このページは2014年7月5日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第10回 明治時代以降、日本の古美術品の発見、ブーム・流行の系譜(新感覚骨董まで)

(1) 幕末・明治時代の状況、アーネスト・フェノロサ

骨董講座は10回目です。講座を始めた当初、受講者がいるのだろうかと心配しましたが、会を重ねるごとに皆で楽しい時間が過ごすことができ、良かったと思います。今回のテーマは「明治時代以降、日本の古美術品発見、ブーム・流行の系譜(新感覚骨董まで)」です。明治維新以降、日本人が古美術品をどのように発見し、扱ってきたかをお話します。
幕府が政治を行っていた江戸時代、日本人は公方様(将軍)が最高の権力者だと考えていました。しかし、ペリーの来航、開国以降、幕府の権威は失墜、権力は徐々に京都の天皇家に移っていきます。それが決定的になった大政奉還、明治維新で日本人の文化観に大きな変化、西洋文明の受容と和風文化の変容が起こりました。
1868年頃、明治新政府が「太政官布告」、「大教宣布」を発すると、寺院や仏像を破壊する「廃仏毀釈運動」で起こります。新政府の目的は神道と仏教の分離でしたが、政府との意図とは別に、民衆は物価高騰や政情不安のはけ口を幕府の出先機関であった寺院に向けたのです。江戸時代の仏像に鼻と手が欠損している仏像がたくさんありおますが、これらは廃仏毀釈の時に破壊されたものです。文化財の破壊は中国の文化大革命、2001年、タリバンによるバーミヤン石仏の破壊などでも起きています。文化財に罪はないのですが、人は偶像を破壊して新しい文化を築こうとします。逆にレーニンやフセインの銅像を破壊することもあります。薬師寺の東塔は材木屋にもう少しで売却されるところでした。破壊された仏像や仏教用具が現在、残っていればと考えると虚しい気持ちになります。
現代の感覚からすれば戦争や破壊は愚かな行為ですが、人間自体に自然に対する破壊衝動があるので、それを止めることは不可能です。簡単にいえば人間は自然を破壊して文明化する歴史を持つということです。明治政府が行った神仏分離は長い間、日本人の宗教観であった神仏習合の概念を根底から覆すことになりました。
布告後、国は寺院の幕府が持っていた寺院の領地を没収、それを神社に変更して天皇家を中心とした新しい体制を築きます。幕府の滅亡によって武家文化が消滅。当時、藩は300くらいあったのですが、そこに仕えていた茶道、能役者も職を失います。大名も同様で家を守るために家裁道具を売り、財政的な逼迫から逃れようとします。その時、放出された大名道具が財界人や文化人の手に渡ることによって明治の古美術界が始動しました。明治時代初頭は文化的な混乱期だったのですが、西南戦争の終結で新政府の政治も安定し、新しい文化の構築が始まります。それを先導したのが西洋から来日した「お抱え外国人」の先生たちでした。
1878年(明治11年)、大森貝塚や弥生土器を発見したエドワード・モースの紹介でアメリカ人のアーネスト・フェノロサ(1853〜1908年)が東京大学の講師として来日します。彼の講義を受けた者に岡倉天心がおり、二人の出会いによって伝統的な日本文化の見直しが始まり、東京美術学校(東京芸術大学)が創設されます。同年、法隆寺が寺院を存続する資金抽出のために大量の寺宝を皇室に献納。廃仏毀釈で危機的状況に陥った各寺院は皇室や国家との繋がりを通して寺の存続を保持しました。それらの美術品を基にして、1882年(明治15年)、東京国立博物館が上野に創建されます。翌年、鹿鳴館も建設されますが、日本が西洋文明に目を向けた時代、伝統文化の保護にも関心を向けたのです。
1884年(明治17年)、フェノロサは日本美術行政の職に就き、文化財保護活動を始めます。彼は岡倉天心とともに近畿地方の古社寺宝の調査を行い、1886年、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音を開扉させ、日本人の近代的文化財保護観を変えました。ちなみに「国宝」という概念はフェノロサが作った概念です。
フェノロサと共に日本文化財の保護活動を行った人物に岡倉天心(1863〜1913年)がいます。天心は東京美術学校や日本美術院を創設して、日本人の文化観に大きな影響を与えました。1890年から3年間、東京美術学校で行った「日本美術史」の講義は重要で、それが日本人の古美術品概念を作ったといっても良いでしょう。
天心は美術教師であると同時に政治家としても優秀な人でした。文部官僚の九鬼隆一をパトロンとして活動を行っています。しかし、1898年(明治31年)、天心の伝統偏重の独断的なやり方が反発を招き、東京美術学校を排斥され辞職、連帯辞職した横山大観と共に日本美術院を設立します。
明治時代前半、日本人は自分たちの伝統文化を否定したので、多くの美術品が海外に流出しています。アメリカのボストン美術館は日本の美術品の宝庫ですが、その基礎を築いたのがフェノロサと岡倉天心です。後進国の文化財が先進国に流出することは往々にして見られる現象で、戦前、李氏朝鮮の文化財の多くが日本に流入しました。それは朝鮮人自身よりも先に文明化した日本人がその重要性を認識したからです。大正時代、民芸運動を行った柳宗悦、浅川伯教たちが発見した朝鮮美術は、フェノロサや岡倉天心が行った活動の系譜上にあることがわかります。
近年、アフガニスタンのガンダーラ期の仏教美術が海外に流出して批判を受けていましたが、逆に言うと流出したからアル・カイーダの破壊から文化財を守れたという側面もあり、文化財保護の難しさを感じさせます。
明治時代、日本人は自分たちの作った伝統的な美術品を破壊しました。そのことを考えると、文明化というのは逆に、自分たちの伝統文化の重要性に気づくことだということがわかります。

