このページは2015年11月7日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第22回 「古代・中世と古美術シリーズ -2- 弥生時代の美術」
(1) 吉野ヶ里遺跡の発見

先月は三内丸山遺跡の発見によって縄文観が変わった話をしましたが、今回は佐賀県の吉野ヶ里遺跡(紀元前4世紀に創設、3世紀に最盛期を迎える)、奈良県の巻向遺跡(3世紀頃)の発見によって弥生観が変わったお話をします。1986年、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町で工事中、偶然、古代集落跡が発見されました。当時は集落の規模(50ヘクタール)であることがわからず工事を進めていたのですが、発掘が進むにつれ、この遺跡が重要な遺跡であることが判明しました。吉野ヶ里遺跡は総延長2、5キロメートル大きな防御環濠を持つ大きな集落だった。環濠の内外には木柵、土塁、逆茂木、柵内には北内郭、南内郭と命名されている2つの集落があり、そこには一般人が住む竪穴住居と貴族・祭祀用の主祭殿、東祭殿、斎堂などの高床住居、物見櫓、食糧を保存する高床式倉庫、貯蔵庫、青銅器製造所の遺構が発見されました。また、墓地から見つかった勾玉、ガラスの管玉、銅剣、銅鏡などを埋葬した甕棺、石棺、土坑墓、土器、石器、木器、織物、布製品などの発見から当時の人がどのような生活を送っていたか推測できるようになりました。この時、発見された遺物は他の東アジア地域との共通性が見られ、当時から国際交流が盛んだったことが考察できます。
発掘時、考古学者を驚かせたのが、倭国大乱を思わせる矢じりがささった人骨や首のない遺体でした。縄文時代、平和だった日本列島の人々は渡来人の影響によって徐々に戦乱の渦に巻き込まれた。縄文人社会に階級制度が混入されたことによって戦争が始まったのです。このことは後で話しますが、弥生時代を体感しようとするのであれば、実際に見た方が早いので是非、吉野ヶ里遺跡を訪ねてください。
前回、話しましたが、2003年、国立歴史民族博物館の研究グループが炭素年代測定法の研究により、「弥生時代の開始期は紀元前900年」と主張しました。しかし、私は従来通り、紀元前450年前後が弥生時代の始まりだと考えたほうが妥当だと考えています。根拠は紀元前5世紀頃、稲作道具(福岡県・菜畑、板付遺跡)、支石墓(福岡県・里田原遺跡)、青銅器(、福岡県・吉武高木遺跡発掘)、無文土器(福岡県・諸岡遺跡)が伝来したことです。当時の中国は戦国時代、戦争を逃れた難民が朝鮮半島を経由して北九州に稲作を携えて渡来しました。それで弥生時代が始まった。稲作の伝播だけではなく、青銅器や鉄の伝播も弥生時代の始まりを考える上で重要な要素なのです。
ここで稲作の起源について少しお話します。人類が米を発見したのは紀元前1万年頃頃、揚子江中流域の湖南省周辺で発生したと考えられています。水稲に関しては中流域の湖南省の彭頭山遺跡(紀元前6000年)、下流の浙江省寧波の河姆渡遺跡(紀元前5000年)が知られています。2つの遺跡は弥生文化の祖と言える文化を持っています。米は揚子江を上下に向かって伝播して行き、上流域のタイや雲南、下流域の日本は米の産地となりました。
ところで日本列島に稲作が伝来した時期の中国や朝鮮半島はどのような状況だったのか。それを知る手掛かりは韓国・扶余にある松菊里遺跡(紀元前4〜5世紀)の発掘から推測できます。この遺跡は紀元前3世紀前後の北九州の遺跡と縁が深い。松菊里の人々が難を逃れて、日本列島に渡来したといってもよいほど、2つの遺跡群には類似性があります。特に農耕用の大陸系磨製石器、石棺墓の埋葬品などはそっくり。では、なぜ彼らが北九州に渡来したのか。理由は簡単、戦火を逃れるためでした。松菊里遺跡には方形竪穴住居の住民を円形竪穴住居の人々が焼き滅ぼした跡が残っています。基本的に方形住居は北方民族の住居なので、松菊里の先住民は南方から来た人々に滅ぼされてしまった。その南方の人々というのが、楚の人々です。
北九州には早良平野、脊振山地という地名があります。この語源は徐羅伐(ソラボォル、古代新羅国名)です。ソは楚。彼らは紀元前223年に秦に滅ぼされるまで、中国沿岸部に国を維持していました。紀元前403年、中国が戦国時代に突入、楚の人々の移動が始まったのが、この時期です。彼らは中国沿岸部から朝鮮半島に渡り、日本列島にやって来ます。ちなみに早良、佐原、背振、ソウルは「楚原(ソハラ)」で同義語です。佐原にいた藤原氏が、後に佐藤と名乗ります。佐藤さんの佐は、もともと楚だったのですね。飛鳥時代の豪族、蘇我氏の蘇も、もとは楚です。
楚から人々を日本列島に連れてきたのは誰か? 答えは徐福です。

