉球の踊りが朝鮮民族の踊りと同じ様式をしていることは周知の事実。現在、沖縄の女性に背の高い美女がいますが、これは高麗の血をひいた人々です。高麗人は沖縄の地元民に比べると背が高い。
では、日本の場合は? 城郭の創建、比叡山の焼き打ち、鉄砲の大量の確保などを見ると、信長と高麗、琉球の関係が推測できます。当時、煙硝は南蛮ルートからでないと入手できない。信長がそれを確保できたのは、彼に南方ルートのコネクションがあったからだと考えられます。最後に、信長が高麗の関係者であることの証明は、家臣である豊臣秀吉が李朝に出兵したことから推測できます。秀吉の野望は、信長の遺志を継いで高麗王朝を復活させたかったのでしょう。しかし、生粋の日本人である明智光秀は、日本を外来の王朝が支配することを拒否、それで本能寺の変を起こします。いつものように骨董講座が奇想天外な話になってきました。このような話ばかりすると、おかしな歴史観を持った人だと考えられるので、そろそろ止めます(笑)。

       

(5) 室町時代の古美術

室町時代の古美術品は、鎌倉時代の延長上にあります。仏教美術と六古窯の壺類が主流ですが、リアリティのあるものから、観念的、庶民的な物へ様式が大きく変わります。仏像は鎌倉時代のものと比べると、装飾性が目立つようになります。古窯の中で人気があるのは信楽、備前、丹波の壺。古美術収集かであれば、1つくらいは古窯の壺を持つと良いでしょう。室町時代を代表する古美術品は能面、禅宗の墨跡や絵画、根来塗ですが、入手はなかなか困難。小品は入手可能なので、異端の古美術の視点で探してみてください。古美術品(仏像や壺など)は鎌倉時代の古美術品の2分の一程度の金額で入手することができます。室町時代は日本史上、実践的な刀剣類の時代で、一番、多くの刀剣が作られました。しかし、それは実戦用なので意匠もなく、美術品としての価値は高くありません。
この時代、明では磁器が大量に焼成されるようになり庶民にも入手可能になりました。明時代の古染付や磁州窯の作品は比較的、入手できます。それに比べると、李朝初期の名品の入手は困難です。粉青沙器と呼ばれる作品は、ほとんどが博物館に入っている。入手できるとすれば発掘品。高麗は青磁ですが、李朝は白磁の物が美しい。李朝初期の白磁は粉青沙器に比べると入手が簡単なので、興味がある方は古美術店でお探しください。
この古美術の面白さは、中世と近世が混ざり合っているところにあります。鎌倉時代と江戸時代が混ざっている混合、異端文化です。安土桃山時代の美術品と比べると、室町時代の作品は素朴で土着性があります。この時代の古美術品は他の時代と比べると地味なので人気がないのですが、深く時代を理解すると、この時代の面白さがわかってくるでしょう。日本人がやたら仮面をつけて祭を行うようになったのも、この時代。人と自然の分離が始まったのです。文献を読み、古美術作品に触れるとふれると、室町時代の面白さが理解できます。その時のキーワードは混合、異端、庶民性。室町時代の文化と古美術品は気取っていないということでしょうか。次回は天下が統一された安土・桃山時代の文化と古美術についてお話します。ありがとうございました。

           

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