このページは2013年10月5日(土)に行われた骨董講座を再現したものです。

第1回 「骨董とは何か」 (1) 骨董と地層

今日は第一回骨董講座においでいただきましてありがとうございます。初めての講座ですのでうまく話せるかどうかわかりませんが、不明な事がありましたら講座後、質問に応じます。気になった点があればメモでも取って、後でご質問ください。

最初に私が骨董講座を開こうと思ったのは、三十代のお客様が「骨董屋さんは品物についての説明はしてくれるけれど、骨董全般について話をしてくれる人がいないのです」とおっしゃったことがきっかけでした。私も数年前まで忙しかったので、品物についての説明はしますが、骨董の世界についてお客様と話す機会がありませんでした。
三十代のお客様は熱心に私の骨董論を聞いてくださいます。五十歳を越した時、「若い人にも骨董の面白さを知ってもらいたい」という気持ちで、この骨董講座を始めた次第です。 今日の題材は「骨董とは何か」です。「骨董」については、いろいろな解説がありますが、私の考える「骨董」とは、字のごとく「草むらに重なった(董)骨」です。漢字は表象文字なので、文字を見ると直接、意味をつかむことができます。骨董は「地層」と言い換えることもできます。
ここで地層についての話を2つします。写真@をご覧ください。これは青森県にある三内丸山遺跡の盛り土です。この盛り土は約1000年かかってできたものです。高さが2m〜2、5メートルあります。盛り土の中には土器の破片、石器、ヒスイ製品、土偶など様々なものが埋まっています。祭祀用の製品が出土することから、この盛り土は単なるゴミ捨て場ではないことがわかります。この盛り土が「地層」、「骨董」です。
盛り土から人骨は出土していませんが、三内丸山に住んでいた縄文人の思いがこの盛り土には詰まっています。三内丸山の住民の遺骨は他の場所に埋葬してあるので、彼らが人とモノの世界を区別をしていたこと、宗教心があることが理解できます。
三内丸山の人々にとって、盛り土が祭祀的、モノ的な骨董の場所でした。
写真Aはエジプトにある「死の村」の写真です。エジプトにはルクソールに有名な「死の村」がありますが、エジプトには各地に「死の村」が存在しています。
今から十七年前、私はこの村で不思議な体験をしました。
そのことを今から話します。当時、私は中国の発掘品の収集をしていたのですが、たまたまエジプトに旅行をする機会があって、ある町に行きました。その時、興味本位で観光客用のコピー品を売る骨董店に入りました。そこで私が店主に「本物の骨董品が欲しい」と言うと、「それではついてこい」と言って連れて行ってくれたのが「死の村」と呼ばれる町でした。私は彼が「死の村」にある骨董屋に連れて行ってくれると思ました。しかし、村に骨董屋らしき店はない。おかしいと思いつつ、彼が私を連れて行ってくれたのは何の変哲もない民家でした。その家は普通の家です。
私は家の主人を紹介してもらい、お茶を御馳走になりました。お茶を飲んだ後、「それでは仕事だ」といって主人は手持ちの骨董品を数点、取り出しました。サイス朝のブロンズ、陶器、スカラベ、ローマ時代の肖像画、コプト布…。どれも本物の骨董品です。その時、私はそこで数点を求めました。商談が成立した後、私が「このような商品はどこで入手するのですか?」と聞くと、機嫌の良くなった主人が「ついておいで」と言って、私を地下室に案内してくれました。普通の家に地下室です。それも途方もない大きさの地下室。その家は地上2階建てですが、何と地下は3階建てになっていました。その地下は地上の家の敷地より広いのです。
「ここから古い骨董品を掘りだす」と、主人が言った時、私は驚きました。
「たくさん出土するの?」と聞くと、「千年分の墓がここにあるからね」と答えました。
(これは本当の骨董屋だ…)
その後、私が「穴を掘っていたら他の家の地盤が緩まないのか?」と質問すると、「時々、穴を掘っていると、隣の家の地下通路と貫通する。だから、この村の住人は皆、地下を自由に行き来できる」と笑って答えました。
西荻窪は「骨董屋の町」と呼ばれていますが、エジプトの地下には本物の「骨董の町」があるのですね(笑)。
三内丸山遺跡の盛り土は地上に造られたものですが、エジプトの墓地は地下にあります。
エジプトではピラミッドは地上、エジプトの死の村は地下にあるので、ピラミッドが祭祀用に作られたことが推定できる。ですから、クフ王のピラミッドは墓ではありません。
エジプト同様、中国にも皇帝陵がたくさんあります。その代表が秦の始皇帝です。現在は木が生えているので小高い丘にしか見えませんが、元は石造りの陵墓です。
始皇帝陵の地下に始皇帝の遺体があると考えられるので、地上部分は祭祀用の建造物だったはずです。そこで彼らが何の祭祀を行っていたかというと、再生の祭祀です。
エジプトと中国の例から古代人は祭祀を地上で行い、地下は死後の世界であると考えていたことがわかります。地上や地下に関わらず「地層」から発掘されたものが「骨董」です。