         

(2) 弥生時代の区分

弥生時代という名称は1884(明治17年)、東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京大学の近く)の貝塚から発見された土器に因んで命名されています。一般的に弥生時代は紀元前5世紀から3世紀の約600年間、列島で稲作が始まった時代と認識されています(日本人が稲を知ったのは紀元前3000年頃、岡山県の遺跡)。弥生時代を簡単に区分すると5つにわけることができます。

【1】早期(紀元前450〜300年) 北部九州に稲作、農耕具、青銅器、半島の墓制が伝来する。
【2】前期(紀元前300〜200年) 世界規模で低温化現象が起こり、列島の潟化が起こる。北部九州で人々の階層化が始まる。
【3】中期(紀元前200〜0年)   大陸・朝鮮半島からの渡来人が増加する。国内で戦争が始まり、環濠集落ができる。稲作が日本列島全域に伝播する(青森県・垂柳遺跡)
【4】後期(0〜200年)      倭国大乱の時代(鳥取県・青谷上地遺跡)。後漢から伊都国王が金印を授与される。第1・2次高地性集落が出現。
【5】晩期(200〜250年)    邪馬台国の時代。前期前方後円墳が造られる。

縄文時代と弥生時代を区別する大きな要因は「稲作、鉄・青銅器、戦争と階層」です。日本列島に稲作が伝来することによって、戦争、環濠集落・高地性集落が発生、人々の階層化が始まります。ちなみに弥生時代を色濃く反映するのは西日本から近畿地方にかけてで中部から東北地方は様子が違う。
早期を考える上で参考になるのが朝鮮半島にある支石墓(ドルメン)があります。ドルメンは紀元前5000年頃、西ヨーロッパで普及し、徐々に東に伝播しました。朝鮮にステップロードを経由して支石墓が伝わったのは紀元前500年頃、世界の半分の支石墓が半島に残っています(5万個前後)。支石墓には地上部に支石が出たテーブル式と、地中に埋没している碁盤式の支石墓があり、碁盤式は南(全羅北道以南)で普及しました。ちなみに6世紀頃、信濃平野にドルメンに近い石墓が伝播しています。基本的に支石墓制を持つのは畜産を行う騎馬民族。それが朝鮮半島に分布しているのは、古代朝鮮人が騎馬民族だった証明になります。前述した松菊里古墳の方形住居は騎馬民族の家で、それを楚から来た人々が滅ぼしたといっても良いでしょう。日本列島に住む人々が混血しているように、朝鮮半島人も混血しているのです。
弥生時代前期は戦国時代後期、秦が中国を統一時期に当たります。内陸部の秦の圧迫によって、沿岸部に住む住民は難民になり、亡命するために国を離れた。彼らが朝鮮半島を南下、日本列島に到達しました。
秦が滅び、前漢が起こると東アジアは安定します。新羅の祖先である金日智(キムイルチェ)の祖先が山東省から朝鮮半島南部に移住したのもこの時期です。現在の慶州は昔、金城と呼ばれていました。後漢に滅ぼされた新の貴族たちは、金氏と共に半島南部に亡命します。それで新羅を名乗った。新羅の建国神話は騎馬民族の神話なので、彼らは大陸北部から伝来したことがわかります。ちなみに新羅から来た人が多く住んでいるのが近畿地方です。
57年、九州の奴国王が後漢・光武帝から金印をもらいます。この金印は現在、「漢倭委奴国王(カンノワノナノコクオウ)」と読みますが、正確には「カンノイトコクオウ」です。「委」という字は「倭(ワ)」と読むには無理がある。この時期、日本海沿岸は伊都国を含む国々が同盟関係を結んでいました。その中心が出雲(イツマ)。
光武帝は委奴国(出雲連合)を味方につけて、新や金の人々に対抗しました。50年頃、近畿地方に突然、方形周壕集落が出現します。北九州を追われた半島人は瀬戸内海を東へ移動し、河内平野に居を定めるのですが、この時期、瀬戸内海沿岸に出現した高地性集落が戦争の遺物と考えられています。
紀元前後の日本列島の様子が「漢書地理志」や「後漢書東夷伝」に登場します。それによると、日本は漢に朝貢していたようです。東夷伝には2世紀、倭国が大乱となったことが記されています。大乱の原因は異常気象による寒冷化です。これは東アジア全体を巻き込む動乱を引き起こします。中国では184年、黄巾の乱が勃発、その影響は日本列島にも及びました。その戦乱を鎮めるために擁立されたのが邪馬台国の女王・卑弥呼でした。