             
     甲冑         大名道具         茶道具       廃仏毀釈     フェノロサ   岡倉天心   東京芸術大学 

(2) 財閥形成、白樺派、民芸運動

日本の古美術品を扱う東京美術倶楽部が創設されたのは1907年(明治40年)です。当時の日本は日露戦争に勝利して外国との不平等条約も解消され、先進国の仲間入りをした時代でした。この時期、日本の近代化の基礎が作られました。次の転機が訪れたのは第1次世界大戦の時期で、戦場となったヨーロッパとは別に、日本は東アジアで漁夫の利を占め、好景気に沸きます。この頃、財閥が形成され、各団体の幹部たちはこぞって古美術品の収集に乗り出しました。その代表が三井財閥の益田孝(鈍翁)、十五代・住友吉左衛門などの実業家です。彼らは収集した古美術品を使って茶会を催し、政治・経済的な情報交換をして企業活動を行いました。これは安土桃山時代、信長や秀吉が利休とともに茶会を催したことと似ています。
当時の財界人の様子を物語るエピソードに「佐竹三十六歌仙絵巻」の売り立てがあります。1917年(大正6年)、佐竹家から「佐竹三十六歌仙絵巻」が売り立てに出され、貿易省・山本唯三郎が購入しました。しかし、大戦終戦による経済状況の悪化で1919年(大正8年)に、それが再び売りに出されます。当時、日本は不況下にあったので、財界人たちも一人で絵巻を購入することができません。そこで益田孝が分断を決断して37人(住吉明神図を含めたため)で、この絵巻をくじ引きで購入することに決めました。発起人の益田は「斎宮女御」が欲しかったのですが、くじに外れたため機嫌を損ね、その様子を見た参加者たちが話し合って、「斎宮女御」を益田に譲ったという逸話が残っています。

第二次世界大戦が終結すると財閥は解体され、古美術品は個人から会社に移行されます。各企業は所有する古美術品の保管・展示のために企業活動の一環で美術館を設立します。以下にあげた美術館は企業が作った美術館です。また、企業とは別に宗教団体も文化事業の一環として美術館を建設しています。日本には公立、私立の美術館、博物館が合わせて約1100個あります。目的は様々ですが、各地の美術館が日本の文化を支えているといって良いでしょう。