(2) 日本人の陵墓観

紀元前二千年頃、日本列島で大きな気候変動が起こります。
一か所に千五百年間、定住していた三内丸山の縄文人も環境の変化に対応できなくなり、村を棄てて移動を始めます。気候変動が生態系を変えたことによって、縄文人の精神構造を変わります。列島に住む縄文人は呪術的なお呪いを始め、独自の死生観、埋葬観を持つようになります。
この頃の遺物の代表はストーンサークルと土偶です。ストーンサークルは主に東北、関東など東北日本に見られる遺跡で、青森県にある大湯のものが有名です。ストーンサークルの中心には立石があり、縄文人はその影で季節や時刻を知りました。紀元前2000年ころのことですが、地球規模で時を確認する遺跡が出現します。イギリスのストーンヘンジが作られたのも同時代で、世界的な環境変化が人間の精神構造を変えたことがわかります。
それまで縄文人は身近な人が死ぬと、自宅の周りに遺骨を埋葬していました。遺骨に囲まれて生活していたわけです。その遺骨を埋葬した地点と太陽の運行、季節を知るために作られたストーンサークルの立石の影が一致したのを見た時、縄文後期人に「太陽と輪廻」の思想が芽生えます。この思想は後に磐倉信仰、前方後円墳に変化した後、「和」の思想に発達します。ちなみにエジプト人はフンコロガシが円(和)運動をするので、フンコロガシを太陽神の化身だと考えています。
明治大学教授の中沢新一さんの著作に「アースダイバー」という本があります。この本で中沢さんは縄文時代の関東平野がどのような状況だったか解説しています。これを読むと、縄文時代、関東平野には多くの住民がいたことがわかります。京都は1300年の歴史を誇っていますが、西荻窪には4000年の歴史があります。荻窪中学や桃井小学校のグランドを整備すると必ず縄文土器が出土します。西荻に骨董屋が多いのは、昔からここの地下には骨董が眠っているからです。仙遊洞の地下を掘れば、エジプトの「死の村」にように何らかの遺物が発掘されるでしょう。私は現在でも地中の骨董品を感じながら、古美術商を営んでいるのですね(笑)。
私は旅行が好きなので、各地の遺跡巡りをします。すると見晴らしの良い場所に縄文や弥生遺跡があることに気づきます。鳥取県の妻木晩田遺跡から見る弓ヶ浜は美しい。北上市にある樺山遺跡も美しい遺跡でした。機会があったら、2つの遺跡を訪ねてください。
日本では見晴らしの良い丘がピラミッドのような祭祀用建造物の役割を果たしました。それは日本が山国、なだらかな丘の国だったからです。古代のエジプトや中国では人工的な丘を作らなければ、住民たちは山に接することができません。メソポタミアも同様です。ピラミッドやジグラットがある場所は大体、平地です。山や丘があるかどうかで、住民の祭祀も違うのです。ですから、弥生時代の日本人はエジプトや中国人と違って、地上に祭祀用建造物を作りませんでした。見晴らしの良い丘を祭祀用、埋葬用の聖地としたのです。

