このページは2016年6月4日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。
今回は、第2回骨董講座「伊万里の歴史」(2014年11月)に新しい話を追加したものです。簡単に新しい話を紹介します。前回の骨董講座を参考に「伊万里焼」を考察してください。

第29回 骨董講座 リクエスト 「伊万里焼」
(1) 青い世界

・ 1543年、鉄砲が伝来して、日本も「大航海時代」に接する。数十年後、日本は世界的に見ても鉄砲大国となり、武器出国となる。この頃から、日本は技術大国だった。
・ ザビエルは日本人の文化的な国民性を褒めているが、男色だけは容認していない。当時、男色は男のたしなみで当たり前のことであった。
・ 17世紀初頭、日本は世界の銀の4分の1を生産する国となった。当時、中国は銀本位制を取っていたので、日本は銀を輸出して、中国を経由して中東からコバルト(呉須)を輸入した。輸入した呉須が最初に使用されたのが「障壁画」である。
・ 17世紀初頭まで、日本人は現在の緑を「アオ」と呼んでいた。現在でも、緑信号のことを「青信号」というのは、その名残である。唐三彩や織部の緑がアオだった。
・ 呉須の輸入によって、日本はアオの認識を変え、さまざまな生活用品(磁器、木綿など)に青を使用するようになった。
・ 1940年、突然、有田で染付磁器の大量生産が始まる。これは幕府が呉須を独占して、陶工たちに染付磁器を作らせた形跡がうかがえる。
・ 1640年代の伊万里焼は隠れキリシタンが作っていた。


(2) 男色の世界

・ 17世紀、江戸に人口は100万近くいたが、男女差が2:1だったので、男色が横行した。東海道中膝栗毛のやじさんきたさんはホモのカップルの逃避行物語である。
・ 江戸時代、料理は男性も作っていたので、男性好みの模様、デザインが伊万里焼に使用させた。
・ 北前船の発達により、日本海沿岸の町で伊万里焼が流行した。吸水性のない磁器の伊万里焼は刺身や新鮮な海産物を盛るのに適した食器だった。
・ 18世紀末から江戸の男性たちは、屋台で食事をしたので、女性に家で料理を作ってもらわなくても問題は起きなかった。屋台では江戸前のすし、てんぷら、そばに人気が集まった。
・ 江戸の人間が宵越しの銭を持たなくても良かった理由は、常に江戸では都市開発が行われ、普請(公共事業)があったからである。


(3) 有田焼の崩壊と再生

・ 19世紀になると、有田焼の磁器生産の独占が終了、瀬戸や砥部など、日本各地で磁器が作られるようになった。
・ 現在、中国製の伊万里風磁器が日本中に拡散しているが、日本では19世紀に、有田焼の粗悪な模倣品が大量生産され、本家・有田の磁器製品の信用を失墜させた。
・ 明治時代になると、有田焼は藩の保護を失い、職人たちは石川県に移住、大聖寺伊万里などを作った。
・ 明治時代、磁器生産の中心は瀬戸だった。有田の人々は伝統産業を復活させるために、磁器生産を再開した。その時、できたブランドが「深川製」、「辻製」、「柿右衛門」などである。


(4) 伊万里焼の特徴

・ 有田焼は注文生産で、その仲介は近江商人、松坂上人が担った。
・ 伊万里焼の模様が派手なのは、縄文時代から陶器に装飾をする日本人のしつつが関係している。
・ シンプルなデザインの伊万里焼が現在、人気があるのは洋食器として使えるからである。白磁などには、伊万里焼の面白さはない(白磁に関しては明初の白磁が芸術的である)。
・ 伊万里焼はそれ自体が独立した作品で、料理を盛ることなど考えて作られていない。日本人は、伊万里焼を美術品と考えていたのである。
・ 日本人は多神教で絵画的な気質を持つので、伊万里焼に視覚的なアニミズムを感じている。
・ 伊万里焼は各時代ごとに様式の違う面白さがあるので、これからも楽しめる食器である。
・ 伊万里焼の新しい魅力を発見するには、歴史の勉強をするのが一番、効率的である。

骨董講座に参加された受講生の皆さま、お疲れさまでした。

(終わり)


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