このページは2015年2月7日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第15回 「日本絵画の歴史と収集」 (1) 簡単な日本絵画史

日本絵画の歴史は縄文時代にさかのぼります。縄文人は土器の表面に動植物、祭司、赤ん坊の絵を描いています。縄文土器は立体的なので平面絵画というよりはレリーフと言った方が良いかもしれません。弥生時代になると土器の表面に線画が描かれます。奈良県田原本町にある唐子鍵遺跡からは楼閣やシャーマンの絵のついた土器が出土している。同時期、銅鐸の表面には狩りの様子などの線画が描かれ、プリミティブですが、P・クレーのような感じで人を惹きつける魅力を持っています。
日本人が平面に意識して絵画を描くようになったのは飛鳥時代。「日本書紀」に「飛鳥寺を創建した時、画工がいた」と記述されているので、壁画が描かれていたことが推測できます。記録に残っている最古の絵画は、今は失われてしまいましたが、法隆寺金堂の壁画は白鳳時代(645年〜710年)です。同時代のものでは高松塚古墳やキトラ古墳の壁画が残存しています。前者は仏教、後者は道教に関するもので、7世紀頃の日本人が大陸文化を積極的に取り入れていたことがわかります。藤原京にはたくさんの壁画があったと想像できますが、遺品は極めて少ない。ですから同時代の唐、新羅絵画を研究して、古代の日本美術を考察します。キトラ古墳の壁画とそっくりな壁画が高句麗から発掘されているので、キトラ古墳の作品は高句麗人が描いたことが推測できるでしょう。
天平時代の代表作は「絵因果経」や薬師寺にある「吉祥天像」。この頃から貴族が仏教画を絵師たちに描かます。中世の西洋絵画の主題はもっぱらキリスト教関係の題材ですが、絵画=宗教画が当然の時代でした。絵具は高価なので、王侯貴族や寺院関係でしか製作できなかった。それは密教が流行した11世紀まで続きます。ちなみに庶民が使っていた墨で人物像などが描いた土器などが残っています。古代人は落書きをしていたのですね(笑)。
中国の宋時代(960年〜1279年)、掛軸が流行します。良質な墨が生産され、水墨画が出現します。それまで絵画は色彩のあるものだと考えられていましたが、淡彩画が開発されると、一気に絵画の領域が広がりました。今年の夏、「中国国宝展」に、宋時代の初期の水墨画が出品されていましたが、とても素晴らしいものでした。宋の時代は山水画の他、「清明河上」のような風俗画も描いています。宋は士大夫を登用、文士文化を創造しました。彼らの好みは簡素な禅宗です。前王朝の唐は貴族的だったので、水墨画などは見向きもしませんでした。宋の水墨画は10世紀後半には日本に伝来しているのですが、日本の貴族は唐の貴族同様、水墨画に目もくれなかった。日本の貴族は浄土への憧れが強かったので極彩色の絵画を求めました。
日本で掛軸が認知されるようになったのは禅宗が興隆した鎌倉時代後期です。南宋が元に滅ぼされると、南宋から優秀な禅僧が日本に渡来します。鎌倉幕府は彼らを保護し、本格的な禅宗を日本に導入され、掛軸が採用されるようになりました。
室町時代、禅宗が日本に定着すると、日本人の手による水墨画・山水画が描かれるようになります。最初に描かれた代表作は如拙の「瓢鯰図(1415年)」。室町時代には禅画の大家に雪舟等楊(1420年〜1506年)、雪村周継(1504年〜1589年)が出て、活躍しました。さらに狩野派の基礎を築いた狩野元信(1476年〜1559年)や土佐派の基礎を築いた土佐光信(1434年〜1525年)も、同時代の人です。
桃山時代、狩野派からは狩野永徳が出て、襖絵(障壁画、屏風)を大きく発展させます。狩野派は信長や秀吉など、時の権力者に取り入り、絵画界での地位を確立しました。しかし、江戸時代前期になると戦国時代の気風も失われ、狩野派は画一的で形骸化した絵しか描けなくなります。
そこに登場したのが俵谷宗達などの町人画家です。宗達は扇谷の絵師ですが、本阿弥光悦などと共に琳派を形成、後の日本絵画に大きな影響を与えます。宗達の描いた絵は狩野派と土佐派を合体させて装飾性を加えています。簡素化したデザインが日本人の好みに合うので、尾形光琳、酒井抱一が継承した琳派の絵画は現在でも人気があります。
江戸時代前期、清から黄檗宗の隠元(1592年〜1673年)が新しい絵画様式、煎茶文化を持って長崎に来日すると、日本の知識人はその影響を受け、新しい日本絵画の創作に励みます。臨済宗の白隠(1686年〜1769年)なども、黄檗宗の影響を受けて独自の画境に達した一人です。白隠の絵は、唐津焼の絵付けと類似性が指摘されています。
日本独自の禅画を白隠が確立したといっても過言ではないでしょう。