日本人が人工の丘を作るようになったのは250年頃、卑弥呼の時代です。
卑弥呼の邪馬台国は現在の奈良県桜井市付近にあったのですが、そこは盆地で山に囲まれています。それではなぜ卑弥呼は人工的な丘である前方後円墳を築かせたのか?
答えは簡単、卑弥呼の取り巻き連中が大陸の思想を持っていたからです。卑弥呼の周辺には道教徒の太平道の信者がいました。その中心にいたのは魏出身の張氏です。彼らは倭人に自分たちの権威を認めさせるために前方後円墳を作ったのです。
「魏志倭人伝」に邪馬台国に対抗する狗奴国という国が登場します。狗(く)とは山を表す言葉です。筑波山は「つ」と「く」の形をした山です。ですから狗奴(くや)は「山々の民」ということになります。縄文人は山林で生活し、丘を聖地と考えていました。邪馬台国と狗奴国の戦いは、平地民と山民の戦いでした。
狗奴人は山の中の岩場で鳥葬を行っていました。それが展開して、磐倉信仰になります。サイモンとガーファンクルの歌に「コンドルは飛んで行く」という歌がありますが、あれは鳥葬の歌です。鳥葬は北方騎馬民族風習なので、それが列島に出現した時期を考察すると大陸や半島から騎馬民族が渡来したことがわかります。
邪馬台国に箸墓古墳が出現して以降、近畿地方で前方後円墳が造られるようになりました。
そのことから、列島に多くの平地民が移住してきたことがわかります。
初期の前方後円墳は円墳の頂上に作った竪穴に遺体を埋葬します。これは磐倉信仰とピラミッドの思想が重なって成立した様式です。エジプト人はピラミッドの地下に遺体を埋葬しても、頂上に遺体を埋葬しません。前方後円墳は地上最後部に遺体を埋葬するという日本人だけが行うユニークな陵墓です。繰り返しになりますが、その起源は磐倉信仰にあります。
3世紀の日本人は陵墓の形は大陸風、埋葬様式は和風を採用しています。それはインドカレーや中華麺が和食と融合して、和風カレーや和風ラーメンになったのに似ています。古代から日本人は外来の文化を和風化してきました。その始まりが前方後円墳の出現、古代の文明開化です。