企業運営の美術館
・静嘉堂文庫(三菱・1892年) ・大原美術館(クラレ、中国電力・1930年)
・根津美術館(東武鉄道・1940年)
・永静文庫(細川家・1955年) ・五島美術館(東急電鉄・1960年)
・泉屋博古館(住友商事・1960年) ・サントリー美術館(サントリー・1961年)
・畠山記念館(荏原製作所・1964年)
宗教団体運営の美術館
・天理参考館(天理教・1930年) ・MOA美術館(世界救世教・1952年)
・みほミュージアム(神慈秀明会・1997年)

大正時代、財界人は名物を収集していたのですが、庶民の間にも大衆文化が起こります。雑誌「キング」や「白樺」の発行によって一般人でも古美術品に触れる機会が訪れました。大正デモクラシーの1908年に創刊された「白樺」は学習院の生徒たちが軍人主義を標榜する乃木希助に反発して編集した雑誌ですが、大正期の日本文化形成のうえで重要な役割を果たしています。白樺に投稿した武者小路実篤、志賀直哉、有島健郎などの作家たちは従来の古典教養よりも西洋文化に着目、ロダン、セザンヌ、ゴッホの紹介を行いました。同人には中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生などの画家がおり、新しい文化形成を行います。大原孫三郎が倉敷に建てた大原美術館(1930年開館)は日本有数の西洋絵画コレクションのある美術館ですが、世界的に見ても昭和初期に近代絵画のコレクションを展示する美術館を開設したことは画期的なことです。現在でも倉敷は文化レベルが高く、個人の古美術品収集家もたくさんいます。これは倉敷に大原美術館があったことが要因でしょう。大原は柳宗悦の民芸運動を支援し、1936年、日本民芸館の開館にも協力しています。
「白樺」の同人に日本民芸館を創建した柳宗悦(1889〜1961年)がいます。柳宗悦はイギリスのウィリアム・モリス(1834〜1896年)の「アーツ・アンド・クラフツ運動」の影響を受け、庶民の使う日常雑器に美を見出しました。柳は陶芸家の浜田庄司や染色家の芹沢_介らと一緒に昭和初期、民芸運動を始めました。

             
   益田孝     佐竹三十六歌仙      大原美術館        白樺      柳宗悦     李朝白磁壺     唐三彩 

(3) 青山次郎、中国古陶磁、文化人の骨董収集

意外に知られていないのですが初期の民芸運動に青山二郎が加わっています。しかし、青山は柳宗悦や浜田庄司の民芸理論に嫌気がさして運動から遠ざかります。1927年(昭和2年)、青山は実業家・横河民輔の蒐集した中国陶磁器2000点の図録作成、彼が図録作成した古美術品は現在、東京国立博物館東洋館の基礎となっています。この時、青山は26歳。驚くべき天才です。
明治時代末期から大正時代にかけ、日本人は大陸に進出、中国や朝鮮の古美術品に出会います。朝鮮の古美術品を発見したのが民芸運動の柳宗悦や浅川伯教、中国の古美術品に目を付けたのは古美術商の繭山松太郎(1882〜1935年)です。繭山は1905年(明治38年)、単独で北京に渡り、古美術品の商いを始めました。当時、北京は欧米での東洋美術収集熱に伴い、東洋美術市場の中心でした。鉄道工事中に発掘された考古学品、清朝動乱期に流出した故宮の伝世品など、多くの古美術品が北京に集まっていました。茶道具や武具が古美術の中心だった時代、中国の古美術品に目をつけた繭山の勘は鋭い。
1912年、大阪の老舗古美術商・山中定次郎(1866〜1936年)が清朝恭親王のコレクションを購入、それをロンドンやニューヨークで売り出します。この成功によって山中定次郎は1918年、山中商会を設立、世界的な古美術商になりました。
1924年(大正13年)には東京神田連雀町に広田松繁によって「壺中居」が創業されます。広田が収集した古美術品は広田コレクションとして東京国立博物館収集品の基礎となっています。彼らが中国や朝鮮から輸入した古美術品を購入したのは当時の財界人、文化人たちです。