         

(3) 弥生時代の古美術

弥生時代(後期)を考察する時、注目されるものに祭器があります。それを区分すると当時の文化圏が推定できます。九州、西日本は銅剣、銅矛、銅鏡、勾玉、これが後に「三種の神器」となります。
近畿地方は近畿式銅鐸、中部地方は三遠式銅鐸、吉備・出雲(中国地方)は東西の祭器が混在する地域です。銅鐸は全国で約500個、見つかっています。多い順に兵庫県(56)、島根県(54)、徳島県(42)、滋賀県(41)和歌山県(41)です。1世紀末頃から大型化、最大のものは144センチ、45キログラムあります。銅鐸の出土地をみると邪馬台国を作った国々が推定できます。
1984〜5年、島根県の荒神谷で358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が発見されました。1996年には同じく島根県の加茂町の岩倉丘から39口の銅鐸が見つかっています。2つの遺跡は3、4キロメートルしか離れておらず、この発見から出雲が古代世界において重要な地位を占めていたことがわかりました。現在、その時発見された遺物は島根県立古代出雲歴史博物館に飾ってあります。実際に見ると迫力があります。
近畿式銅鐸を見るには滋賀県野洲市にある野洲市歴史博物館に行くと良いでしょう。1メートル近くあるたくさんの大型銅鐸群が展示してあります。ここは邪馬台国が成立する時、需要な役目を果たした地域。守山市の伊勢遺跡には中央の方形区画に大型建物群が東西対称的に配置、周囲の直径220mの円周上に三十の祭殿が等間隔に配置されている遺跡があり、ここが「古事記」に出てくる神々が会談を行った「天の夜須川(夜須は野洲)」と考えられます。さらに魏志倭人伝に登場する倭の三十国は、この遺跡の高床式住居に相当する。ちなみに和風の語源は倭風です。
銅鏡の遺物は福岡県にある糸島市にある伊都国歴史博物館がお勧め。和製と考えられる40センチの銅鏡や祭祀で破壊された銅鏡を見ることができます。博物館の近くには太陽祭祀を行った遺跡が残っています。
我々が実際、骨董屋で入手することができる物には弥生時代の古美術品は弥生式土器、中国から発掘された漢時代の遺物があります。残念なことに和製の銅鐸、銅鏡、銅剣は文化財保護法によって守られているので市場に出ることはありません。
弥生式土器には前期の板付式土器、中期の庄内式土器(畿内式)、後期の布留式土器がありますが、縄文土器と比べると意匠をほとんど施していないのでシンプルな形をしています。縄文土器は野焼き、弥生式土器は藁や土をかぶせる焼成方を用いています。形は壺・甕・鉢・皿などがあり、古美術店で入手できます。
日本の弥生時代に相当するのが、中国では戦国・秦・前漢・後漢時代。この時代の中国の古美術品は日本の遺物に比べると多様で変化に富んでいる。中国の遺物を見ていると国家とは何か感じることができます。両国の文化を比較すると、統一国家の存在、青銅器・鉄器の多様性、文字の使用の違いを認識できます。もっとも違うのが文字の有無。文字を使用することは国家形成に通じています。日本人が文字を使用する7世紀ですから、紀元前後、列島には統一国家はありませんでした。邪馬台国でさえ、吉備や出雲と同格の地方のクニにすぎません。
20世紀初頭、列強が中国に進出した時代、中国本土の考古学的発掘が始まります。戦前、発掘された遺物は列強各国に移送され、博物館などに陳列されました。その後、戦争や共産党の鎖国などで中国の古美術品の海外流出は滞りますが、1983年、ケ小平の改革開放によって中国の再開発が始まり、地中から歴代にわたる古美術品が発掘されるようになりました。90年代、私は香港に通っていましたが、あのころはたくさんの古美術品が骨董外に並んでいて楽しかった。しかし、香港返還と盗掘の禁止令が出て、中国物の入手は年々、困難になっています。その代わり、模倣品が日本に山のように入って、真贋の問題を起こしています。ネット・オーックションなどで売買されている中国物のほとんどが偽物。私は偽物を高価な値段で買っている「鑑識眼のない日本人はお人よしだな」と苦々しく思いながらオークションを見ています。中国物を扱う専門の古美術店も贋作が多いので注意してください。
両国の発掘品を比べると、当時の人々の生活観の違いが実感できます。中国人は政治的で権力志向が強く、威信財をたくさん作っている。一方、弥生人は縄文時代から続く自然との共生を基本に簡素な生活をしています。弥生時代、日本で戦争が始まったと話しましたが、それは九州や瀬戸内海沿岸など、一部の地域の話で大乱は全国的に行ったのではありません。当時の弥生人は大乱を治めるために人工都市・邪馬台を建設しました。それは徳川政権が江戸を開発したのに似ている。2009年、纏向遺跡から直線に建てられた建物の土抗跡、2000個の桃の種など、たくさんの重要な遺物が出土しました。当時のゴミ捨て場を観察すると、そこが重要な祭祀場だったことがわかります。昔、私は箸墓古墳の前で埋葬者に話しかけたことがあります。質問に埋葬者は西の空に虹を出して返信してくれました。それは楽しい思い出となっています。
江戸時代から邪馬台国は九州か近畿にあったか論争がありますが、それはほとんど解決済み。ちなみに邪馬台国はヤマタイコクと発音されますが、正確にはヤマトコクと読むのが正しい。昔の考古学者の説をいつまでも踏襲するのは、学問の発展の妨げになります。それを意図的にやっているのが、大学に勤めている御用考古学者。骨董業界も考古学界も偽物や間違った説を信じているのは共通しています(笑)。これからは中国史(五斗米道、張良、鬼道、黄幡など)などと関連付けて、邪馬台国の全容を解明するべきです。