(3) 最新考古学事情

ここで目先を変えて宇宙の話をしましょう。ロケットと考古学が結びついているという話です。急に考古学からロケットの話を持ち出すと、何だと思われるかもしれませんが、両者は強い結びつきがあるのです。
受講者の中には、私と同年代の方が2名、いらっしゃいます。私たちが小学生だった1960年代、アメリカはアポロを何度も月に飛ばしていました。我々の世代にとって、ロケットといえばアポロです。その直後、アメリカでは「ルーツ(根)」というテレビ番組、日本で「古代史ブーム」が起こりました。宇宙の次は、地中です。人類は先端技術が発達すると、反動で反対のものを求める傾向があります。ここで言う先端技術はロケット、反動は考古学です。
1970年代の古代史ブームが起こるまで、日本で考古学に関心がある人は少数でした。
明治大学の考古学科は有名ですが「考古学をやっている」と言うと、胡散臭い目で見られました。当時、「考古学をやっている」は「骨董収集をしている」と同様、変わった人だと思われていたのです。しかし、現在、どの町に行っても民族博物館や歴史観があり、ボイランティアの人たちが展示品の解説をしてくれます。なぜ、そのようなことになったか。
それは各分野の先端技術が進むとともに、人々の考古学的視野が広がったからです。
例をあげると、十五年前まで中国人は自国の発掘品に興味など持っていませんでした。私は香港に骨董品の買い付けに行くと、「日本人はなぜ土だらけの発掘品が好きなのだ?」と言われました。西安にある兵馬俑などは、出土品を気味悪がって壊していたそうです。兵馬俑が発見されたのは1974年ですが、それは中国人が発見したというよりも、西洋の考古学を中国人が発見したと言った方が正確かもしれません。皆、兵馬俑の存在は薄々、知っていたのです。ちょうど、ルーツや日本で古代史ブームが起こった時代、中国人もその価値に気づいたのです。中国が自家製ロケット、「長征1号」を打ち上げたのが1970年、兵馬俑が発見される4年前です。
最近、中国で考古学ブームが起こっています。十五年前まで発掘品に興味のなかった中国人が、日本に搬入された中国出土の発掘品を買い漁っています。私のところまで「唐三彩はないか?」と中国人バイヤーが訪ねてきます。昔はうちも中国骨董の専門店でしたので、たくさん在庫がありましたが、今は散逸して在庫不足の状態です。最近、中国人が発掘品を買うようになったのは、「神舟」という有人宇宙船を打ち上げたことと関係があります。
このように考古学は先端技術の発展と大いに関係しているのです。
話のついでに現在の考古学に話をします。骨董講座というよりも、考古学講座になってきましたがお許しください(笑)。
現在の考古学は放射能炭素年代測定、DNA検査、年輪法、年縞など、先端技術を使って歴史の確認作業を行っています。炭素測定法は炭素14の半減期の性質を利用して開発された年代測定法で、年縞測定法は湖底に堆積した土を分析して年代を測定します。
年縞測定法は福井県三方郡にある水月湖が世界基準地となっています。詳しいことはウィキペディアで調べてください。とにかく、私が言いたいことは現在の考古学は我々が考えている以上に科学的な分析技術に支えられているということです。
その例を一つだけお話します。私の友人にペルー専門の考古学者がいます。彼は毎年、夏休みにペルーに発掘調査に行きます。「今、何の調査をしているの?」と聞くと、「現在、千五百年前の村を発掘している。そこから出土したミイラを調査して家族関係を再構築しているところです」「家族関係?」「村の人間関係を調べて家系図を作っています」
彼は千五百年前に存在した村の家系図を作っています。このようなことは世界中の発掘現場で行われています。
1996年に起こったペルーの日本大使館占拠事件のことを覚えていますか? フジモリ大統領の時に起こった事件です。これは友人から聞いた話ですが、あの時、人質の半分が日本人考古学者だったそうです。発掘の仕事を終えて、パーティを開いている時、大使館を占領された。幸い、あの事件は日本人の死者も出さずに解決しましたが、友人は「もし、あの時、大使館で乱射でも起きていたら日本人のペルー考古学者、私たちの先生のほとんどがいなくなっていた。何事もなく解決して良かったですよ」と語っていました。
日本はペルー、チリ、エジプト、カンボジアなど世界中に考古学者を送って、各国の発掘作業を手伝っています。なぜ、そのように日本の考古学者が世界中で活躍しているのか、わかります?
答えは日本の古墳を発掘できないので、世界の遺跡を発掘しているのです。日本では宮内庁が天皇陵の指定をして、古墳の発掘を阻止しています。天皇陵でないものまで、天皇陵に指定している。去年、牽牛子塚古墳の発掘作業が行われて大きな成果が上がりました。あれは昔から斉明天皇陵と考えられているのですが、宮内庁はそれを天皇陵とは認めていない。考古学的発掘には功罪があって、高松塚古墳の壁画などは無能な考古学者に保存させたのでカビだらけになってしまった。発掘しない方が良い場合もあるうる。
私の個人的な意見は、発掘するのであれば遺跡に等級をつけて、それなりの予算を組んで発掘、保存すべきだと思います。現在の技術があれば、発掘品の保存は以前よりも格段、進んでいるはずです。