           

(2) 江戸時代中期の絵画の展開

黄檗宗が日本の絵師たちに一番、影響を与えたのは文人画の領域です。明末に董其昌(『画禅室随筆』)という優れた文人画家が現われ、南画の理論を確立しました。それが黄檗宗の僧侶たちによって招聘されたのです。世の中が平和になると、武士たちは趣味や芸事に時間を費やします。そこで武士の中にも文人画家が現れ、南宋画(南画)が流行しました。
初期の文人画家に祇園南海(1676年〜1751年)がいます。彼は紀州藩医の子で、若い時分から文的な才能を発揮しています。南海は1713年、紀州藩校・講釈所の督学(校長)で、黄檗宗の僧侶や多くの文人墨客たちと交わって当時の代表的な知識人となりました。画業においては柳沢淇園、彭城百川などを指導、与謝蕪村、伊藤若冲、曽我蕭白などに大きな影響を与えています。
柳沢淇園(1703年〜1758年)は甲府藩の重役の子息で、幼い頃からエリート教育を受け、各分野(篆刻・煎茶・琴・笛・三味線・医術・仏教、剣術・槍術・弓術・馬術など)で才能を発揮した天才です。淇園の絵を見ると、才能の一端を垣間見ることができます。池大雅の才能を見抜き、中国文人画を伝えたのも淇園の業績です。
彭城百川(1697年〜1752年)は名古屋の薬種商の出身で、日本で初めて南宋様式の山水画を描いた画家です。百川は町人だったので先の二人とは違う職業画家で、教養よりも俳諧から学んだ感性で画風をまとめています。後の文人の中で百川の影響を受けた作家に与謝蕪村がいます。
池大雅(1723年〜1776年)は京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くになくして経済的に困窮した生活を余儀なくされましたが、その才能を柳沢淇園に見出され、文人の道を歩み始めます。大雅は探求心旺盛な画家で、室町絵画、琳派、西洋画などの表現を取り入れて独自の画風を確立、川端康成の募集品として有名な「十便十宜図(清の劇作家李漁が、別荘伊園で十の便利と十の宜いことをうたった詩を絵にしたもの)の作者です。大雅が「十便図」を、蕪村が「十便図」を描いています。大雅の絵を見た蕪村が、「画業は大雅にはとてもかなわない」と落胆したエピソードが伝えられていますが、与謝蕪村(1716年〜1784年)の「夜色楼台図」は「十便十宜図」と共に国宝に指定されているので、彼の画業も捨てたものではありません。「春の海 終日のたりのたり哉」。蕪村も一種の天才ですね。
この時期、白隠の影響を受けて独自の画風を確立した絵師に曽我蕭白(1730年〜1781年)がいます。白隠や曽我蕭白の絵はデフォルメされているので奇異な感じが、外国人に受けています。
同時代、文人とは別に写生を中心とした絵画を描いた画家たちがいました。伊藤若冲(1716年〜1800年、錦市場の青物問屋)、円山派を開いた円山応挙(1733年〜1795年、農家の次男)、四条派を開いた呉春(1752年〜1811年、金座の平役)などの写生画家です。彼らはあらゆる画法を融合させ、日本絵画に新しい領域をもたらしました。伊藤若冲は近年、外国人の評価が高く、外国経由でその画業が再認識されています。後期印象派で、点描画で有名なスーラよりも、点描画法の使用は若冲の方が早い。
18世紀中期、徳川吉宗が奨励した蘭学が定着すると、司馬江漢や平賀源内など、洋画を描く画家も現れます。彼らは絵画の他、オランダ正月などの興行をして、蘭学を江戸に広めました。
また、肉筆画家とは別に浮世絵(錦絵)を描く絵師たちが、江戸で出現します。彼らは出版業の興隆と共に浮世草子の挿絵、首絵、役者絵などを描きました。喜多川歌麿や葛飾北斎などは肉筆画もたくさん描いています。昨年、歌麿が描いた雪月花三部作の一つ、「深川の雪」が66年ぶりに発見されて公開され、話題になったのは記憶に新しいところです。
大まかに江戸時代中期以降の絵画の歴史をお話ししましたが、現在、骨董業界に流通している掛け軸は、これらの画家たちの系譜から発生したものです。日本画は画風を前代に求めれば、開祖にたどり着くことができます。それらの表現は時代や個性と共に変化し、市場で流通しています。
面白いのは絵画表現と、同時代の陶磁器の絵付けが似通っている点です。当然といえば当然ですが、絵画、建築、陶磁器の表現が領域を超えて影響し合っていることを認識しておくと時代の感じがつかめると思います。

