このページは2016年1月9日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第24回 「古代・中世と古美術シリーズ -4- 飛鳥時代の文化と美術」
(1) 飛鳥時代前夜

飛鳥時代とは6世紀中頃から7世紀前半にかけて、飛鳥に都があった時代。重要項目は538年の仏教伝来、572年の王位継承に家系を採用、587年の物部氏の滅亡、593年の飛鳥寺創建、同年、摂政となった聖徳太子が7世紀前半に行った「十七条の憲法」、「冠位十二階」の制定、遣隋使派遣、法隆寺創建などです。中国に目を向けると581年、隋建国、618年に滅び、唐が興った時代でした。大化の改新(645年)以前を飛鳥、それ以降を白鳳時代と区別します。この時代に倭人は文字(万葉仮名)を使用するようになります。
今回は独自の視点で構築した飛鳥時代の話をします。一般的には通用しない学説なので、半分くらいはフィクションだと思って聞いてください。
507年、継体天皇が擁立されると大王家は新羅系に移ります。和歌山県の隅田八幡宮に百済・武寧王が、義理の弟・男大迹王が即位して贈った記銘の銅鏡が残っています。継体天皇は癸羊年に即位したと記されているので、実際に即位した年は503年でしょう。継体天皇は不可解な大王で、即位しても飛鳥に入っていません。彼は大阪市交野市に樟葉宮(くすばのみや)を作った。高槻市、交野市周辺が継体天皇の根拠地。なぜ、継体天皇は飛鳥に入れなかったのか。簡単に言うと彼が新羅系の血筋だったからです。この時代、大王家は社会情勢によって系列が移ります。と、言っても、倭、新羅、百済、高句麗王室は親族なので、親戚の中から大王を選んでいたというのが真相。新羅系の継体天皇の妻は百済・武寧王の妹なので、武寧王は継体天皇を弟と呼んだのでしょう。継体天皇の本名は秦大津父、新羅王名は法興王。秦は新羅系の姓。男大迹(おうど)と大津父(おおつち)が同義語ですね。継体天皇は歴史書では531年、死去したことになっていますが、実際には倭を離れて新羅に帰っています。
523年、武寧王が死去すると、百済王位をめぐって権力争いが起こります。
538年、百済の聖明王(~554年)が倭に仏像と経典を倭に贈って来ます。これが教科書に載っている仏教伝来です。学会では仏教伝来は538年か554年かの議論がありますが、554年は百済・聖明王が飛鳥に渡来した年です。
540年、法興王の後を継いだ真興王(534~576年)はとても優秀な大王で新羅・百済(朝鮮半島には真興王が支配した地域に石碑が建っている)を支配することに成功しました。新羅の真興王と百済の聖明王は別の人物のように考えられていますが同一人物です。さらに欽明天皇も真興王。真興王の姓は金、聖明王の名は明、足すと金明。さらに彼は552年、突厥王となった木杆可汗という別名を持っています。まさか、聖明王が真興王で欽明天皇、木杆可汗だなんてと思われるでしょうが、中国、朝鮮、倭の歴史書を丹念に読み込めば理解できます。ちなみに真興王は仏教を最も熱心に信仰した王です。「日本書紀」に司馬達等という渡来人が登場しますが、これも欽明天皇(志帰嶋天皇)の別名。志帰嶋天皇の嶋が司馬。蘇我馬子は嶋大臣と呼ばれていますが、嶋は司馬(軍事をつかさどった)。欽明天皇の一族は軍事を司っていました。達等は「タタール人たち」という意味です。相撲界の上位をモンゴル人が席巻しているように、6世紀後半、韃靼人が倭の政治を支配していました。
欽明天皇勢力は飛鳥に都を構えます。現在、飛鳥に行くと新沢千塚古墳群(5世紀後半~6世紀前半)がありますが、彼ら渡来人が作った部落の首長が欽明天皇です。渡来した蘇我、安倍、秦氏たちは飛鳥を中心に朝鮮半島の交易などで大きな権力を握りました。それに対抗したのが物部氏。

         

