このページは2016年11月5日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第32回 「古代・中世と古美術シリーズ -9- 鎌倉時代後期の文化と美術」
(1) 鎌倉時代の概要

前回は1180年代、平氏政権が滅びる時期の話をしました。今回は源頼朝が守護地頭設置権を認められた1185年から、鎌倉幕府が滅亡する1333年までのお話をします。一般的に鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年から始まると考えられていますが、開府よりも守護地頭設置権獲得の方が重要、そこで1185年を鎌倉時代の開始の時期としました。それまで荘園は貴族や寺社のもの(公領)でした。しかし、源頼朝に守護地頭設置権が認められると、武士が自分の土地を所有することができるようになり、その土地での利益は自分のものになります。昨日までは他人の土地が今日からは自分の土地、武士たちはバブル期の不動産所得のように土地獲得を目指しました。朝廷(貴族)の公領など保護されましたが、藤原氏などの貴族の力は衰え、没落する貴族が武士を頼る場合も生じます。それで権力が武士に移行した。これは戦後の農地解放と似ています。それから、鎌倉武士団の結束は、現在の東京都議会における権力争奪戦に似ています。表面に出ない人たちが、裏で談合、北条氏が権力を握るまで、鎌倉の武士たちは権力闘争を繰り返しました。比企氏、和田氏、三浦氏など、源氏の嫡流でさえ、北条氏に滅ぼされています。東京都議会のドンたちが北条氏だと考えればよいでしょう。
日本の歴史を見ると何度も遷都が行われています。藤原京から平城京、平安京、そして鎌倉。鎌倉が日本の行政の首都となったことは日本史上、画期的な出来事でした。なぜなら、鎌倉幕府は朝廷の支配を脱した、朝廷外に位置する政権だったからです。平氏政権は武士の政権でしたが行政府を朝廷内に置いていたので、貴族の力を完全に排除できません。それを察知した頼朝は政治から貴族の力を除去するために、問注所(訴訟受付機関)や行政府を鎌倉に設置、その結果、鎌倉時代の文化は平安京の体制的文化と鎌倉の反体制文化に分裂します。京都五山と鎌倉五山は似たようで非なるものです。権力は鎌倉幕府が握っているので、朝廷も幕府に文句が言えない。それを決定づけたのが、北条政子の演説で有名な承久の乱(1221年、六波羅探題の設置)。それから1333年まで日本の政治は法的(御成敗式目などの制定)に、鎌倉を中心に行われました。
簡単に言うと平安京の文化は貴族の外注文化、鎌倉の文化は自立の文化。一部の貴族は鎌倉時代でも武士や下人を使って土地を治めますが、武士たちは自分たちの力で領地を経営しました。「自分のことは自分でやる」が武士の文化。この時、日本人は政治的な自立の概念に目覚めたといえます。中国で唐の貴族文化が宋の士大夫の文化に変わったように、日本では貴族文化は武家文化に変わりました。
ところで、なぜ鎌倉が日本の首都に選ばれたのか。理由は1063年、源氏の祖である源頼義(相模守、前九年の役で活躍)が鎌倉に八幡宮を建立したことに始まります。頼義は平貞盛の孫直方の娘と結婚し、源義家をもうけました。源氏と平家は敵対同士だと考える人が多いのですが、それは源平合戦のイメージで、義家は源氏と平家の本流の血をひくエリートです。鎌倉幕府も途中から兵士である北条氏が中心となるので、正確にいえば源氏の幕府ではありません。ですから、あまり源平合戦のイメージにとらわれて鎌倉幕府=源氏と考えるのは止めた方がよいでしょう。
鎌倉時代を把握するには、①土地の支配権が天皇家や貴族から武士に移り、政治が法的に行われ、武士たちに自治権の概念が備わる。②リアリティのある鎌倉新仏教が庶民に広まる。③形骸化した行政体制(得宗制)は外圧(元寇)で崩壊する、を基本にして把握すればよいと思います。この講座は古美術講座なので、簡単に政治的なことを開設しながら、文化的な面を中心に話を進めます。

         