         

(4) 現代日本に残る弥生時代の影響

弥生時代で一番、重要なのは中国人が日本を指す単語、「倭」。倭は和に姿を変えて、現在でも、和風、和様などの日本の様式美を指す言葉として使用されています。和風と京風を混同してはいけません。和風、和様は「共通の立場に立って関係を築いたもの」で、京風は「都風、雅風」を意味します。滋賀県にある伊勢遺跡の建物の配置や戦国時代の「毛利家連判状」などが和風の典型です。和風の発想は戦争のなかった縄文時代の考え方が基本になっています。ですから、和風というのは弥生時代の思想ではなく、縄文時代の様式です。弥生人は戦争が好きですから……。ちなみに前方後円墳は銅鏡と銅鐸を合わせて発送されたデザインで、そこに銅剣や銅鉾の要素は入れられていません。
一般的に弥生時代といえば、稲作を思い浮かべるはずです。しかし、弥生時代に稲作が全国に行き渡り、日本人が米を食べていたかどうかは疑問が残る。現代人は米を窯で蒸して食べますが、弥生時代に窯道具はありません。日本人が蒸し米を食べるようになったのはかまどが日本に伝来した5世紀。それまで、日本人は米を雑穀などと一緒に煮て、粥にして食べていました。五穀という言葉がありますが、弥生時代、米は五穀の一種に過ぎない。ではなぜ日本人が米を大切にしたのか。米はでんぷん質が多いので美味しい、計画的に栽培できて保存が効く、酒の材料になるなどの理由が考えられます。日本列島に住む日本人は米を食べるようになって虫歯が増えたようです。
稲作文化が日本に伝来すると、土木技術に変化が起こります。水田は水平に水を引かなければならないので確かな土木技術が必要。それを弥生人たちは総出で行っていた。それで集団が生まれ階層ができ、他国との争いが始まった。男たちは農耕、戦闘に忙しいので、祭祀はまとめて女性が行うことになります。縄文時代は集落全員で祭祀を行っていたのですが、弥生時代になるとそれが専門家した。中国では政治家が専門家したのですが、日本では祭司が専門家し、その子孫の代表が天皇家ということになっています。
弥生人は稲作技術を持って大陸や朝鮮半島から渡来したのですが、紀元前後の先住民と渡来人の割合は10対1だと考えられています。ところが、稲作が全国に普及すると弥生人的な人々が圧倒的に多くなる。縄文人と弥生人は急速に混血する。小田原市に紀元前100年頃の中里遺跡があり、ここには縄文人と弥生人が一緒に暮らしていた異物が残っています。遺跡に残された弥生人の人骨は男性の平均身長が163pで、縄文人の158cmを上回っています。寒冷地から渡来した弥生人の顔つきは縄文人に比べると平坦です。やわらかい米が主食なので顎が退化している、俗に言う醤油顔です。
現代日本人の生活における弥生時代の影響を列挙してみましょう。