         

(3) 掛軸の様式と発展

江戸時代は封建制度が行きわたっていたので、家の格式で書院や家屋の構成が定められていました。大名は公用に白書院を、私的には黒書院を使用しました。武士や寺院、町人にもこと細かく封建制に沿った生活が決められていたようです。武士や大寺院の応接間には襖絵や床の間を使用することが許されていたのですが、一般庶民には浮世絵に接するのが関の山でした。それが大きく変わったのが明治維新、庶民にも床の間の使用が許されたことによって掛け軸の需要が一気に拡大します。
床の間と掛け軸の歴史について簡単に説明しておきましょう。
掛軸の流通には禅宗建築が大きな影響を及ぼしています。書院建築の先駆けとなった慈照寺(銀閣寺)東求堂・同仁斎で、それに床の間などを備え付け、書院造様式(園城寺光浄院)が完成しました。
掛軸文化の発展に大きな影響を与えたのは「茶の湯」です。千利休が掛軸の重要性を説くと、茶人たちはこぞって軸を床の間に掛けるようになります。利休は季節や来客者によって掛ける軸を取り換えたので、床の間の扱い方が変わりました。現在、日本人は掛軸を季節など、用途によって取り換えるのは利休以降のことです。
戦国時代が終わり、江戸時代になると幕府による封建秩序が確立され、格式を備えた書院が出現します。その代表が二条城・二の丸書院。幕末に徳川慶喜が大政奉還を大名たちに告げた場所です。
この時期、明朝式表具が日本へ伝来、表具の種類が増えます。表具には大和表具、文人表具、茶掛け表具、本尊表具の4種類があり、それが「真行草」の3つの形式で軸装されます。表具の素材には紙、金襴、銀欄、緞子、紗などの裂が、一文字と風帯は共裂が、中廻しには別の素材が用いられます。通常、一文字に最上の裂を使うのが普通です。風帯の起源の逸話に、「昔、中国で掛軸を屋外で鑑賞する習慣があったのですが、燕が汚物などを落として鑑賞の邪魔をするので、燕の嫌いな紙の条をつけた」があります。多分、初期の風帯は風になびきやすい細い紐のような物がついていたのでしょう。それがいつの間にか様式化し、幅のあるものに変わった。本当かどうかはわかりませんが、面白い説です。
関東では上一文字がした一文字の幅の2倍で装飾されていますが、関東よりも畳の大きな関西では上部を少しだけ短い幅にします。これを見ると、関西で表具された物か、関東で表具された物かがわかります。関西の畳は955o×1910o、関東の畳は850o×1760oです。関西出身の私が初めて関東の六畳間を見た時、なぜか狭く感じたことを覚えています。
掛軸の下部には象牙、紫檀、カリン、堆朱、水晶、鹿骨、磁器で作った軸先が付いています。南画には木製、仏画には金属、水晶などの軸先が使われます。掛軸は一般的に桐の箱に納められます。箱には箱書きが伴い、その有無で大きく値段が異なります。
ベテランの古美術商は掛軸を開かなくても、軸先や共箱の様子で掛軸の質がわかります。昔、私は業者市場で尾形光琳の軸を入手したことがありますが、箱を見た瞬間、中身が本物であることを感じ、競り落とすまで声を出し続けました。
江戸時代中期(18世紀)、文人画が流行するようになると表装に使われる素材(西陣織、錦など)が華麗になります。それを支えたのが上方の町人たちです。
一方、武士は威厳を保つために書院、床の間を作ります。時代が下ると、領主や代官を迎えるために庄屋などの家に床の間が備え付けられますが、それはあくまで来賓用の床の間でした。
庶民や農民は床の間とは無縁でしたが、19世紀に幕府の規制が緩むと、一般の人でも床の間を作って掛軸を楽しめるようになりました。この時代、活躍した画家に谷文晁(1763年〜1841年)がいます。文晁の軸の99・9パーセントは偽物ですが、これは庶民が谷文晁の絵を求めたことに由来します。文晁の落款が入っていれば真贋を問わず、庶民は床の間に掛けました。
明治時代になり四民平等になると、各家庭に床の間が設えられます。そこで掛軸の需要が急に高まった。ですから、残っている掛軸は明治以降のものが圧倒的に多い。
日本人は昔から掛軸を飾っていたように思いがちですが、一般市民が掛軸をかけるようになったのは明治時代以降です。「よくもまぁ、これだけの量を描いたな」と思えるほど、掛軸が残っています。それを見ていると明治の文明開化は西洋文明を取り入れただけではなく、庶民が江戸時代の上層階級の生活様式を取り入れたことがわかります。内なる文明開化といったところでしょうか。
明治時代、床の間の拡散とともに、天皇家に関する掛軸も拡散します。日本書紀や古事記に題材を求めたものが増え、軍事大国になるにつれ、神武天皇の東遷、神功皇后の三韓征伐などの古代神話の題材が増えます。