(4) ローマの発掘とルネッサンス

ローマはイタリアの首都ですが、1500年頃、ローマの人口がどれくらいだったか、わかりますか? 十万人、二十万…、答えは4万人です。意外と少ないでしょう。当時の京都には10万人の人が住んでいるので、ローマの人口は京都の半分でした。ちなみにロンドンの人口は5万人です。 1469年、イタリア人のマルシリオ・フィチーノが東方からもたらされたプラトンの全著作をラテン語に翻訳してルネッサンスが始まります。プラトニズムの流行とともに、古代ローマ文化の見直しと発掘作業が始まります。イタリア人が自分たちのルーツを求めて、地下を掘り始めるのです。発掘作業を始めると、地中から多くの遺物が出土しました。その時、ローマ時代の彫像もたくさん発掘されたのですが、住民はそれを砕いて家を石材、セメントの材料にしました。美術品を砕いて石材ですよ。それを見たラファエロが嘆いています。もっとも織田信長も似たようなことをやっていますが…。
住民にとって古代ローマ彫刻は、1974年以前の中国人の農民が発見した兵馬俑と同じだったのです。
破壊を免れた代表作はバチカン美術館にあるラオコーン像、蛇が全身に巻きついている有名な彫刻です。ラファエロたち美術家は発掘された古代ローマ彫刻の保護を教会に求めますが、教会はギリシャの神々など認めていないので彼らの意見を無視しました。1500年代のローマは、古代ローマ彫刻の破壊の場だったのでした。それを防いだのがルネッサンスを支持する人文学者たちです。
日本でも明治維新の後、廃仏毀釈が起こって多くの文化財が失われました。中国の文化大革命も同様です。最近ではアル・カイーダがバーミヤンの石仏をダイナマイトで爆発させ、その映像が世界中に流れて衝撃を与えました。
このように世界中で古物の破壊が起こっているのですが、一方でそれを守ろうとする人たちもいます。それが骨董屋です、などとは言いません(笑)。骨董屋はあくまで商売人ですので、保存すべき遺物を大切にしてくる人を探すのが役目です。育てた娘を嫁がせる親のような心境で、お客様に商品を提供しています。欲得で仕事をしている人は別ですが、まともな骨董屋さんは、お客様以上に骨董品が好きなのです。気に入っていた商品が売れると心に穴が開く、…。

……、私が骨董屋になったきっかけを多くのお客さまから訊ねられます。そのきっかけを3つ話します。
1つ目は私がアヴィニョンに留学していた時、法王庁の前の建物の屋根裏部屋に住んでいたことです。その建物は15世紀の建物で、屋根裏部屋に上がる大理石階段は1段ずつ、足跡の部分が大きくくぼんでいた。1段につき10センチは窪んでいたでしょうね。それを踏みしめながら階段を上っていると、歴史を感じました。それに住んでいた建物の扉をあけると、目の前が14世紀に建てられた法王庁です。
日本で言うと目の前に京都御所があるようなものです。それまで私は現代美術の勉強をしていたのですが、その体験をして古代美術に関心が移りました。
2つ目の理由は菊地さんに会ったことです。仙遊洞は菊地さんと二人で営業しているのですが、彼女は骨董病です(笑)。菊地さんが美大生だった頃、知り合ったのですが、その時、すでに彼女は骨董病患者でした。私は彼女の情熱に引きずられるようにして骨董屋になりました。私と菊地さんは11歳離れていますが、私が生まれて初めて骨董屋に入ったのが28歳の時、菊地さんが仙遊洞を開業したのが26歳、いかに彼女が骨董好きだったか理解できるでしょう。
ところで、ここ数年間、私は骨董屋を菊地さんに任せて、趣味の古代史小説を書くのに夢中でした。常連のお客さまがいらっしゃれば店に出るのですが、ほとんど家に閉じこもっていた。4月に書き上げた古代史小説を、ある雑誌に応募したのですが、見事に落選しました。箸にも棒にもかからなかった。才能がないのですね。
「どうしよう」と考えていた時に、菊地さんが店のホームページやネット販売を始めた。それにつられて、私も骨董業に復活しました。ところが、ここ数年、ひきこもり状態だったので、店に出ると世間が変わっていた、浦島太郎です。ネット販売、オークション、偽物の横行など、私の今までのやり方ではついていけないことばかり。それで最近、毎日、熱が出ます。怠けものが働くと熱が出るのです。
……。

店に再び出るようになって皆様とお会いできました。それに誰も来ないと思っていた「骨董講座」にまで出席いただいて、皆さん、優しいですね。最初は受講者がいなかったら、壁に向かって講義をしようと考えていたのですよ。今日は初めて講座ですが、いかがだったでしょう。これから、お茶を飲みながら雑談の時間にします。本日は第1回、骨董講座に参加していただき、誠にありがとうございました。
(終わり)


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