(2) 自立を目的とした禅宗

鎌倉時代は現実的な武士の世なので、形骸化した貴族趣味の定朝様式は廃れ、躍動感のある仏像が作らるようになります。仏像の造形がS字型で表現される。鎌倉時代の仏像は写実的なギリシャ彫刻のようにリアリティがあり、作品が身体の美しさを表現しています。簡単に言うと抽象性が薄れ、具体的に動きが表現されるようになった。絵画も同様、神護寺にある「源頼朝」、「平重盛」など、武士を描いた肖像画は写実的でリアリティがあります。それまで肖像画は仏教における祖師像が主流でしたが、武士政権の誕生によって、多くの武士像が描かれるようになりました。一族は自分たちの土地を保障してくれる頭領を崇拝するようになった。
鎌倉時代初期、武士たちは禅宗(臨済宗、曹洞宗)を信奉します。禅宗の教義を簡約すると、「自分のことは自分でする」という教えです。GDPが増大した鎌倉時代、人々は生産力を上げるために忙しく働いていました。平安貴族たちは使用人に仕事をやらせ、上前をはねていたのですが、鎌倉時代初期の武士は、活動すればするほど利益が上がるので高度経済成長のように積極的に活動した。そのような過労状態を鎮静化するために、為政者は禅宗を流布します。現在でいうとマインドフルネスの活用です。
禅宗は何もしないで座ることを基本。儀式好きで旧礼にうるさい貴族たちは、単純な座禅を馬鹿にしましたが、座禅をすれば雑念やストレスが科学的に排除できる。
それに座っているだけで儀礼を知らなくも恥をかかない。座禅は忙しい、雑念の多い人がやる行為で、活動的ではない人には必要ありません。彼らは集中よりも排除を中心として、休息を取るために座禅をしたのです。
戦国時代末期、領地獲得に忙しい戦国武士たちは茶道を流行させます。抹茶にはカフェインが入っているので飲むとすっきりする。それに「けっこうです」といってお茶を飲んでおけば儀礼的にも恥をかかない。後に茶道は複雑になり、うるさく変容しますが、利休の時代の茶道は単純で、後の茶道は公家文化が流入した茶道です。
禅宗が生活に即した宗教であることは、曹洞宗を開いた道元が食生活に関わる「典座教訓」を著わしていることからも理解できます。そこには、自らが食事の支度をすることの重要性が記されています。当時、日本では、高僧であれば食事の支度は弟子に任せれば良いという貴族的な認識がありました。それを「典座教訓」の教えが覆してしまった。道元は生活のすべてが禅の修行をすることを説き、武士たちにも実践させました。道元が入宋した時の老典座との逸話(老典座が何はさておき、皆のために食事をつくるという話)に、禅宗の本質が表わされています。
禅宗といえば懐石料理fが有名。それは健康的な生活をおくるための食事です。藤原道長の「小右記」に「口が渇きやたらと水を飲む」、御堂関白記に「二、三尺相去る人の顔も見えず」など、糖尿病になった症状の記述があります。平安時代の貴族たちは白米を食べ、糖度の高い酒を飲む生活を送っていました。それが糖尿病の原因となることは現代では常識ですが、当時は解明されていなかった。それに異を唱えたのが禅宗の人々でした。彼らは粗食を常とし、健康の維持を唱えます。糖尿病になっても贅沢をしたいか、食生活に注意して健康的な生活を送りたいかは本人次第ですが、彼らの生活様式の違いが、現代人である我々にも多くの問題を投げかけてくれます。健康的な生活をしたければ、懐石料理を食すのが一番、身体に良い。この時代、抹茶は養生のための薬で、禅宗が抹茶を広めたのも実践的な健康維持のためでした。

鎌倉武士は生産力の向上が第一だったので、過労生活に陥らないために座禅をします。座禅は身体的な所作で、平安貴族が行う儀式のように観念的ではありません。中世ヨーロッパのカトリックとプロテスタントのような関係を考えれば、貴族と武士の関係が把握できるでしょう。平安貴族は阿弥陀仏と観想的に一体化するのですが、武士は座禅によって身体的に仏陀と同一化するのを目指す。浄土教が視覚など感覚を重視した仏教であるならば、禅は身体性の強い体感型仏教といえるでしょう。
身体性の重要性は女性の世界にも現れます。経済が開放され、GDPが増大した鎌倉時代、多産の女性は重宝されるようになりました。GDPが拡大する時代は人手が多いほうが有効。慈円は「愚管抄」で「女人入眼」、「女性が母となって初めて権力を握る」と記しています。一人でも多くの子供を産むこと、働き手が増えることは一族の繁栄に直結します。現在、日本は人口減少に直面していますが、日本人の考え方が貴族的になったので少子化が進んだといえるでしょう。そのように考えると鎌倉時代前期は、太平洋戦争後の混乱期に似ています。

         