戦前から戦後にかけて、青山二郎のもとに小説家や評論家が集まり、文化サロン(通称、「青山学校」)を作りました。青山の家には小林秀雄、中原中也、河上徹太郎、三好達治、大岡昇平、北大路魯山人、白州正子など、錚々たる顔ぶれの文化人が集まって来ました。彼らが募集したのは旧財閥から流出した古美術品、青山二郎の見立てた骨董品(中国・朝鮮陶磁)です。
昭和30年代、高度経済成長で生活に余裕が出ると、庶民は娯楽を求めて観光地に出かけ、趣味にお金をつぎ込むようになります。この時期、中国からの発掘品の輸入が止まり、旧財閥から流出した古美術品も品薄となったので古美術商たちは次の商品開発を行います。彼らが目を付けたのが六古窯と呼ばれる古壺、唐津焼などの陶器、根来塗と呼ばれる漆器です。信楽焼の壺などは一部の愛好家にしか認知されていない領域のものでしたが、東京の古美術商が近畿周辺に出かけて古壺を探して売りに出します。それがブームとなって古壺は古美術品として認められるようになりました。

昭和40年代に入ると日本は一層、豊かになり、サラリーマンが骨董に興味を持つようになります。田中角栄の「日本列島改造論」で各地の開発が始まり、土蔵の解体と共に多くの古美術品が市場に出回るようになります。商品の多様化が進み、情報の拡散と相まって、小遣いで購入できる商品の発掘が始まり、それに適合した伊万里焼、民芸品のブームが起こります。昭和30年代、有名店古美術商が近畿地方の古壺を探したように、昭和40年代、日本全国を廻って伊万里焼を探していたのが「良い仕事していますね」の中島誠之助さん、民芸の森田さんです。この時期、青山周辺に古美術商が登場しますが、彼らの扱う商品は従来のものとは違うもので、それを周辺に住むデザイナーやアーチストが購入しました。当時は雑誌の創刊ブームで、それまで老人の趣味とされていた骨董収集が一般の人にも認知されるようになります。その時のヒット商品が、たこ唐草や仙台箪笥です。
昭和50年代後半、日本中がバブル経済で湧きかえりました。地価、株価の上昇で余った金が古美術界にも流れ込みます。ゴッホの「ひまわり」を大昭和製紙が53億で落札したのもバブル時代です。今から考えると当時の骨董品が相当、高値だったことを感じます。株の高値が39000円ですが、骨董品価格も連動していました。先輩の古美術商が88年、89年に限って、毎月、純利益が200万円あったと言っていました。我々に比べて先輩たちは大儲けをしています。うらやましい。
 89年後半、バブル経済が弾けると借金の差し押さえが始まり、美術品や古美術品も債務の対象となります。高値で買った古美術品も景気が悪い時、売りに出せば、安値になります。大正時代、「佐竹三十六歌仙図」の辿った運命と同じ。歴史は繰り返すのですね。

             
 小林秀雄と青山二郎   唐津 むし歯      信楽壺     初期伊万里     中島誠之助   たこ唐草徳利    弓野甕 

(4) バブル時代以降の古美術品の動向

古美術品が市場に出回るのは景気の変動期です。昭和30年代の高度成長期、40年代の列島改造論、50年代のバブル経済時代に新しい商品が見出され流通しました。
平成に入ると10年間はバブル経済の残務整理に追われます。そごうや山一証券が倒産するなど、90年代は経済的には暗い時代でした。
90年代、東京12チャンネルで「何でも鑑定団」が始まり、「お宝」に対する日本人の興味が一般化します。この番組の影響力は絶大で、勘違いも含めて日本人は古物に価値があることを認識しました。日本には多くの古美術品があるのですが、日本人自身、その価値を認識していません。それが「何でも鑑定団」によって変わりました。日本人も古美術品に対してイギリス人並みになったのです。
最近では中国人が古美術品の価値に目覚めつつあります。日頃は打ち捨てている物に価値があるのを「何でも鑑定団」で知ったのです。
90年代、流行したのが雑貨です。戦後のおもちゃ、古本、駄菓子屋のおもちゃ、ソフビ、アイドルに関する商品などで、それを買い支えたのが当時30〜40歳前後のテレビ世代です。ТBSの子供向け番組、ウルトラQにガラモンという怪獣が登場するのですが、特別仕様のソフビが600万円で売れました。ゴジラのプラモデルで20万前後、仮面ライダースナックが1袋3万円。興味のない人にとっては何でこのような値段がつくのか理解できないでしょうが、それが趣味の面白さです。その他、戦前戦後のガラス瓶、大正時代のプレスガラス、切子コップなどなど、以前は見向きもされなかった物が骨董として流通します。