         

(4) 日本画や掛軸の収集と楽しみ方

戦後、欧米文化が入ってくると洋間に油絵を掛ける習慣が定着し、軸の文化は廃れていきます。最近は家がモダンになったので和室も減り、掛軸を飾る床の間も減少しています。現在、東京で床の間を備え付けてある家は贅沢な家だと言えるでしょう。
最近、敷板を使った置き床を利用する人が増えています。敷板の場合、床の間を設置する必要がなく、移動が自由なので人気があります。そこに花を生けた器を置き、壁に日本画を描けると部屋の感じに変化が出ます。2畳の畳があれば、簡易和室の出来上がり。インテリアは発想の問題だということがわかります。
町を歩いていると時々、表具屋さんを見かけます。表具をして生活出来うるのかな、と心配するのですが、潰れない。表具屋さんを見ると日本にも、まだ床の間の文化が残っていることを感じます。そのような文化を支えているのは、墨書を配布する寺院、あるいは古い軸を所持している寺院、美術館、個人の掛軸収集家などです。
古美術商をしていると製作された軸の多さに驚きます。日本にはまだまだよい軸がたくさん残っているのですが、日本人自身がそれに気づいていない。幕末、浮世絵の芸術性を日本人自身が気づいていなかったような感じです。
掛軸が認知されていない理由は、
〈1〉床の間がなくなった
〈2〉軸の真贋を見分けるのが難しい
〈3〉古美術商や美術評論家などと称する人たちの日本画に対する無知
などが挙げられます。「何でも鑑定団」などに登場する谷文兆の軸の9割9分以上が偽物です。目の利かない骨董屋が本物だと信じて高価な値段でお客様に売るから、軸に対する信用がなくなる。日本人が有名な画家の作品(ブランド)を欲しがるので、騙されてしまうという傾向もあります。大銘でなくても良い軸はたくさんあるのですが、その良さを解説できる人が少ないのも事実です。
それでは掛軸など、日本画とどのようにつき合っていけば良いか。まず、最初に銀座などの画廊に行って現代作家の絵画の値段を知ると良いでしょう。ちょっとした若手の作家のものでも高いですよ。それから古美術店に行き、無名でも良い日本画や掛軸を見せてもらい値段を聞くと良い。大銘作家を扱っている画商は商売気が多いので、利益率の高い作品を勧めますが、無名でも自分の感性に合う作品を紹介してくれる古美術商に出会うと、新しい美術の世界が見えてきると思います。
日本画や掛軸を楽しむコツをいくつか話すと、
〈1〉季節ごとに作品を掛け替えて楽しむ
〈2〉他の古美術品との組み合わせを楽しむ
〈3〉各時代に描かれた掛軸を通して、様々な様式の作品に楽しむ、です。
良心的な古美術商は、用途、季節、値段を言えば、即座にどの程度の作品を購入できるか答えてくれます。そのような古美術商は他のジャンルの古美術品にも目が利くので、つき合うと楽しいと思います。ちなみに日本画、掛軸の画題には仏画(絵像、名号)、肉質浮世絵、山水画、花鳥画、墨蹟、古筆、色紙、短冊、手紙などがあり、掛軸には二幅対、三幅対、四季を描いた四幅対、十二か月を描いた十二幅対などの連作があります。
私は1万円から3万円くらいの手頃な日本画、掛軸を揃えてお客様に紹介しています。この金額を出せば、意外と良い作品にめぐり合うことができるでしょう。
現代、インターネットの普及で情報は簡単に入手できるような状態ですが、たくさんの作品を見ることはできても、選択(セレクト)が難しい時代になっています。作品の選択をする時、自分の好みを話し、古美術商とコミニケーションをとりながら美術的領域を広げると良いでしょう。
日本は世界的に見ても、残っている作品の数も多く、古美術品に関しては物質的満足感を得ることができる国です。大切なことは、いつまでも若々しい好奇心のある感性を維持し、出会いを求めることだと思います。
(終わり)

         

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