(3) 神道と浄土思想の融合

平安時代末期、神道と浄土思想が融合して、御正体という銅鏡が製作されました。最初は銅鏡の表面に仏像を毛彫りした御正体でしたが、それが鎌倉時代、立体的(懸仏)になります。浄土教的な観想よりも禅宗的な体感に思考が移ったからです。御正体は毛彫り(平安時代)→リアリティのある半立体物(鎌倉時代)→抽象的、形式的な立体物(室町時代)に変化します。鎌倉時代の懸仏の表情は写実的で、仏像も人間めいていて生々しい。
武士と神道との結びつきは平安時代末期、源頼義が鎌倉に八幡宮を勧進したことに始まります。源氏といえば八幡信仰というように考えられがちですが、石清水八幡宮の勧進には平氏も関わっているので、現在、我々が考えているような八幡信仰は鎌倉時代以降に成立した。ですから、鎌倉幕府成立以前の八幡信仰と以降の八幡信仰は違うものであるととらえる必要があります。
日本では10世紀頃、神仏習合(本地衰弱説の流行)が起こり、寺院と神社が一体化しました。平安時代後期になると、天皇の位を退いて上皇(法皇)になった権力者たちが寺社と結びつき勢力を維持します。それに対抗するために源氏が採用したのが八幡信仰です。関東の武士たちは自分が開墾した領地に八幡宮を勧進、それは源氏、鎌倉幕府に忠誠をつくす証しと同時に、他の寺社からの干渉を排除できる手法でした。開墾した土地に神社を設置しなければ他者に領地を奪われかねない。関東の武士たちは鎌倉幕府に忠誠を尽くし(奉公)、八幡宮にお墨付きを与えてもらったのです。現在、日本に一番、多い神社は八幡社。西荻周辺を見ても吉祥寺八幡宮、井草八幡宮、荻窪八幡宮がありますが、これらの八幡宮は幕府成立以前、奥州藤原氏の支配下にあった春日社でした。しかし、源氏と奥州藤原氏の戦いで藤原氏が滅亡すると、春日社から八幡宮に変わった。鎌倉幕府は平氏、奥州藤原氏の領地を奪い取って成長したのです。日本で二番目に多いのは稲荷社ですが、これは基本的に平氏と藤原氏の氏神社。鎌倉武士の上層部は禅宗に帰依、土着的な武士たちは八幡信仰をしたと考えれば、この時代の武家文化を把握しやすいでしょう。
宝治元年(1247年)、鎌倉幕府によって得宗専制が完成すると所領再配分の機会となる戦乱が終結、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行しました。結果、庶子を中心とする御家人階層の没落が発生、本所(荘園領主)と在地領主との所領紛争が先鋭化します。たわけ時代の始まり。現在は格差社会が固定化しつつある鎌倉中期に似ています。混乱期の経済成長から安定期の経済停滞へ。歴史は繰り返します。
建長4年(1252年)、鎌倉幕府の権力を握った得宗家(北条氏)は、東大寺大仏建立500年の記念行事として、鎌倉の高徳院に大仏を建立しました。この頃から、御正体が立体的になります。
惣領制を施行したせいで、経済の停滞が始まると日本各地で領地をめぐる相続争いが増大します。それは現在の遺産争いと似ている。土地だけではなく貨幣や商業権の遺産争いも加わり、問題が複雑化、社会が安定した見返りに社会格差が広がり、没落する人々が増えました。それを憂えて施策を訴えたのが親鸞や日蓮などの宗教家です。
一般的に親鸞は妻帯や悪人正機説など、不可解な思想を説いた宗教家であると考えられがちです。しかし、当時の社会、宗教界、経済状況を考えると妻帯が経済的に有効な手段であることが分析できます。悪人正機説にしても、総領から排除された人々の生き方を支援する思想だった。家長制度が強い時代、総領以外が有効な生産手段を持ち得なかったことは想像できますよね。長男は親の財産を継いで豪邸に、次男以下はアパート暮らしという光景は、現在だけのものではありません。親鸞はどちらかというと弱者救済の思想を持った哲学的な宗教家です。親鸞の面白いところは、平安貴族が美しい世界を極楽浄土だと感じていたのに対して、破滅的な世界も、また極楽浄土だと親鸞が言っている点です。彼は現実的な存在、個人の観念に固執した宗教家で、極楽浄土が観念的な世界、美しい世界のイメージを持つ人にとっては把握しにくい存在です。映画監督の黒沢明の「どん底」や「どですかでん」などは、親鸞の思想に近いものがあります。問題児(個人)でも、他力本願を突き詰めれば、無になって成仏できる。禅宗が生活宗教であるならば、浄土真宗は観念的な宗教といえます。
一方、日蓮は国家的な発想をする宗教家。法華経を大乗仏教の根本経典として国家の安泰が庶民を救うという発想の持ち主です。現在でいうと国の形を構想する経済企画庁の長官のような存在です。当時の日本は世界的に見て、貨幣が市場に正常に流通していました。得宗家が鎌倉に大仏を作ったのも、奈良時代同様、大仏本位制を採用して、銅銭の流通を図ったからだと考えられます。日蓮は個人の救済の根本は、国家、社会の救済から始まると考えた。しかし、それが極端に社会に出現すると戦前の国家神道、日蓮宗(井上日召などの思想)のようになります。彼らは国家、社会を変革することによって人は救われると説き、テロなどを起こした。しかし、国家の中に個人の価値観が埋没してしまい、集団的な発想が悲劇を招いたことは忘れてはなりません。
ところで、数ヶ月前、創価学会の人と話をして驚いたことがあります。私がこの夏、身延山久遠寺に行った話をすると、創価学会の人が「日蓮上人は学界には無縁です。現在は池田先生が日蓮上人の代わりを務められています」と言われました。創価学会は日蓮正宗だと思っていたのですが……。それを聞いて、私は宗教が時代とともに変遷することを実感しました。