(2) 蘇我氏の権力拡大

572年、欽明天皇は敏達天皇(別名、他田天皇、これは韃靼の意味)に王位を譲り、576年に崩御します。翌年、百済が欽明天皇を弔うため、倭に仏像、経典などを送ってきました。欽明天皇を継いだ敏達天皇の側近が蘇我馬子と物部守屋、
渡来人と倭人の首長です。彼らは十年後、仏教と神道の権力闘争を起こし、戦いに勝利したのが蘇我氏です。突厥系の渡来人が勝利した。この背景には彼らの財力(交易力)が挙げられます。物部氏は財力のある蘇我氏の敵ではありませんでした
。 蘇我の名前の由来は①楚から移住してきた。②彼らはソクド人だった。達等は韃靼(タタール)という意味。③韓国語では蘇我を釈迦(シャカ)と発音します。蘇我氏は仏教徒の総称だった。④蘇は沙で、砂金という意味があり、蘇我は沙家である。⑤タタール人が食べていた蘇(チーズ)から蘇我と呼ばれるようになった。酒の語源は沙家、などと考えられています。いずれにせよ、蘇我氏は大陸や半島と関わりが深い一族だったことは間違いありません。蘇我氏の祖・欽明天皇は倭に渡来すると、現在の竜田川がある周辺(現在の法隆寺の近く)に根拠地を構えました。やがて渡来人たちは斑鳩、飛鳥、橿原などに分散、欽明天皇は飛鳥・嶋庄に根拠地を移しました。
587年、仏教徒・蘇我氏と神道家・物部氏の間で争いが起こります。物部氏は応神天皇以来の名家、古代から倭を支配していた一族で、両者とも渡来人です。旧勢力と新勢力の争いが起こり、蘇我氏が勝利しました。
一般的に、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺した悪い大臣というイメージがありますが、彼の実態は明らかにされていません。蘇我馬子は何者か? 
簡単に言うと彼は突厥王族・蘇我稲目(沙鉢略可汗)の息子です。沙鉢略可汗は別名「伊利倶慮設莫何始波羅可汗」。伊利倶はイリグ、設莫はセッツ、何始波羅はカシハラ。セッツとカシハラは日本にもある地名。突厥人は河内に渡来すると勢力権に自分に関する地名を付けました。あまり、人物関係に深入りすると混乱するので、蘇我氏が突厥から渡来した王族であったことだけを記憶にとどめておいてください。
587年、物部氏に勝利した蘇我氏は飛鳥に仏教文化を導入するため、寺院の建設を始めました。それが飛鳥寺。ちなみに飛鳥は倭蘇我(倭のシャカ族)がなまった言葉です。飛鳥寺は一塔三金堂の伽藍配置(高句麗様式、平壌・清岩里廃寺など)の本格寺院で、日本で初めて瓦を使って作られた寺院です。高高句麗様式を採用したのは蘇我馬子が高句麗王室の親族だったからです。創建には高麗尺を使用しています。様式は高句麗ですが、実際に造営したのは百済・王興寺を作った百済の職人たちです。「日本書紀」に彼らが渡来したことが記されています。
それでは飛鳥を支配した蘇我馬子は、なぜ大王にならなかったか?
理由は聖徳太子の父、用明天皇(葉護可汗、修羅俟)が百済王だったことに関係があります。用明天皇(威徳王)は587年に死去したことになっていますが、実際には百済に帰国、598年まで百済王でした。
ここで聖徳太子の話をしましょう。彼は百済・威徳王(用明天皇、葉護可汗)と額田姫皇女の子で、突厥名・啓民可汗(突止可汗)、僧名・慧慈、「隋書倭国伝」で「倭王の姓は阿毎(あま)、字は多利思比狐(たりしひこ)……」として登場する倭王です。摂政だったというのは、日本の大王が東アジアを往来して各国王族と結びついていたことを隠すため、対新羅政策のための作り話です。実際の聖徳太子は隋の都・大興まで行って皇女(安義公主)を妻にしています。「日本書紀」に聖徳太子は一度に多数の話を聞くことができたという逸話が載っていますが、これは彼が突厥語、中国語、百済語などに精通するバイリンガルだった話。
古代において、外国に旅ができるということが王族の証明でした。安全を確保し、随行員を確保しなければ海外旅行など行けません。蘇我馬子も聖徳太子も隋や突厥を往復します。この時代を国家維持のために創作された近代史観だけで読み解くのは不可能です。ちなみに遣隋使だった小野妹子とは誰か。正解は蘇我蝦夷。随書に大興に来た倭の使者の名前は「蘇因子」と記されています。インシはエミシ。
聖徳太子が隋・煬帝に「日出…」の無礼な手紙を送っても許されたのは、太子が突厥王族だったからです。当時、突厥は強力な騎馬軍団を持っており、しばしば隋の北方を襲いました。聖徳太子は突厥の影響力を使って、倭の地位を高めた。彼は突厥や高句麗、百済を隋の脅威から守るために倭の力を利用した。優秀な政治家です。このような感覚は国を往来しなければ身に付きません。
6世紀後半は我々が思っているよりも国際的です。