【1】 世界的に見て主食は小麦を使う地域が多く、米は野菜の一種と考えられていますが、日本人は米を主食だと考えている。これは日本人が小麦よりも米を大切にしたからです。小麦も弥生時代に伝来しているのですが製粉技術が未発達だったので普及しませんでした。明治時代まで製粉技術が必要な小麦料理はぜいたく品でした。
副食は縄文時代と同じ。クニが統一的な祭祀を行うことによって、他地域の食材を運送するようになります。内陸部にある巻向遺跡からは瀬戸内海で捕れる魚介類の廃棄物が出土しています。
【2】 日本には自然崇拝の思想があり、それが弥生文化と混ざって独自の祭祀を形成した。日本人は開発できる自然と開発してはならない地域を設けました。
開発した地域には中国型の都市が建設され(京風)、開発されない地域は神域として手つかずの状態で残されています。政治的な都市は官僚が支配、祭司的な自然は宗教家が支配します。外国は都市の祭祀が重要視されるのですが、日本人は都市と自然を同列に考えています。
【3】 日本には複雑な美術(密教的)と簡素な美術(顕教的)があるのですが、簡素化する美術は弥生時代に始まっています。日本人は人工的なクニ(環濠集落)に住むことによって自然と切り離されました。都市と農村部の様式が個別化して、それぞれの美術様式が確立されました。都市部では青銅器、ガラスを製作する技術が発達しました。
【4】 縄文人は四季のサイクルを基本にして生活していますが、稲作が伝来すると、日本人は稲作のサイクルによって生活するようになります。稲作民にとって田起こしをする初春から米を収穫する秋が一年で一番、重要な季節です。このような生活リズムは縄文人にはありません。

最後に各地の有名な弥生遺跡の紹介をして終わりたいと思います。現在、各自治体では北は北海道から南は沖縄まで博物館を持っています。そこに行くと弥生時代を体感できます。

@垂柳遺跡(最北端の弥生水田跡がある。青森県南津軽郡)
A登呂遺跡(弥生時代の代表的な遺跡。静岡県静岡市) 
B巻向遺跡(邪馬台国の遺跡。奈良県桜井市) 
C唐子・鍵遺跡(弥生時代の集落。遺跡奈良県磯城郡)
D野洲市歴史博物館(大型の銅鐸が展示されている。滋賀県守山市)
E神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、出雲玉造遺跡(島根県立古代出雲歴史博物館に展示)
F土井が浜遺跡(埋葬人骨の遺跡。人類ミュージアム併設。山口県豊浦郡)
G板付遺跡(初期の弥生集落。板付遺跡弥生館併設。福岡市)
H平原遺跡(周辺に支石墓がある。伊都国歴史博物館併設。福岡県前原市)
I菜畑遺跡(初期の弥生遺跡。末盧館併設。佐賀県唐津市)

そして、弥生時代を体感することのできる重要な遺跡が「佐賀・吉野ヶ里遺跡」です。吉野ヶ里遺跡、巻向遺跡、出雲周辺に行くと、紀元前後、稲作を始めた日本が体感できます。
(終わり)

         

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