         

(4) 鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府が滅びた原因は経済政策の失敗でした。惣領制を採用したことによって社会に経済格差が生じ、本所から排除された貧困層(悪党)を発生され、問題が起こった。 正嘉年間の大飢饉によって社会問題が増大、悪党は各地の本所を狙って無法な活動を始めます。幕府は悪党を規制するために法令を施行しますが、効果は上がりません。 このような状況をさらに悪化させたのが、2度にわたる元寇(1274年、文永の役、1281年、弘安の役)。 当時、武士は「御恩」と「奉公」という概念の中で活動しており、多くの武士が、元寇に一角千金を夢見て、自腹で出陣しました。 当時の武士は自分で馬や武具を調達していたのです。しかし、幕府は元寇が終わっても武士に「御恩(恩賞)」を払わなかったので、武家は経済的な窮地に陥ります。 金銭的に窮迫した御家人たちは借金に苦しむようになり、幕府も徳政令などの対策をとりますが、それは逆に貸し手の信用を失わせ、御家人の資金繰りは悪化の一途をたどり、14世紀に入ると、社会からはみ出した悪党たちは徒党を組み、本所の略奪を繰り返すようになります。 幕府は不満分子を抑え、政権維持を試みますが、それも失敗、南北朝の動乱によって鎌倉幕府は滅亡します。「太平記」などには、平氏・北条氏に乗っ取られた政権を、天皇家と源氏(足利氏、新田氏)が取り戻したと描いています。


(5) 入手できる鎌倉時代の古美術品

美術的に見ると、南北朝時代の文化は鎌倉時代の文化よりも外来文化の影響が強く出ています。これは元寇の前後、南宋から日本に亡命してきた禅宗僧の影響を受けているからです。建長寺を創建(1253年)した蘭渓道隆などの影響を受け、天竜寺や瑞泉寺の庭を作った夢窓疎石が活躍したのも、この時代。仏像をみると、鎌倉時代は浄土教や神道の影響が見えますが、南北朝時代になると完全に宗教は抽象的なものに変質します。それが徹底されるのが、明が興り、儒教を国教とした室町時代。逆に言うと、鎌倉時代初期の美術、宗教は、文化的に日本の自然美を加味した独自性が表現された文化であるということができます。
鎌倉時代の古美術品の代表は、仏教美術と六古窯の壺類。平安時代の仏像と比べると、鎌倉時代の仏像は写実性に富んでいます。木彫の仏像は数が少なく高価なので、懸仏などを探されるとよいでしょう。鎌倉時代に入ると日本各地に窯が作られ、多くの作品を製作します。常滑や越前、信楽の壺、雑器などがその代表で、壺の表面に自然釉が流れているものが好まれます。このように自然の美を愛する完成は、鎌倉時代に発展した神道、禅宗の影響です。禅宗はもともと自然崇拝をする道教の影響を受けており、山岳修行の要素が強いので神道思想に近いものがあります。
平安時代のものと比べると鎌倉時代の陶器は入手しやすいので、興味がある方は古美術商に相談してみてください。自然釉が流れた美しい壺に出会えるかもしれません。ちなみに、このような壺は現在でいう貯金箱(銅銭入れ)でした。
鎌倉時代は中国では南宋、元時代にあたります。南宋の陶磁器類は入手しにくのですが、元時代のものはまだ入手可能です。朝鮮は高麗時代の銅製品、銅鏡、仏画、陶磁器(高麗青磁、黒陶)などの入手が可能です。高麗の物は美しいのですが、日本では高麗青磁以外、評価が低い。李朝の作品と比べると堅い感じがするからかもしれません。鎌倉前期は生活を基本に古美術鑑賞すると、時代の雰囲気が把握しやすいでしょう。いつも話しますが、古美術品には多くの偽物が存在するので、購入される時は、信用のおける古美術商で古美術品を入手してください。

鎌倉時代の文化と古美術、いかがだったでしょう。次回は日本の農村の原風景が出来上がった室町時代の文化と古美術についてお話します。ありがとうございました。

         

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