         

(3) 飛鳥・初唐時代の美術

飛鳥時代の美術品は法隆寺や東京国立博物館・法隆寺館で仏像、金工品、織物などを見ることができます。飛鳥時代といえば仏教のイメージがありますが遺物のほとんどが重要美術品に指定されており個人の入手は不可能です。ただ、発掘された須恵器、瓦やガラス玉、勾玉などの装飾品の入手は可能。古美術店で見かける飛鳥寺の瓦などは手の込んだレプリカ、素人には見分けがつかないので、危ない物には手を出さない方が無難です。須恵器は本物が大量に流通しているので、この時代の雰囲気を味わいたければ須恵器の購入をお勧めします。万葉の植物を須恵器にいけると時代の雰囲気を味わえるでしょう。
古墳時代と同様、同時代の中国古美術品は市場に流通しています。飛鳥時代は隋、初唐と同時代。美術品には青磁、白磁壺、三彩、銅鏡などがあります。日本の古美術品を入手するよりも簡単ですが、ネットに出品されている中国物は99パーセント近く偽物なので、本物を買う時は信用のおける店から入手してください。
ここに隋の青磁壺があります。隋の時代は国際的だったので、エキゾチックな造形をしています。7世紀初頭、唐が安定期に入ると「長安の春」時代を迎えます。唐三彩を見ていると、華やかな時代の雰囲気が伝わってくるでしょう。

7世紀になると倭は外国との交流を活発化、仏教や文化を通して国際的な関係強化に努めます。倭は遣隋使を18年間で5回以上、送っています。しかし、遣隋使を受け入れた隋は大興城の造営、運河の建設、611年から3回行った高句麗との戦争で国力が低下、618年、李氏の唐に滅ぼされてしまいます。隋の対高句麗戦失敗は突厥や朝鮮三国が高句麗の味方をしたことが大きい。
隋が高句麗戦を行っている間、倭は内政の充実に力を注ぎ、聖徳太子がいろいろな改革を行っています。
「憲法十七条」は新羅・真興王の花郎だった崔致遠の「鸞郎碑」の影響を受けて作られました。憲法というと堅いイメージがありますが、実際は規律を守れという単純な条文。「篤く三宝を敬え」、「和をもって貴しとなす」は有名ですが、5条の「接待や収賄を受けてはいけない」、8条の「官僚は早く出社し、遅くまで働け」、16条の「農民の仕事の邪魔をするな」は世俗的な条文です。
憲法十七条と共に、聖徳太子が定めたという「冠位十二階(605~648年)」があります。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けています。君・臣・連に与えられたのですが、実際には官僚制は機能していません。「書記」に「誰も冠を着けずに遅く出仕してくるので重要な会議が開かれずに困っている」という記事があります。中国で怠惰なことをすればすぐに左遷されるのですが、倭の政治は機能していません。
聖徳太子は秦氏と深い関係を築いています。法隆寺と北野廃寺(現在は広隆寺)は新羅系の私寺で、同じ経度(統計133度44分)にあります。新羅系文化の特徴は騎馬民族特有の金の文化(藤の木古墳出土の金靴など)、弥勒菩薩信仰など。百済や高句麗には金文化、弥勒菩薩信仰はありません。弥勒菩薩は、ゾロアスター教のミトラス神と菩薩が合体したもので、新羅人や秦氏は西域と深い関係を持つ勢力であることがわかります。
それを支配したのが聖徳太子です。