2000年代、IТバブルとサブプライムバブルによる好況期が2度ありました。この時期、以前に比べると伊万里などの商品も安価になり、団塊の世代が退職金をもらって使ったので古美術業界も潤いました。リーマンショックが起きる前まで、団塊の世代は高額商品を求めました。
この時期、古美術業界に「新感覚骨董」という新しいジャンルが確立されます。それを先導したのが目白の坂田さんや西荻の魯山さんです。坂田さんは価値や概念が確定した日本の伝統的な古美術品にこだわるのではなく、グローバルな視点で感覚的な商品を扱っています。「ドゴン族の梯子の横に鉄製のおもちゃがある」といったような感じ。私自身、最初に坂田に行った時、「何だ、この雰囲気は?」と戸惑ったことを覚えています。現在では坂田さんのような感覚のほうが主流になっていることを考えると坂田さんの先見性が理解できます。
同時期、西荻に魯山の他、さる山、ギャラリー・ブリキ星、ル・ミディなど新感覚骨董のおしゃれな店がいくつか登場します。当時、西荻は魯山を中心に新感覚骨董の中心地で、どこかの出版社が西荻・新感覚骨董特集の本を出版しています。新感覚骨董派が見出したものは戦後、代用品として使用されていた雑貨です。そこには人間は貧乏でも工夫して美術品を創造する生きざまを見てとることができます。私は個人的に新感覚骨董は「代用品美術」のジャンルに入るものだと考えています。その後、西荻のまめ千代モダンさんが着物ブームを作り、西荻はレトロなアンティークの街として紹介されるようになりました。
西荻の次に注目を集めたのが、麻布十番と目白。西荻にあったさる山が麻布十番に移ると、うちださんの店などと共に新感覚骨董の中心になります。同時期、目白にも新しい感覚の骨董屋さんが登場、現在、目白は「目白コレクション」として注目を集めています。

ちなみに外国の変革期にも古美術品の流通が起こります。近年では中国の改革開放(1983年頃)で中国の発掘品、ソビエトの崩壊でロシアイコン、アフガニスタン戦争でガンダーラ仏、日朝交渉で黄海道の箪笥が海外に流出しています。それより前ですが、知り合いの骨董屋さんはサイゴン陥落の時、重要文化財の骨董品を手にしていたのですが、ヘリコプターに乗り込む時、アメリカ軍にすべて破棄さされたそうです。「もったいなかった」と言っておられました。最近、北朝鮮の古物が日本に大量に入ってきています。それを見ると北朝鮮の動向を推測できます。

最近の骨董業界を見ていると商品数が減って品薄状態になったことを感じます。それとともに外国産の模造品が増えました。業者間の市場に行っても、以前のように古物がなく、半分、リサイクル市場のような感じがあります。これはネット・オークションの出現によって流通形態が変わったことが原因です。業者の市場で売るより、ネットで売る方が高値で売れるし、店の宣伝にもなるので、直接、ネットで売る。
それから、ネットが出現して以降、消費者の感性が大きく変わったような気がします。以前は長年、骨董に携わっている古美術商を信頼して商品を購入していたのですが、現在は自分の鑑識眼を信じて商品を購入する。ネット・オークションには模造品が溢れているのですが、多くの人はそれを本物だと信じています。模造品は精巧で真作に近いので、皆、本物だと信じて気軽に購入する。それを見ていると、「日本人は古美術品の真贋など、どうでも良いのだ」と感じます。
去年、東京女子大で哲学者の黒崎先生と対談した時、「骨董には真贋があるから面白い。それに百年経てば現在の偽物でも骨董品になる。時間が骨董を作り出す」という話をして対談を締めくくったことを覚えています。結論を言えば、「骨董収集は、時間とつき合う趣味」といったところでしょうか。
(終わり)

           
  「何でも鑑定団」    ブリキおもちゃ    大正氷コップ         魯山         瀬戸石皿       剣先コップ 

上へ戻る