         

(4) 日本人の中の飛鳥像と観光案内

1959年(昭和34年)、明日香村で板葺宮、岡本宮などの発掘が始まります。発掘が進むにつれ、遺跡と「日本書紀」、「古事記」の記述が一致することが明らかになってきました。奈良県の古寺巡りといえば白鳳時代以降の寺院が中心で飛鳥は注目されることはありませんでしたが、1972年、高松塚古墳で壁画を描いた石室が発見されると一変、古代史ブームが起こり、明日香村が一気に注目を集めました。以後、1983年のキトラ古墳、1999年の亀形石造物など多くの遺跡が発見され、史実を塗り替えています。
ところで、我々が飛鳥時代に持つイメージは蘇我馬子や聖徳太子が活躍した時代が一般的です。しかし、出土した多くの遺構・遺物は白鳳時代の物で、飛鳥時代のものは乏しい。
その中で1982年、飛鳥京の中心であった飛鳥寺の発掘調査は重要な発見でした。飛鳥寺は1塔3金堂様式(一辺、約200メートル)の巨大寺院で、我々の想像をはるかに超えていた。これだけの巨大寺院を建立できるのだから、「日本書紀」で蘇我氏を悪しざまに描いていることに信憑性があるかどうか疑わしいですね。どの時代でも為政者の都合のよいように描かれた歴史書は気をつけて読まなければなりません。
皆様が飛鳥に行かれることがあれば飛鳥時代の遺物、甘樫の丘、飛鳥寺跡、石舞台古墳、蘇我入鹿首塚などを板葺宮跡、高松塚古墳、キトラ古墳、亀形石造物などの白鳳時代のものと区別してください。多くの人は白鳳時代の遺物を飛鳥時代の遺物と勘違いしているので、区別しなければ混乱します。それから法隆寺。現在の法隆寺金堂は770年頃、再建された建物で飛鳥時代の物ではありません。お間違いなく。
最後に飛鳥時代の雰囲気を味わうことができるスポットを紹介します。明日香村、法隆寺、四天王寺、その他に、叡福寺(大阪府南河内太子町)に行くと良い。ここに聖徳太子の磯長墓(廟)があります。寺の周辺には推古天皇陵、小野妹子の墓などの「王陵の谷」、一須賀古墳群があり、散策をすると飛鳥時代の雰囲気を味わうことができます。
それから樫原市にある飛鳥時代の人々を埋葬した新沢千塚古墳群。さらに、明日香村の南西にある葛城街道を歩くのも良いでしょう。多くの人は奈良方面から飛鳥に接しますが、裏飛鳥ともいえる葛城方面から飛鳥地方を見ると飛鳥観が一変します。歴史に触れようと思うのであれば観光地を多方面から見ることが大切です。
飛鳥時代の古美術品を見るのであれば何といっても法隆寺。飛鳥時代を代表するたくさんの国宝があります。それから東京国立博物館法隆寺館。法隆寺が国に寄贈した金銅仏などの宝物が展示してあります。

最後に我々が従来の飛鳥時代観を覆さなければならない話をして終わりにします。先ほども話しましたが「日本書紀」は後世の為政者によって描かれた物語です。それを一方的に信じると戦前の皇国史観を信奉するようなことになります。結果、日本は戦争で大きな災難を被った。近年、考古学は科学的な手法を取り入れ発展しており、物語や伝承と史実の同差が解明できるようになっています。
飛鳥時代に限って言えば、崇神天皇を殺した蘇我馬子は悪人だという思い込みを捨てなければ歴史的真実に触れることはできません。今回、蘇我氏が突厥王族だという話、聖徳太子は遣隋使として大興城に行っている話をしました。まさか、そのようなことと疑う方もいらっしゃると思いますが、1992年まで縄文人は移住生活を送っていたという常識が、三内丸山遺跡の発見で大きく覆った。歴史とは、このようなものです。
歴史を考察するには想像力が必要。想像力を膨らませると世界が広がっていきます。それを助けしてくれるのが古美術品との付き合いです。
それから旅行ですね。
(終わり)

         

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